多文化共生のどこが問題か? (侍蟻) | 日本のお姉さん

多文化共生のどこが問題か? (侍蟻)

ようちゃん、おすすめ記事。↓

▼多文化共生のどこが問題か? (侍蟻)

http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/50910640.html
(引用開始)
東京・足立区で制定が濃厚となりつつある「足立区多文化共生推進条例(案)」について、当ブログは各地で推進される同様の動きに警鐘を鳴らし続けているわけだが、では、その危険性について足立区の条例案をもとに更に深く掘り下げてみたい。

:関連記事
参政権付与は履き違えた共生の最たるもの!
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/50907763.html
 
 足立区の多文化共生推進条例(案)から、その「定義及び基本理念」を以下に抜粋する。

●定義及び基本理念

 この条例において「多文化共生社会」とは、国籍や民族等の異なる人々が互いの文化的違いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていく社会を言います。多文化共生社会の形成は、次の基本理念に基づき、行なわなければならないことを定めます。

①人権尊重
 個人としての尊厳が重んぜられ、個人の能力を発揮する機会が確保されること。

②社会参加
 地域社会の対等な構成員として、地域社会の様々な活動に参加する機会が確保されるように努めること。

③国際協調
 多文化共生社会の推進は、国際的な人権保障の取り組みの下で行なわなければならないことに留意し、国際協調のもとに行なうこと。


 以上が同条例案の「定義及び基本理念」だが、先ず注目すべきは「国籍や民族等の異なる人々が(中略)対等な関係を築こう…」なる箇所だろう。

 日本において日本国民たる日本人と、外国人が対等な権利を有するわけはないのだから、社会を構築する上において「対等な関係であるはずがない」のである。
 そもそも、何故に対等な関係とならなければならないのか? この前提から履き違えているように思えてならない。

 多文化共生を推進する者らが指す「対等な関係」とは、何を以って日本人と外国人が対等であるべきと言いたいのか、その意図するところが見えてくるというものだ。
 
 これは、巷間実しやかに現実化が囁かれる「外国人地方参政権」の獲得を視野に入れたものであることは疑う余地がない。

 これこそは日本国民が社会を構成する者として有する固有且つ決定的な「権利」である。
 この外国人参政権の獲得なくして同条例案で謳われている「地域社会の構成員」なる文言は出てこないだろう。

 本来、日本の政治に参加する権利を有さない者が参画することによって、特定の国が日本の政治に影響力を及ぼし(例:民団を通じて韓国)、日本国の主権が著しく歪められかねない。

 そして「人権尊重」「国際的な人権保障」なる文言に注目してもらいたいが、ここから導き出される結論は「人権擁護法案」の実現化だろう。
 
 「個人としての尊厳が重んぜられ、個人の能力を発揮する機会が確保される」多文化共生社会であるはずなのに、各地で外国人問題が表面化するにつれ、外国人が自らの文化を主張する機会が保障されていないことを口実に、こうした法案が頭をもたげてくることは容易に予測し得る。

 多文化共生とは…その理念自体が危険というのみならず、その理念が条例として制定されることにより日本にとって危険な法案が付随するという相乗効果の観点からも論じられなければならない。

 翻って外国人を日本に同化させるには、政策一つで解決し得る問題ではなく、日本という国家そのものが強権を発動し得る、言わば戦前のような統制国家に変貌せざるを得ないという厳しい現実を我々に突きつけている。


◇草の根的に日本文化の発展・継承に取り組んでおられる素晴らしき日本女性をご紹介します
新風連協賛ブロガー・聖子さんの『聖子の日記』より
http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=523864&log=20071023

写真:ハロウィン騒動

 前回のエントリーのコメント欄に意見が寄せられ、各サイトでも話題になっているが、この時期になると毎年「ハロウィン」なる行事が日本でも話題になりつつある。
  
 小さな子供が「菓子をくれ」と言ってはしゃいでいる分にはカワイイが、図体のデカい外国人がハロウィンの衣装をまとい、行事だと称し集団で公共機関たるJR車内で騒ぐと言うのだから迷惑この上ない。

 警察沙汰になって然るべき騒動でも、多文化共生の前に沈黙せざるを得ないのだろうか。単なる伝統行事という次元にとどまらず、多文化共生の裏に隠された恐るべき事実に気付かねばならない。

※お知らせ
ハロウィン騒動に関する問い合わせが相次いでいます。これは明らかに車内アナウンスで頻繁に呼びかけられる「車内、駅構内での迷惑行為」に該当します。国際化だとか多文化の名の下に無秩序を許してはなりません。
当方も鉄道警察及びJRに対して働きかけております。日本人の良識を以って「母国でやれ」と言いましょう。


1. Posted by poko 2007年10月27日 18:03
初めまして
奥さんとまだ交際中だった若い頃(と
言っても私はまだ36ですが)横浜山下公園
の新年カウントダウンパーティーに参加後、見ている者が顔をしかめるほど
騒いでいたのは外国人(特に米・東南アジア系)
だったなぁと思い起こしています。
新年を祝う言葉の端々には「F●●K」など
の言葉が聞き取れ、大変不快な物でした
こういう行為が正当化される(文句が
言えない)日が来るのでしょうか?
2. Posted by samu 2007年10月27日 18:16
やはりネットでは騒がれていたんですね。昔接した外人はそれほど悪い人はいなかったと思っていたんですが、
白人にしても、こういっては何ですが、顔が東洋人より綺麗なので別物と(失礼)考えていましたが、中身はどうも特亜に似ている気がします。
3. Posted by 江戸屋 2007年10月27日 18:35
侍蟻さま
>翻って外国人を日本に同化させるには、政策一つで解決し得る問題ではなく、日本という国家そのものが強権を発動し得る、言わば戦前のような統制国家に変貌せざるを得ないという厳しい現実を我々に突きつけている。

そのとおりでございます。
ここのところが理解されぬまま、安易に多文化共生が推し進められることに、恐怖と憤りと失望を感じます。
多文化共生→統制国家へと変貌 
ここを国民に懇々と説明し、なぜそうならざる得ないかをよーく理解してもらわねばなりませんね。 
4. Posted by 江戸屋 2007年10月27日 18:53
この写真の模様は、川崎のチネチッタでしょうか?
依然その周辺に住んでいまして、これとそっくりの光景を毎年目にしましたも
ので。そういえば今思い出しましたが、チネチッタの再開発は在日朝鮮人の女性が仕掛けたと数年前に聞き及んびました。その辺は、在日が多く住んでいますのでそのような噂が出ただけなのかもしれません。
それからもうひとつ。私の記憶が確かなら、このハロウィンパーティが大々的に行われるようになったのは、再開発後であるはずです。噂が本当なら、在日とチネチッタでの大規模なハロウィンパーティは、とんだカラクリですね。

5. Posted by これ見ろよ 2007年10月27日 22:03
馬鹿どもの騒ぎを現在実況してる。
ほんと腹が立つ。クソがっ!!

ttp://www.stickam.jp/profile/doodoo5963
6. Posted by これ見ろよ 2007年10月27日 22:31
頭に来た。完全に頭に来た。
害人との共存共生など無理だな。

地元で毛唐を見かけたら、日本の日常を荒らしてくれた
事に対するお返しをして行く。

7. Posted by 日本はなめられてる 2007年10月27日 23:07
2132. Posted by ★★★日本警察は無能でした★★★ 2007年10月27日 22:58
まあ一つだけ確かなことは
他国人がこんな馬鹿騒ぎを列車でできる国は
日本以外にはないだろう

まさか中国、中東、自国でこんなことをやろうとする奴はいないだろうしな

その国の司法、警察をよほどなめており、
またコミュニティの大多数を馬鹿にしていなければ
公共の場で酒を飲み暴れるなどということはないはずだ

警察、司法、日本人が馬鹿にされ続ける限り
不法滞在の糞外人が減ることは今後もないだろうし
外国人犯罪はどんどん増えるだろうな。
税金払うの馬鹿らしくなった、とにかく。

8. Posted by 侍蟻 2007年10月28日 00:01
各位 コメントを有り難う御座いました。

>poko様
はじめまして。
いますね、不快になるほど馬鹿騒ぎしている外国人。特に南米系は普段から、そのノリですから周辺住民との軋轢が絶えません。それが奴らの文化というのですから、共生なんてまず無理です。

>samuさま
確か去年も騒動になって、今年はそれを上回る勢いではないでしょうか。瀬戸事務所の協力スタッフも撮影のためJR車内へ赴きました。
9. Posted by 侍蟻 2007年10月28日 00:22
>江戸屋さま
コメントを有り難うございました。

思うに戦前の日本にはアジア、有色人種が団結して欧米列強に対抗するという理念と、それを実行する力があったと思います。日本の朝鮮半島及び台湾統治はかの地に近代化をもたらし、異民族の日本への同化はスムーズに進んだと思います。
翻って現在では日本国内で多文化・多民族が共生を図る上で、明確な理念も強力な実行力もないように思います。最低限それらを満たしてから言ってくれということですね。

10. Posted by 侍蟻 2007年10月28日 00:31
(承前)

写真は2年前にも大阪でハロウィン騒動が問題になった時のものです。
http://blog.livedoor.jp/samuraiari/archives/50125667.html
日本の秩序を破壊するための宗教行事の名を借りた一種の暴動だと思います。
このコメント欄で「samuさん」も指摘されていますが、そのメンタリティは在日による一連の反日行動に通ずるものがありますものね。
文化の主張云々よりも秩序が重要なのはもはや歴然としています。
11. Posted by 侍蟻 2007年10月28日 00:35

各位

:ハロウィン騒動について

電車内でやるなら一車両借り切るなりして、他人の迷惑にならないようにやるべき―というのが一般的な見解だと思います。
公共の場で何を主張しても許される自由があるのではなく、他人の自由を侵害しない(他人を不快にさせない)範囲で主張する自由があるのではないでしょうか。
自由が際限なく広がれば他の自由と必ず衝突します。自由には大きな責任も伴います。

☆12. Posted by ようちゃん 2007年10月28日 04:44
http://izasaito.iza.ne.jp/blog/entry/362560/

(斎藤吉久)

▼公的追悼行事のキリスト教化、本日の気になるニュース のタイトルの記事を読んでください。今日の「時事ドットコム」10月23日、「キャンドルともし、犠牲者慰霊。長岡市の広場で追悼式典。中越地震3年、新潟」のように阪神淡路大震災以来、公式追悼式ではキリスト教の儀式のキャンドル黙祷・礼拝が取り込まれてる。韓国はキリスト教が殆どです。とかく靖国神社をめぐってかまびすしい議論が展開され、ほかならぬキリスト者たちによる訴訟まで起こされている政教分離について、県ではどのような議論をし、このような追悼式典を催すことになったのでしょうか。民間の追悼式ならまだしも、公的な追悼行事で、もし明確なキリスト教儀礼としての認識を持って行われているとなると、絶対分離主義の立場に立つのであれば、違憲行為ということにならないのでしょうか。

平成14年には広島に、翌年には長崎に原爆死没者追悼平和祈念館がオープンしましたが、祈念館建設までに厚生省内で行われた議論では「国立の施設である以上、特定の宗教色を排」することが追求されるのに、実際には、「特定の宗教色の排除」どころか、「宗教性の排除」が国の方針だったようです。何時の間にか、阪神大震災10年の追悼式典ではモーツアルトの聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」が流れました。キリストの生誕から受難までをラテン語で簡潔に表現した教会音楽の最高傑作の一つですが、絶対的分離主義の立場に立つならば、逸脱といわねばなりません。>と言うように巧妙に共生と言う名目で日本の古来からの地域の神社の地鎮祭ですら、公的機関の落成式からは追放されています。町内のお宮さんの寄付集めも、外国人は徴集されないそおうですし、共生と言う割に自分勝手です。他国の宗教や習慣を 公式儀式にまで取り込ませているのも納得できません。それと多民族が共生している、カフカス山脈の麓など民族の坩堝で小国が6つもあるし、(グルジア、チチェンなど)黒海対岸のヴァルカン半島は地球の火薬庫と言われています。コロアニア、ボスニア、セルビア、アルバニア、ギリシア、・・と小国の多民族、多宗教地域です。民族が違うと宗教も伝統文化も違います。何故日本の国土で古来の神道が宗教分離で厳しき公式儀式から締め出され、代わりに外来のキリスト教が入りこむのか。キリスト教は多数分派してるので共通のキャンドルと黙祷礼拝で誤魔化していますが、年寄り達は怪訝な顔をしています。キムチなど私は大嫌いですし、民族料理などお断りです。和食が一番健康に良い。「身土不ニ」(しんどふじ)と言い生まれ育った土地から取れる物を食べるのが一番良いのです。中国野菜や食品の有害有毒は改善される事は無い


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


日本のお姉さんの意見。↓

わたしは、クリスチャンだけど、日本人がクリスチャンでもないのに

いろいろ西洋のマネをするのは変だと感じている。

「アメイジング グレイス」を歌っている日本人を見ると、

「意味が分かって歌っているのではないはず。」と思って空しくなる。

罪びとを愛しお恵みを与えてくださった神さまを

賛美する歌なんですけどね。でも、クリスチャンでもないのに歌うな。」とも

言えないし、仕方が無いね。


昨日見たDVD「ザ クイーン」では、

ダイアナの死を悼んでイギリス人が路上でロウソクをともしていた。

あれは、カトリック系の教会でロウソクを使うから、

その影響を受けた西洋人の習慣。

日本のクリスチャンはロウソクなんか、使わないですよ。

日本人が外国のマネをして、ロウソクで追悼の意を表しているのだろうが、

外国のマネをしたら「宗教色」をなくしているということになるんでしょうか。

モーツアルトの聖体賛歌「アベ・ベルム・コルプス」も、ロウソクも

いらないと思います。でも、カトリック信者でもないのに、

ロウソクを使って哀悼の意を表すなとも言えない気もする。