ロシア人の人生観(連山)
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ロシア人の人生観(連山)
(引用開始)
1.蟻とキリギリスの寓話より
(略)
(略)
ロシア人の感覚では、「困っているキリギリスを助けない蟻は悪人」であり、「遊ぶべきときを遊んで、人生を満喫したキリギリス」のどこが悪いのか?むしろ、楽しむべきときを楽しむのは、正しい!むしろ、それを助けないで自分たちだけで結束してしまう蟻の精神というのは、非常に利己主義で冷酷なものだと非難するのである。
実は彼らは恐ろしいほど感情的で、喜怒哀楽が激しく、議論に熱し、情に流されたりしやすく、おそらく、ヨーロッパ人には有り得ないほど迷信深い人々である。そして、このイソップの寓話のキリギリスの如く、「享楽的人生」を良しとする。その一例に、離婚率の高さがある。まず、彼らの人生において重要なのは、自分にとってのその場、その場の好悪の感情なので、若いときに情熱的な恋愛に走ったら、そのまま結婚へとゴールインしていく。そして、数年で挫折。あっさり別れる。この場合、大半がそれまでに子供がいれば引き取るのは女性。
そして、懲りもせずに数年後には又、どこかで新しい人を見つけて、さっさと結婚。こういうことを、3回くらい繰り返すのは全然普通で、誰もそれを非難もしないし、むしろ、堂々としたものである。
実は彼らは恐ろしいほど感情的で、喜怒哀楽が激しく、議論に熱し、情に流されたりしやすく、おそらく、ヨーロッパ人には有り得ないほど迷信深い人々である。そして、このイソップの寓話のキリギリスの如く、「享楽的人生」を良しとする。その一例に、離婚率の高さがある。まず、彼らの人生において重要なのは、自分にとってのその場、その場の好悪の感情なので、若いときに情熱的な恋愛に走ったら、そのまま結婚へとゴールインしていく。そして、数年で挫折。あっさり別れる。この場合、大半がそれまでに子供がいれば引き取るのは女性。
そして、懲りもせずに数年後には又、どこかで新しい人を見つけて、さっさと結婚。こういうことを、3回くらい繰り返すのは全然普通で、誰もそれを非難もしないし、むしろ、堂々としたものである。
(略)
一時マスコミを騒がせた「マンホールの中に住む子供たち」のほとんどが、そういった若年結婚カップルの親から虐待されて、田舎の町から電車で都会へ逃げてきた子供だというし、全体的な母子家庭の比率の高さは、明らかに社会が安定しない要因のひとつに思われるのだ。
2.「芸術は永遠なり」という感性
(略)
安定しているとは言いにくい社会状況の中でも、とりわけ厳しい状況にあるのが芸術家たちなのだ。音楽、舞台、画家、彫刻家、役者・・・。ロシアの芸術家たちほど、純粋な人たちは本当に世界中探してもなかなかいないのではないかと思うくらい、精神的には豊かだ。しかし、ほとんどの現状は、経済的に見れば極貧の中に、たった一本の希望の「芸術」という蝋燭を灯して生き延びているといっても、過言ではないほど生活は厳しい。
モスクワでは、よく地下鉄などでヴァイオリンを弾く人を見かけた。他の楽器にしても、相当凄い腕の人が寒くて薄暗い地下道で演奏して、小銭を稼がなければならないほどなのである。あるいは、最近ではオーケストラの収入だけで暮らせない若い世代の音楽家たちが、夏場は裕福なドイツなどに移って、現地の地下鉄で演奏して、それこそロシアでの演奏活動が始まる秋からに備えるのだという。
たいてい9月からのシーズンになると、モスクワならば連日、10以上あるという個々のオーケストラが凌ぎを削って、毎晩毎晩どこかで演奏会を開いているので、練習量でも凄いものがあるだろうし、ボリショイ劇場だとか、海外公演をするような大劇場ならば、たいてい1-2は予備のオーケストラを待機させていて、海外公演中の穴を埋めるのだというから、それだけでもスケールと人材の多さに驚かされる。
また、日本では知られていないが、ロシア人にとって「芝居」というのは、人生において相当重要なものだし、特に「今首都で一番注目されている芝居」を見ていないような人は、どんな分野においても、真のインテリとは呼べないというくらいに、芝居を見に来る人の層が厚い。だから、科学者だろうと、数学者だろうと、政治家だろうと、演劇をテーマに話ができないロシア人なんていうのは、本人はかなり恥ずかしいと感じる可能性が高いといっていいくらいなのだ。(これは、実際に現地でロシア人の多くから聞き取りした結果なので、個人差はあるだろうが、モスクワのような都会では全体的にそういう傾向があった)
それくらい人気の高いロシアの芝居を支える役者たちというのがまた、過労な割には貰いが少ない。非常に有名で映画にも出演しているような役者たちですら、度重なる無理なスケジュールが元で早死にしたり、重病を患って、後遺症が残ったりするようなのが現実なのだ。
安定しているとは言いにくい社会状況の中でも、とりわけ厳しい状況にあるのが芸術家たちなのだ。音楽、舞台、画家、彫刻家、役者・・・。ロシアの芸術家たちほど、純粋な人たちは本当に世界中探してもなかなかいないのではないかと思うくらい、精神的には豊かだ。しかし、ほとんどの現状は、経済的に見れば極貧の中に、たった一本の希望の「芸術」という蝋燭を灯して生き延びているといっても、過言ではないほど生活は厳しい。
モスクワでは、よく地下鉄などでヴァイオリンを弾く人を見かけた。他の楽器にしても、相当凄い腕の人が寒くて薄暗い地下道で演奏して、小銭を稼がなければならないほどなのである。あるいは、最近ではオーケストラの収入だけで暮らせない若い世代の音楽家たちが、夏場は裕福なドイツなどに移って、現地の地下鉄で演奏して、それこそロシアでの演奏活動が始まる秋からに備えるのだという。
たいてい9月からのシーズンになると、モスクワならば連日、10以上あるという個々のオーケストラが凌ぎを削って、毎晩毎晩どこかで演奏会を開いているので、練習量でも凄いものがあるだろうし、ボリショイ劇場だとか、海外公演をするような大劇場ならば、たいてい1-2は予備のオーケストラを待機させていて、海外公演中の穴を埋めるのだというから、それだけでもスケールと人材の多さに驚かされる。
また、日本では知られていないが、ロシア人にとって「芝居」というのは、人生において相当重要なものだし、特に「今首都で一番注目されている芝居」を見ていないような人は、どんな分野においても、真のインテリとは呼べないというくらいに、芝居を見に来る人の層が厚い。だから、科学者だろうと、数学者だろうと、政治家だろうと、演劇をテーマに話ができないロシア人なんていうのは、本人はかなり恥ずかしいと感じる可能性が高いといっていいくらいなのだ。(これは、実際に現地でロシア人の多くから聞き取りした結果なので、個人差はあるだろうが、モスクワのような都会では全体的にそういう傾向があった)
それくらい人気の高いロシアの芝居を支える役者たちというのがまた、過労な割には貰いが少ない。非常に有名で映画にも出演しているような役者たちですら、度重なる無理なスケジュールが元で早死にしたり、重病を患って、後遺症が残ったりするようなのが現実なのだ。
(略)
それでも、多くの芸術家たちが今でも、ロシアで座右の銘にしている言葉がある。「芸術は永遠なり」もしかすると、この言葉はどこかの国からの借り物の言葉で、ロシア発祥というわけではないかもしれない。それでも、この言葉と、実際に「人間の人生には限りがあっても、芸術というのは永遠に残る」という一種の信念があってこそ、お金にもならないことに身を削って、ささやかな喜びを人々と分け合うために今日も多くのロシア人が一張羅を着て、舞台に上がっていくのではないかと思う。
どんなことがあっても、彼らは舞台裏や、自分の生活での惨めったらしさは、絶対に舞台に上げない。そして、舞台というのは、上にいる人たちだけのものではなくて、むしろ、その空間と芸術を共有できる観客あってのことだというのが、現地の演劇学でも、常識中の常識で、演劇のみならず、舞台芸術全般にそれが厳しく問われる。そのような一種の奉仕精神から、芸術家の大半は非常に謙虚である。観客と同じ人間として舞台に立ち、同じ芸術を共有する仲間として、決して観客を「上から眺める」ようなことはしない。まさに、芸術というものの前で対等なのだ。こういう点では、ロシア人の芸術感覚の成熟度は高く、一般人であっても、愛好家の批評のレベルは相当のものなので、まったく馬鹿にできない。
長年演奏し続けてボロボロ、日本では学生でも使わないような代物であっても、ロシアの音楽家たちは、そんな楽器を使って、一流の演奏をする。そして演奏会が終わればまた、何年もの間着古してきた外套を着て、そそくさと雪の中を一般客に混じって帰っていく。かなり有名な人であっても、海外で儲けているような人を除いては、非常に慎ましい生活だ。しかし、芸術という喜びを持つ彼らにとって、数々の苦難もまた試練なのだという風に、ロシア人の芸術家は、今日も飄々とあの大都会を切り抜けていっているにちがいない。
3.人間は「運命を受け入れるしかない」という発想
ロシア人の宗教観という点では、また別に考察してみたいと思うが、手短にロシア人が思いのほか、「潔く自分の運命を受け入れる」という意味で、「運命論者」ではないかと思う。こういう点、日本人もそういう人がいないわけではないのだが、傾向的にはロシアの方が明らかに、どんなことでも「運命」として受け取って、ある意味、あっさり諦める場合が多いようだ。一般的に考えれば、自然や気候条件が厳しく、たしかに人間の限界を知り尽くしたロシア人が自分を取り囲む環境要因の中で、自然に「自分ではどうしようもないもの」が世の中にはあるということを、認めざるを得ないというのもあるのだろう。
しかし、私はそれだけでもないような気がする。たとえば、ある人が数年前に劇場占拠事件に、わざわざモスクワへ来て巻き込まれて亡くなった人があった。これに対して、ロシア人の多くが「それは運命だったのだ(仕方あるまい)」という反応をする。もちろん、多くなので、違う反応もあろうが、結構なにかの偶然に巻き込まれて死ぬというケースは、ロシアでよくあることなので、非常に淡々とそういう風に言う。けれど、彼らは現実的に人生を諦めているわけではないのだ。
むしろ、私の見た範囲では、そういう「どうしようもない運命」があらゆる人の前に立ちはだかっているからこそ、「挑戦的に生きられる」場合もあるのだ。必ずしもそうとは限らないが、日本人と比較すると、ロシア人の行動だとか発言というのは、あんなに抑圧された時代があった人々にしては、”大胆不敵”で”君子豹変”するように見える。
それも、ある意味、「運命主義」だからではなかろうか。一方で何かの結果を見ては、「運命だから仕方ない」と言いつつ、ロシア人というのは、その与えられた運命に対して、「したたかに反抗し続ける」ために、「最大限に自分の自由を生かす」ことができるのだ。そういう意味では、制約があったソ連時代の芸術が意外なほど魅力的であったことも「社会主義国に生まれる」という過酷な運命に対し、精一杯逆らって生きたからかもしれない。そういう意味では、このロシア的「運命論」は決して、流されるだけのものではなく、その中で流れに逆らって生きることの意味を教えてくれるような気がするのだ。
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それでも、多くの芸術家たちが今でも、ロシアで座右の銘にしている言葉がある。「芸術は永遠なり」もしかすると、この言葉はどこかの国からの借り物の言葉で、ロシア発祥というわけではないかもしれない。それでも、この言葉と、実際に「人間の人生には限りがあっても、芸術というのは永遠に残る」という一種の信念があってこそ、お金にもならないことに身を削って、ささやかな喜びを人々と分け合うために今日も多くのロシア人が一張羅を着て、舞台に上がっていくのではないかと思う。
どんなことがあっても、彼らは舞台裏や、自分の生活での惨めったらしさは、絶対に舞台に上げない。そして、舞台というのは、上にいる人たちだけのものではなくて、むしろ、その空間と芸術を共有できる観客あってのことだというのが、現地の演劇学でも、常識中の常識で、演劇のみならず、舞台芸術全般にそれが厳しく問われる。そのような一種の奉仕精神から、芸術家の大半は非常に謙虚である。観客と同じ人間として舞台に立ち、同じ芸術を共有する仲間として、決して観客を「上から眺める」ようなことはしない。まさに、芸術というものの前で対等なのだ。こういう点では、ロシア人の芸術感覚の成熟度は高く、一般人であっても、愛好家の批評のレベルは相当のものなので、まったく馬鹿にできない。
長年演奏し続けてボロボロ、日本では学生でも使わないような代物であっても、ロシアの音楽家たちは、そんな楽器を使って、一流の演奏をする。そして演奏会が終わればまた、何年もの間着古してきた外套を着て、そそくさと雪の中を一般客に混じって帰っていく。かなり有名な人であっても、海外で儲けているような人を除いては、非常に慎ましい生活だ。しかし、芸術という喜びを持つ彼らにとって、数々の苦難もまた試練なのだという風に、ロシア人の芸術家は、今日も飄々とあの大都会を切り抜けていっているにちがいない。
3.人間は「運命を受け入れるしかない」という発想
ロシア人の宗教観という点では、また別に考察してみたいと思うが、手短にロシア人が思いのほか、「潔く自分の運命を受け入れる」という意味で、「運命論者」ではないかと思う。こういう点、日本人もそういう人がいないわけではないのだが、傾向的にはロシアの方が明らかに、どんなことでも「運命」として受け取って、ある意味、あっさり諦める場合が多いようだ。一般的に考えれば、自然や気候条件が厳しく、たしかに人間の限界を知り尽くしたロシア人が自分を取り囲む環境要因の中で、自然に「自分ではどうしようもないもの」が世の中にはあるということを、認めざるを得ないというのもあるのだろう。
しかし、私はそれだけでもないような気がする。たとえば、ある人が数年前に劇場占拠事件に、わざわざモスクワへ来て巻き込まれて亡くなった人があった。これに対して、ロシア人の多くが「それは運命だったのだ(仕方あるまい)」という反応をする。もちろん、多くなので、違う反応もあろうが、結構なにかの偶然に巻き込まれて死ぬというケースは、ロシアでよくあることなので、非常に淡々とそういう風に言う。けれど、彼らは現実的に人生を諦めているわけではないのだ。
むしろ、私の見た範囲では、そういう「どうしようもない運命」があらゆる人の前に立ちはだかっているからこそ、「挑戦的に生きられる」場合もあるのだ。必ずしもそうとは限らないが、日本人と比較すると、ロシア人の行動だとか発言というのは、あんなに抑圧された時代があった人々にしては、”大胆不敵”で”君子豹変”するように見える。
それも、ある意味、「運命主義」だからではなかろうか。一方で何かの結果を見ては、「運命だから仕方ない」と言いつつ、ロシア人というのは、その与えられた運命に対して、「したたかに反抗し続ける」ために、「最大限に自分の自由を生かす」ことができるのだ。そういう意味では、制約があったソ連時代の芸術が意外なほど魅力的であったことも「社会主義国に生まれる」という過酷な運命に対し、精一杯逆らって生きたからかもしれない。そういう意味では、このロシア的「運命論」は決して、流されるだけのものではなく、その中で流れに逆らって生きることの意味を教えてくれるような気がするのだ。
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日本のお姉さんの意見。↓
わたしのロシア人のイメージは「残酷」な民族。
自国の王様を家族全員皆殺しにした。
宗教者に対する「迫害」がすごい。
それでも、民衆はたくましい。
ロシア人は強い指導者を敬っている。
プーチンは、ユダヤ系のロシア人をいきなり逮捕して
会社を丸ごと奪ってしまうし、ジャーナリストを
放射性物質で殺してしまう。彼らが外国に逃げても、
追いかけていって殺すのだ。
それでも、プーチンはロシア人の間では歌まで作られるほど
尊敬されている。
ロシアに住む日本人は、アパートのドアをドアの枠ごと
壁から外されて、部屋の中の物を全部盗まれた。
ロシア人が日本に来て生活に困っているので、
仕事を紹介してあげても、文句ばっかり言って仕事をしない。
そんなロシア人ばかりではないと思うが、
わたしの知っているロシア人たちは、
人に何かしてもらうのが、当たり前になっている。
やっぱりロシア人は「きりぎりす」で、日本人は「あり」なんだろうな。
「きりぎりす」の方が楽しそうに生活しているのが
しゃくにさわる。by日本のお姉さん
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ささやんの意見。↓
ロシア人。日露戦争でロシア人を打ち負かした。快挙。
太平洋戦争敗戦~シベリヤでの日本人強制労働虐待、
鉄のカーテン。
四島略奪。
戦後唯一ロシア人が良かったのが日本南極探検隊が氷に囲まれ
頓挫した時、オビ号が助けてくれた位です。