ウズベキスタンのカリモフは16年間も大統領の座に | 日本のお姉さん

ウズベキスタンのカリモフは16年間も大統領の座に

ようちゃん、おすすめ記事。↓

「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成19年(2007年) 10月21日(日曜日) 
通巻 第1965号 

憲法は大統領の三選を禁止しているのに、カリモフは16年間も大統領の座にあり、しかも次の大統領選挙(12月23日)も“当選確実”という怪談
    にもかかわらずEUは対ウズベキスタン制裁を解除
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石油が一バーレル90ドル、資源の確保が政治の課題となった。
 2005年5月13日にウズベキスタンのフェルガナ盆地に近いアンディジャンでおきた数百の反政府デモ隊への血の弾圧事件は「アンディジャンの虐殺」として世界のメディアが報じた。生き残った数百は、国境を越えて、キルギスの難民キャンプへ。

 ウズベキスタンは中央アジアのど真ん中、タシュケント、ブハラ、サマルカンドのシルクロードのオアシスを抱え、資源に恵まれている。

それから僅か二年。
もはや「制裁」の対象とは言えない、とばかりドイツが中心となって動き、EUは、この10月17日に対ウズベキスタン制裁を解除した。
あれは「イスラム過激派の暴力的反政府転覆活動が発覚したため」とカリモフ政権は言い張ってきた。

 実際の犠牲者は、イスラム武装組織に依れば7000人、また別派「1924組織」によれば、犠牲は一万人から二万人に及んだ、とも主張された。
ところが欧米メディアは、このいずれの数字も退けた。

カリモフ大統領はイスラム世俗主義を掲げて、1991年のソ連邦崩壊と同時に「大統領」となった。
 憲法は明確に「同じ人物の大統領の三選を禁止」しており、しかも一期の任期は五年。しからば十年をもって引退すべき人物なのに、爾来、十六年もの長きに渡って、ウズベキスタンを事実上壟断し、しかも、次の大統領選挙にも当確とは、いったいウズベキスタン国民は羊のようにおとなしいのか?

 からくりがあった。91年に初回大統領選挙で当選したカリモフは、途中の「国民投票」で任期延長され、そのまま2000年まで居座り、次ぎに大統領選挙を延期し、2002年に再選されたが、これも「憲法改正までの暫定処置」とされ、なんと「再選」にカウントされないという超法規的措置を講じたのだった。したがって12月の選挙は「再選」となる、というむちゃくちゃな憲法解釈である。

▼ 反政府各派はデモの組織化もままならない状態
同時に政敵を弾圧し、有力な対立候補はトルコへ逃れ、何人かは地下へ潜った。また、有力な野党政治家が謀殺された。
 トルコへ逃げた野党指導者は、遠くウズベキスタンまでの指令が届かず、他方で国内の過激派は秘密警察の取締が厳しく、また穏健な民主勢力各派も、団結の動きを採れずに各派バラバラの惨めさ。
資金も西側の亡命組織などに頼っているため、数百名の反対デモさせ組織化が困難な情勢にある。

 とはいえカリモフは既に69歳。そろそろ独裁王朝では、「後継者」が問題となる。カリモフは隣国カザフスタンの独裁者ナゼルバエフ同様に、長期政権の安定を狙うが、ナゼルバエフは息子を後継にしたくとも無能の上にスキャンダルだらけ、だ。
かといって有力な政治家を自らが潰してきた。ナンバーツー不在というのは、リビアも、トルクメニスタンも同様である。
南の隣国キルギスでは、民主革命によってアカーエフ前大統領は政権を投げ出しモスクワへ逃亡した。ウクライナ、グルジア、キルギスと続いたカラー革命は、実際のところ、選挙をおこなって、その選挙の不正に住民が抗議するかたちで政権が転覆した経緯がある。その轍も踏みたくない。

 そこで後継有力となって浮上したのがカリモフ大統領の娘=グルナラ・カリモフである。グルナラは、政治経験に乏しく、修羅場も体験しておらず政府高官の役職をこなしているわけでもない
そこで、カリモフは娘のグルナラをモスクワ駐在ウズベキ大使館の顧問としたりしたが、主に彼女はビジネス界に君臨してきた。
 ちかく、彼女を閣僚級の地位に引き上げる意向をカリモフ大統領はもっているという(『ユーラシアディリー、10月19日付け』。

 エジプト、シリア、北朝鮮同様に、息子娘を後継とさせるためには、まず政府高官に任命し、政治の場にならす。これはアゼルバイジャンのアリエフ親子の路線と酷似している。中央アジアの政治的“怪談”、まだまだ続くだろう。

      ○◎み◎や◎ざ◎き◎ ○ま◎さ○ひ◎ろ◎
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♪(読者の声1) APがWFP(国連機関の世界食料計画)報道官の話として報じるところでは、中国から北朝鮮への援助物資であるトウモロコシ、小麦粉8,000トンが中国鉄道当局と北朝鮮鉄道当局の対立で北へ移送されず、中朝国境丹東の倉庫に入れられたまま留め置かれているとのことです。
北朝鮮へ入った中国の貨物車両が戻ってこないので、中国鉄道当局はそれらを戻すよう求めているというのです。
英フィナンシャル・タイムズによると、最近だけで中国から北に入った1,800車両が戻ってこず、これらは北で解体・スクラップされ売却されているようだというのです。
日本人は、炙った丸干しイワシなら、頭から尻尾まで食べてしまいますが、朝鮮人は援助物資を鋼鉄の車両ごと、むしゃむしゃと食べてしまっているようなのです。これには、「四脚は机・椅子以外、空を飛ぶものは飛行機以外食べる」と豪語するシナ人も呆れ果てているのです。いやはや。
     (NH生、神奈川)

(宮崎正弘のコメント) 凄い話ですね。ま、あり得ないことでもないでしょうが。。。。そういえば大連から丹東(日本時代の安東)まで、小生が行ったのは四年ほど前ですが、白タクで150元でしたね。
途中、場所によっては悪路で、四時間から五時間かかった記憶がありますが、いま高速道路が繋がり、三時間で行ける由です。中国側はネオンがぴかぴか、海鮮レストランの列。対岸の新義州は、真っ暗闇でした。このコントラストも、まったく変わらずと先日現場をみてきた人の話です。

♪(読者の声2) 毎回楽しくニュースを読ませて頂いており感謝しております。貴誌1964号の世界十五大企業の時価総額ランキングの中で第四位の「中国移動」が(チャイナモービル)となっていますが多分中国移動通信の「チャイナ・モバイル」ではないかと思います。(KH生、姫路)


(宮崎正弘のコメント) ご指摘の通りでした。MOBILE(モバイル)です。中国も、しかし、英語名企業名は、ややこしいほどの欧米に酷似した名義を使いますねぇ。

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渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第971号
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麻生太郎の生き方
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        渡部亮次郎

先輩記者によると繰り言になるが、安倍前首相にしっかりとした軍師が
いなかった様に麻生太郎氏にも軍師がいなかった、それで恨みが残ると
いう。

もともとポスト安倍をめぐって麻生氏が勝つためには、町村派80人の支
持を取り付けるのが欠かせない条件であったが、麻生氏には安倍・麻生
の盟友関係があると思い込んだ甘さが仇をなしたと言う。

もともと安倍氏は小泉氏が引き出しただけで、派閥としての清和会とは
いわば無関係。したがって麻生氏を安倍氏が認知しても清和会は無関係
だったのである。大変な誤解をしたものだ。

野中広務氏や古賀誠氏の動きにも疎かった。森喜朗氏は麻生氏に好意的
なのだが、福田康夫氏の方は谷垣禎一氏と気脈を通じている。

この人間関係を麻生氏がどれだけ理解していたか。福田氏は過去の人と
いう思い込みが災いしている。仮に福田首相になっても3ヶ月とは保た
ないという希望的な観測があったのではないか、という。

事前に察知した動きに麻生氏は出遅れている。情報戦で敗れたといえる。
もし事前にこの動きを察知していたら、古賀氏の先手を打って福田支持
の奇策を講じることが出来た筈である
、と先輩は言う。

どのみち福田政権は来年の春に最大の危機を迎える。それを乗り越えて
も北海道サミットが花道であろう。福田首相の下では総選挙で仮に勝っ
ても命運が尽きる、最初から”保って2年”の政権である


勝負どころを半年や1年は待つ英断を下せば、麻生政権は間違いなく手
中にすることが出来た筈である。古賀氏に先んじて福田支持を打ち出せ
ば麻生幹事長は留任、カネと人事は麻生氏が握った。

古賀氏が暗躍するいとまが無かった。必然的に谷垣氏が福田氏の対立候
補となる可能性があった。1
夜にして福田首相の流れが出来たように麻
生氏にも福田支持の先手を打つ余地があったのだ。

負け戦と知りながら出陣するのは、戦いを知らない愚者がするすること
である。自らの麻生人気に過大な望みを託した観がある。人気ほど当て
にならないものはない。1年前の安倍人気を思い起こすがいい。

党内的な基盤を持たない麻生氏が、無役のまま福田氏やその後継者に挑
んでも勝算があるだろうか。少なくとも小泉元首相は麻生氏を構造改革
を否定する存在に見立てている。
その修復は容易なものではない。この
ままでは麻生氏は第2の河野一郎氏になると先輩は見ている。

岸政権下で河野氏は後継者(大野・河野政権)の1番手につけていた。
それをひっくり返して反岸の塊だった池田勇人氏を引き込んだのは弟の
佐藤栄作氏の陰謀。
大磯の吉田茂氏(麻生氏の祖父)と組んだ芝居であ
った。

岸首相の力が落ちたとみた河野氏が昭和34年夏の人事で揺さぶりをかけ
た。早漏れの仕掛けで佐藤・池田に乗ずる隙を与え、河野政権は一気に
遠のいた。

あの時に河野氏が徹底して岸政権を支えたら池田政権は無かったであろ
う。歴史は繰り返す、と先輩は言う。

一方、毎日新聞にいた岩見隆夫氏はやや似た見方をする。

<ナンバー2がナンバー1に協力するか、しないか。いまも昔も悩まし
いテーマだ。

福田康夫首相は今回の組閣で、ナンバーツーの麻生太郎前幹事長に再三
入閣を求めたが、麻生は、「長く要職についていたので、しばらく休み
たい」と固辞し続けた。麻生の周辺には両論あったという。当然である。

自民党総裁選の得票がほどほどだったら、入閣しやすかったかもしれな
い。だが、197票という予想を超えた健闘が、判断を難しくした。

<強い麻生>は閣内に身を置いて危機の党を再生させるのに協力すべき
か、外にいてさらに地力をつけるべきか。ポスト福田をうかがうのに、
どちらが有利かも、これは難問だ。

同じような場面は過去に何度かあった。いまも時折話題にされるモデル
ケースは、池田勇人元首相だ。

岸政権下である。1958年暮れ、警職法改正騒動で国会が荒れ、池田国務
相は三木武夫経企庁長官、灘尾弘吉文相とともに政権を去った。3閣僚
辞任事件である。

ところが、半年後の内閣改造で岸信介首相は、「通産相で……」と池田
に強く再入閣を求めた。誕生したばかりの宏池会(池田派)の2人の長
老のうち、林譲治は、「入閣したほうがいい」と言い、益谷秀次は、
「絶対だめだ」と反対、派内は大もめにもめる。

池田に政権が近づいているのを意識しての賛否両論だった。側近の宮沢
喜一は、 <どうもこいつはおかしいな>と思い、岸による取り込み策
を警戒した。

池田夫人の満枝も、池田の死後、 「私もこれは入っちゃいけないぞ、
と思ったものですから、秘書が認証式のときに着るモーニングを取りに
きたんですけど、出さなかったんです」と語った。

しかし、認証式の時間は迫って、池田は岸の実弟、佐藤栄作蔵相に、
「頼む。陛下がお待ちになっているし、何とか君、決めてくれよ。君が
入ってくれなきゃ組閣できない」と口説かれる。

結局、不承不承の形で、池田は通産相を受けた。満枝には、「佐藤に泣
きつかれたよ」とぼやいたという。

では、取り込まれたのかと言えば、それほど単純ではない。当時、池田
は側近の1人に、「こうなると、だんだん権力の中枢に近いところにい
ないといかんのだ」と言っている。宮沢は、「そのころには、はっきり
欲が出てきているんでしょうね」

とのちに解説したが、政権が近づけば閣内にいたほうがいい、という池
田のしぶとい計算が働いていた。約1年後の60年7月、岸のあとの首相
に就く。

だが、いつも池田流が通用するとは限らない。三木武夫の場合は74年
夏、田中角栄首相の金権体質に反発して、福田赳夫蔵相とともに環境庁
長官を辞任、5カ月後、首相に選ばれた。

権力中枢と距離を置いたことが、逆に幸いしている。この呼吸は政治家
特有の勘というしかない。勘のよしあしがときに政治生命を左右する。
満枝夫人は、池田が首相をつとめあげ、死去したあとでも、

「まあ、あれ(再入閣)が結果的によかったのか、悪かったのか、よく
分かりませんけどね」と感想をもらした。首相になりさえすれば、とい
うことでもないらしい。

さて、麻生の勘は鋭かったか。答えがでるまで、しばらく時間がかかる。
>(敬称略)=毎週土曜日に掲載
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 岩見隆夫のホームページは
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/iwami/kinbun/
毎日新聞 2007年9月29日 東京朝刊