hideおじさんの神道と靖国
▼▽ 私見時事論談 ▽▼ by hideおじさん
神道と靖国(4)
では、いわゆる「A級戦犯」を祀っているからなのでしょうか?――――もし
もそれが理由であるのならば、「政教分離」の問題とはぜんぜん違うのではな
いかと思います。「靖国神社」はテロや暴力的なカルト宗教団体ではありませ
んし、国民生活に不安を与えることもない、今はただの1宗教団体にしか過ぎ
ません。
ましてや、あくまで中立の立場を貫くため「神社本庁」=日本中の神社の総ま
とめ団体)にも加盟していません。そうした単なる宗教団体を批判、排除する
運動こそ「宗教弾圧」であり、憲法に保障されている「信仰の自由」を侵すも
のではないかと思います。
今は、まるで靖国神社が戦争犯罪を神聖化し、戦争犯罪人を神として崇めてい
るかのような言われ方をされますが、そのようなことはありません。ましてや
「侵略戦争の指導者を祀る神社に首相が参拝するということは、侵略を正当化
し、戦争責任を曖昧にして、偏狭なナショナリズムを刺激する」ということも
ピント外れだと思います。
何故なら、靖国神社は「東京裁判の有効性」を否定したり、「侵略の事実」を
否定したり、「A級戦犯は犯罪人ではない」という見解は出しておりますが、
戦争犯罪を神聖化しているとも、戦争犯罪人も神としているなどとはひと言も
言っておりません。軍国主義を肯定したり、戦争を賛美しているわけでもあり
ません。
靖国がいわなくとも「合祀」すること自体が「神」としているのだ、と反論さ
れるかもしれませんが、そもそも、他の宗教の「神」の理解で神社の「神」を
同一と理解するのは間違っていると思います。
例えばキリスト教の神は「God 」でありますが、日本での神は「畏敬の念」深
い尊敬をあらわす「Venerate」のほうが日本人の感性に合うと思うからです。
また、合祀は特定の歴史観・戦争観に基づくものではありませんし、慰霊・追
悼ということと、歴史批判というものは別次元のものだと思います。
ーーーいわゆる「A級戦犯」というのは何なのでしょう?
みなさんご承知のとおり、A級というのは、単純に「罪の重さ」を表すもので
はありません。――――項目Aの「平和に対する罪」を表しているだけなので
すが、
ただ、一般的には「平和を犯すことが重大である」という認識から、下された
刑も重く、その責任も大きいと捉えられています。
しかし、A級のメインテーマであった「侵略戦争への共同謀議」ということは
立証できておらず、この点においてのみ、全ての容疑者には当てはまりません
でした。
一般的には、合祀されたA級戦犯だったという人は、死刑になった方と公判中
に亡くなった14名を指していますが、あくまで戦争、またはそれに順ずる形
で亡くなった方として祀っています。
同じA級戦犯であっても、岸信介氏を代表に、死刑にならなかった人たちは靖
国に祀られておりません。同じく松井石根氏のように、A級戦犯容疑とされな
がらも、A項目では全て無罪とされ、B級容疑の「監督責任」で処刑された人
は合祀されています。
ご存知のように松井石根氏は、あの「南京大虐殺」時の南京現地指揮官であっ
た人です。ナチスのホロコーストと比較される南京ですが、その第一の責任者
であった松井氏でさえ、結局A級にはあたらなかった訳ですから、A級が良い
とか悪いというものではありません。
連合国側からも「A級とするのはおかしい」とされた方もおりますし、孫文を
敬愛し、民族主義を排して日中提携を追及していた人もいます。東京裁判の裁
判長であったウェッブでさえ「死刑宣告されるべきではない」と発言したり、
フランスのベルナールは「天皇が免責されているのに共犯である被告を裁ける
のか」と疑問を呈した人もいます。
このように、A級戦犯とされる方でもいろいろな人がおりますし、当時でさえ
いろいろ解釈されていたのですから、それを「A級戦犯は第一級の責任者」と
単純に考えるのは誤りであると思います。
ここでは東京裁判の有効性については述べませんが、戦犯とされた方々がどの
ように赦免・減刑されたのか、刑死者が殉教者と認められるに至ったか、簡単
にまとめてみたいと思います。
1.戦犯とされた方々の赦免・減刑の動きは、キリスト教精神に基づいてフィ
リピンから発せられた。
2.講和条約締結後、日弁連などの民間団体が戦犯赦免の署名運動を展開した
こと。
3.「2」に動かされ日本政府が勧告し、連合国側が動き出したこと。
4.インドと台湾=国民党政府)が、欧米各国に先駆けてA級戦犯釈放を承認
したこと。
5.「戦犯にも恩給を」という国民の強い要望から恩給法が改正され、刑死を
公務死と認めたこと。
6.国民の要望を受けて、厚生省が沖縄・ひめゆり部隊を軍属と認め、靖国神
社に合祀されたことが、幅広い合祀の先鞭をつけたこと。
7.アメリカは最後まで慎重だったが、昭和30年にA級戦犯釈放を承認した
こと。
8.なにより世論(朝日新聞でさえ)が同情的であったこと。
以上をひとつひとつ詳しく説明すると長くなりますので省略しますが、なによ
り当時の日本人が戦犯とされた方々に対して同情的であったことが大き
かったと思います。朝日新聞でさえ「置き去りの戦犯家族」という見出しの
記事を載せ「援護法」の適用が受けられない遺族をかばうような態度でした。
昭和28年に軍人恩給の復活を含む恩給法改正が決められましたが、そこ
でも戦犯とされた方々は対象外になりました。
しかし、国民からの要望が強く、翌29年にはさらなる改正案が提出され、
可決されることになっていきます。
当時でも反対意見がたくさん出されていて、社会党からは「国民感情が許さな
い」と反対され、政府筋からさえ「戦犯なるがゆえにその家族を優遇するよう
な結果になるのは対外的に問題だ」という声も聞かれました。
担当である恩給局も「戦犯者の刑死・獄死が在職中の公務死と見なせるのか
問題視している」と発言しています。
その一方で、「しかし国会の多数の意思が戦犯者を殉難者とみるのは
時の流れとみる向きもある」とも説明し、徐々に戦犯の「刑死」は
「公務死」と見なされる流れになっていきます。
そして昭和30年になり、朝日新聞が沖縄・ひめゆり部隊の靖国神社合祀につ
いて「悲惨をきわめた学徒兵の死を悼む国民から「靖国の社頭に」と望む声が
強く上がっている」と報道し、これらの声を受けて厚生省は、調査を重ね軍属
として認定し、靖国神社への合祀となりました。
この時の合祀には「ひめゆり部隊」が含まれており、厚生省も「やがて軍人、
民間人を問わず祀られることになるだろう」と語ったとあります。
この年、恩給法を含む戦争犠牲者関係3法の改正があり、戦争刑死者など
の合祀が考慮される動きとなっていきます。この改正にも反対の声が
あがりましたが、それは財政論的な視点からの反対であり批判では
あったものの、
左翼陣営からの「軍人は戦犯で、国民は被害者であるというようなひねくれた
見方には反対である」という意見にみられるように、少なくとも当時はA・B
・C級の区別なく戦犯赦免・靖国神社合祀が国民にとって自然の流れだったこ
とがうかがえます。
ともすればA級戦犯合祀は、国民の感情を無視して政府と靖国神社だけで
行われたように思われがちですが、実際は戦後10年経った頃の世論は、
戦犯であろうとなかろうと合祀しよう、という雰囲気であったことを理解しな
ければなりません。
それを今になって、「憲法違反だ」「戦犯合祀は許されない」とか「戦争美化
だ」「軍国主義の復活だ」などというのは、おかしな話ではないでしょうか。
「民主主義」「民主国家」が大切であるというのであれば、当時の日本国民の
多数が「差別なく祀ろう」と決めたことを尊重すべきではないでしょうか。そ
れこそが民主主義というものなのではないのでしょうか。
A級戦犯だった方々の合祀について紆余曲折があり、合祀が決まってから
も神社側が躊躇していた様子も伺えますが、国民を騙していたわけでも
ありませんので、神社を責めても仕方ないでしょう。
個人的に「それでも許せない」という方もいると思いますが、
それは、個人の意見として耳を傾けなければならないのかもしれません。
しかし、いまだ戦争の傷跡も生々しく、また戦争を体験し悲嘆をなめた
人々が大勢を占めていた時代に合祀への動きがあったという事実は、
現在の私たちも真摯に受けとめて、尊重しなければならないのではない
かと思います。
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│●│ コメントボードに頂きました感想。
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┌──────────「ミカの赤い服さん」
hideおじさん、こんにちは。――――本で読んだ話で恐縮ですが、バチカンは
第二次世界大戦が終わった後に、地動説を唱えたガリレオ=ガリレイを『異端
者』として破門したことを取り消したそうです……。500年前のことなのに
本当に「何を今さら」と考えてしまいます。
西洋諸国=キリスト教国)が植民地を営むためにどれだけムチャクチャなこと
をしてきたかと思えば、日本のカソリック教会が神道や仏教を攻撃することも
なんとなく納得できてしまいます。
真面目な宗教家の方にとって、自分の宗教と違う考えや文化の人たちは、全て
異教徒で、極端にいえば人間でないものになってしまうのでしょうか。
「殉国者を国家が慰霊・追悼するのは当然の責務であり、歴史的に機能してき
た靖国神社に対して国の代表者が表敬するのは至極当然のことではない
でしょうか」というhideおじさんの意見に賛同いたします。
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┌──────────「hideおじさんから」
私の勝手な解釈ですが、真面目な宗教家というものは他の宗教も尊重する
のではないかな?と思います。布教活動は大切なものでしょうが、だからと
いって他宗教を貶めるような行為は、宗教本来の教えと異なるのではないか
と思います。
本来、その国その国によって文化風習が異なるわけですから、それを尊重
しなければ余計な摩擦を生むだけだと思います。私はそんなに深く宗教を
勉強したわけではありませんが、その国の為に亡くなった方々を慰霊する
のは、どんな宗教にも関係なく行われるのが「正義」だと思います。
神道だから良くないとか、キリスト教だから、イスラム教だからといったこと
ではなく、その国の国民が静謐に慰霊するのを祈るのが本来の宗教では
ないでしょうか?
それを批判するというカソリックの態度は、本来の教義から逸脱した、
政治に絡む行為と写ってしまいます。
私は、この寄稿でみんなに靖国神社に参拝してもらいたいなどとは思って
おりません。神道も日本文化のひとつであり、何故日本人は「神社」に
こだわってきたのかを理解して頂ければと願うばかりです。
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「私見時事論談」収載ページは ▼ こちら!
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日本のお姉さんの意見。
hideおじさんの書かれている、まじめな宗教とは、
貧しい人や身寄りが無い人を助ける集団として存在する
愛の心がある宗教という意味だと思う。
宗教というのは、大きくなると政治色を帯びてきて、
政治団体と同じになる。
そうなると、政治的に合わない他の宗教は抹殺されるように
なる。カトリックは、ローマ時代の終わり頃に
最初に容認されて国の宗教になってから
急に政治的な団体になった。宗教は政治とは離れているべきで、
政治と結びつくと、国王や政治家にも影響を与えるような力を
持つようになる。
本当の宗教は、人と神さまを結びつけるためのもので、
神さまが持っておられる愛を人間の世界で実現していくものだ。
親を亡くした子供や、子供を抱えて仕事も無い女性、
身寄りが無い年寄りや、病人、体が不自由な者を
見捨てずにケアしたり、神さまを礼拝する教会や、
学校や病院などを建設して運営する宗教が
まじめで真実な宗教なのだと思う。
聖書にも、そう書いてある場所がある。
一般に、キリスト教と言えばカトリックのことを想像する人が多いが、
カトリックほど政治と関わってヨーロッパの王さまと共に
世界を支配してきた団体は無いと思う。
今のヨーロッパ人はほとんどカトリックだが、
聖書から見ると、彼らはキリスト教ではない。彼らの宗教は、
マリヤ象を拝み、変な奇跡を信じたり、おかしな祭りを行う
偶像崇拝者たちと変わらない。
スペイン人が信じるカトリックは、異端を信じる人々と言ってもよい。
聖書の預言では、終わりの日にローマから出てくる独裁者は
最初は女性をシンボルとした宗教をかかげて世界平和を語って
有名になる。大勢が見ている前で頭に致命的な傷を負うが
三日目に大勢が見ている前で回復する。その後、世界中から
歓迎されて、世界をまとめる独裁者になっていくのだと書いてある。
テレビ中継でもされて、衛星放送で世界中に注目される中、
奇跡的な回復力を見せるのだろう。三日目に回復するというところが
いかにも、偽(にせ)キリストらしい。
日本人の感覚から言えば、バーミヤンの世界遺産をイスラム過激派が
破壊したのは、許されない話だが、イスラムの考えでは、
たとえ世界の遺産だろうが、芸術作品だろうが、偶像は偶像なので
破壊するのが彼らの正義なのだ。
ピラミッドを守るかのように置かれているスフィンクスの顔も
イスラム教徒のおかげで顔が削られている。
昔のイスラムは顔を削るだけで、信仰の対象にならないとして
それで終わったがタリバンたちは、顔が削れただけでは物足りなくて
岩の中の像を爆破したようだ。
イスラエル人も、エジプトを出て、砂漠を歩いている時に、周りの国々の
楽しそうなお祭りの様子にひかれてよく、遊びに行ったりしている。
そうして祭りに参加している内に、外国の娘さんたちと交際したり、
イスラエルのテントに連れて来て愛を交わしたりしている。
また、そうこうしている内に、外国の偶像を持ち込んで拝んだり、
モーセがちょっとシナイ山にひきこもると、その間に持っていた金を
溶かして、牛の偶像を作って拝んだりしている。
イスラエル人は、相当、聞き分けの無い民だったのだということが
分かる。
モーセが、シナイ山で二枚の契約の板を神さまにもらって
山を降りていくと、イスラエル人が金の子牛の群像を
拝んでいたので、モーセは怒って契約の板をたたき割ってしまったのだ。
最初からイスラエル人は、神さまの規則をひとつも守ることが
できなかったのだ。
それが、人間なのだ。
イスラエル人は、預言者によって救い主に関する預言と、
世界の未来に関する預言を書かせられた民族で、神さまに
選ばれた民なのだが、
良い意味でも悪い意味でも彼らは、人類の代表だった。
人間は、神さまの規則をひとつも守ることができない生き物で、
だからこそ、無条件で救われる必要があるのだと、イスラエル人によって
確認ができる。ただ、罪の無い神さまのひとり子が、罪の罰を
身代わりに受けてくださったことを、信じるしか、
罪のある人間が救われる道は無かったということが、
イスラエル人が証明してくれたようなものだ。
人間は、自分の力では、神さまの要求を満たすことができない。
神さまの規則を守ることで、天国に行くことは不可能なのです。
契約の板は、そのことを分からせるためにモーセに与えられたのです。
イスラエル人は、他の宗教を信じたり偶像を拝んではならなかったし、
イスラエルを滅ぼそうと戦いを挑んでくるペリシテ人と、戦い、
彼らの偶像を排除しなければならなかった。
日本人が考える宗教では、他国の宗教も受け入れて破壊しないのが
まじめな宗教なのだろうが、
神さまは、イスラエル人に、偶像を破壊するように命令されていた。
それでも、イスラエルの歴代の王さまは、自分の国から、
完璧に高きところ(偶像を礼拝する場所)を取り除かなかった。
イスラエル人に対する神さまの教えでは、他国の偶像は粉々に
壊すのが正しい。
日本人の考える宗教は、世界の創造者であるイスラエル人の神さまとは
違う。バーミヤンは、世界遺産に指定されて、信仰の対象というよりも
世界のみんなが共有する遺産になっているので、タリバンがそれを
勝手に壊すのは、世界のみんなの気持ちを考えない行動なのだ。
その辺が良くないが、宗教的にはイスラムが昔からしてきたことだし
イスラムとしては別に悪くない行動なのだ。
靖国神社は、今は宗教法人なので、「宗教施設」だが、
本当は、昔から天皇が国のために死んだ日本人を祭る場所で、
天皇の行く場所だった。
自分の国を守るために、いのちを捨てた日本人を記念して
黙祷する場所が、古代から靖国神社ならば、そのまま宗教色を
無くして天皇が訪れる場所にしておけばよかった。
戦後、アメリカが神道の施設だからということで壊そうとするところを、
カトリックが
「そこは、宗教施設ではない。」と言って取り壊されるのをかばったと聞く。
アメリカも、神道が宗教ではなく、日本人の生き方の一部のようなものだと
気がついて、占領の後半では、
あまり靖国神社や神道を攻撃しなくなったそうだ。
日本人が、靖国神社を国のために死んだ人々を祭り、
記念とし、黙祷して敬意をささげる場所にすると決めたなら、
外国などに、へりくつを言われても、「「わが国の中の
宗教的、心情的、歴史的な習慣であるから、外国の理屈は関係ない!」と
堂々としておればいいのだ。
戦後、アメリカに戦争になった理由がすべて日本のせい
であると洗脳されてから、日本人はおかしくなったのだと思う。
日本と戦ってもいないチュウゴク共産党の勝手なへりくつに
付き合って、チュウゴクの言いなりになっているのが今の日本だ。
そういうポーズからの脱却を図った首相は、結局は脱却できずに去り、
今は、アメリカやチュウゴクの言いなりになって、なるべく
穏やかに問題をやり過ごそうというのが、今の首相の考えだ。
日本人が、かしこくならない限り、これからも日本は戦勝国の
言いなりになって生きる道を選択するのだろう。
在日やチュウゴクの工作員のおもわく通りに、日本人は洗脳され
愚かなままでこの国は穏やかに乗っ取られていくのだろう。
そうならないように、日本人は、
戦争の起こる前に何が起こったのか、
戦争の間は日本軍はどこが悪かったのか、そしてどこが
良かったのか、外国の軍はどうであったのか、
戦争の後は、どういう風にアメリカに躾けられたのか、
本当はアメリカはどういう国だったのか、
ちゃんと学んでおいたほうがいいと思う。