WEB熱線 アジアの街角から=hideおじさんの記事 | 日本のお姉さん

WEB熱線 アジアの街角から=hideおじさんの記事

▼▽ 私見時事論談 ▽▼       by hideおじさん

☆ 神道と靖国(2) ――――――――――――― 2007/09/21


さて、神道の講釈が長くなってしまいましたが、こと靖国問題についていうならば、――――第一に「政教分離の原則に違反している」ということが問題とされる部分でしょう。

しかし、諸外国は(政教分離を最初に唱えたフランスも、これを日本に持ち込んだアメリカにおいても)その解釈にファジーな部分を持たせています。何故かというと、日本以上に生活の中に宗教が密着しているケースが多く、厳密に政教分離を進めると、一般生活と政治に矛盾が生じるということから「グレーゾーン」を持たせています。

極論ですが、厳密に政教分離を唱えると、クリスマスなどの行事に大統領や首相が参加できなくなります。教会のミサにも行けないということになるでしょうし、宗教に関わってはならない政治家がクリスマス休暇を取るというのもおかしなことになります。

イギリスなどのように、国教を定めるということも許されませんし、フランスのように厳しく政教分離を唱えている国は、イスラム系の議員がスカーフをして国会に臨むことなども許されることではありません。(実際、問題になりましたが最終的には許されることになった)

日本においていうならば、政治家は初詣にも行けませんし、選挙区で行われる神社のお祭りにも、寄付することは勿論、参加することすら許されないことになってしまいます。地鎮祭の玉串料を公費で出したということで裁判になるというのは当然、ということになるでしょう。

国技の相撲も、もともとは神事でありますので、総理大臣盃などというものがあるのもおかしな話となりますし、町で行われる神社のお祭りに町役場が協力してはならないことにもなります。

特に、文化財保護といって国費で寺社仏閣の保護をしている現実は、政教分離に反しているといえるでしょう。また、おなじく国費で行われている新嘗祭、大嘗祭等々の皇室行事についても同様、神道に則って行われるものですから、政教分離の原則に反しているともいえます

東京のある町に引っ越してきた方が、市役所に「初詣に良い神社はどこですか?」と尋ねたら「政教分離の原則からお答えできません」と言われたという有名な話がありますが、政教分離を徹底させるとこのような例も当然のこととなります。

でも、私からするとこうした事例には非常な違和感を覚えます。

政教分離というものは、そういうものなのでしょうか? 生活に根付いているということからも、欧米と同じように「政教分離」についてファジーな部分があって当然なのではないでしょうか。

ヨーロッパでは「キリスト教○○党」というように、明らかに宗教団体をベー
スにしている政党もあります。厳密に政教分離を唱えるのであれば、このような政党はあってならないはずです。しかし、宗教が生活に密着している欧米では「矛盾」とは捉えておりません。――――逆に宗教を無視するような大統領や首相は国民の支持を得られません。

彼らのいう「政教分離」とは、個人の信仰の自由は認めるが、それを誰かに強制したり、国家としてある特定の宗教団体を特別優遇してはいけないということに集約されると思います。

振り返って日本をみた場合、大臣も国会議員も「神社」を参拝したからといって、それだけで政教分離に反する云々とはいえないと思います。事実、首相や国会議員、地方議員が普通の「神社」に参拝に行ったからといって問題にはなりません。小泉元首相が伊勢神宮を参拝しても、日本の誰からも、どこの国からも文句はありません。

であれば「靖国神社」とて同様ではないでしょうか?毎年参拝をしていた小泉元首相は、日本国民に対して靖国参拝を強制したわけでもありませんし、国として靖国神社に対して特別優遇をしているわけでもありません。参拝すること自体が特別優遇だとするならば、他の神社への参拝も当然批判されて然るべきです。

しかし、「神社」の成り立ち、国民の「神社」に対する思い、そしてその歴史からみても、国家元首が神社を参拝しても、欧米流の「政教分離」の原則を侵し国民の利益を損なう行為をしているとは考えられません。

戦後昭和26年に、アメリカ宣教師から貞明皇后が亡くなられたことに対して「黙祷」を強要されたとクレームが出ました。その宣教師は「日本の学校で、戦前の国家宗教への忌まわしい回帰が起きた。生徒たちは皇后陛下の御霊に黙祷を捧げることを命令された。キリストに背くことを拒否した子供たちは曝し者にされた」

またその宣教師は、「真のキリスト者は天皇を愛し、必要なら命を捧げるが、崇拝はしない」と強調したばかりでなく「戦前のキリスト者が神に忠実であったなら『真珠湾』は起きなかっただろう」とまで述べています。

何故「黙祷」が問題視されたかというと、キリスト教で「黙祷」は宗教儀式のひとつであるため、日本の「黙祷」も神道に係る宗教儀式と考えられたからです。これに対しGHQは、
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黙祷という言葉は仏教や神道のものではない。明治以前には使われていなかった。関東大震災の記念日に関連して行われ、戦中は種々の場合に行われた。超国家主義者の中には、日本的でないとして反対する者もいたが、代わる適当なものがなかったことを知った。何か特定の対象に捧げるものであるという主張には根拠がないように思われた
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(ウッダード「宗教と教育──占領軍の政策と処置批判」)

もう一つ見逃せないのは、昭和20年12月の「神道指令」と、現行憲法が定める政教分離規定とを同一視する憲法学者らがいるのに対して、ウッダードはこの考えを当時すでに否定していることです。

ウッダードは同じ論文にこう述べています。
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神道指令は(占領中の)今尚有効だが『本指令の目的は宗教を国家から分離することである』という語句は、現在は『宗教教団』と国家の分離を意味するものと解されている。『宗教』という語を用いることは、昭和二十年の状況からすれば無理のないところであるが、現状では文字通りの解釈は同指令の趣旨に合わない。
米国の世論は、非宗教主義に終わる可能性のある政策を支持しないだろう。米国では、明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある。
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「神道指令」は、神道からの「分離」を厳しく要求していましたが、貞明皇后の御大喪の例が示すように、占領期の後期には緩和され、GHQですら最早厳格な政教分離政策を採らなくなっていたのです。独立回復からすでに半世紀を過ぎた今日の日本が、できもしない完全分離にこだわる必要はないのではないでしょうか。
ましてGHQの関係者からも、「米国では明らかに宗教と国家との間に密接な関係がある」といっている訳ですから、例え神道が宗教とみられても、文化としての関係まで否定することはないはずです。

日本の官僚・知識人が絶対的分離に固執するのは、占領政策の残滓というよりも、もともと彼ら自身に近代合理性の精神に由来する、とくに神道に対する、宗教的偏見があるからなのではないかと思うのです。その偏見が、GHQでさえ捨て去った完全分離主義への郷愁を保ち続けさせ、他方では、神社嫌いの一部の宗教者たちがその偏見を煽り立て、愚かしいことに、自分たちを否定することになる非宗教主義的な無色中立政策を採らせているのだと思います。
│●│ コメントボードに頂きました感想。
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┌──────────「lonsome carboyさん」

「そうだこのとおり!」に一票!

神社・神道は、まったく以って世界中の概念である宗教ではないと思います。
これは、生活の延長線上にある習慣・風習であり、森羅万象を畏れる道徳感情・理念であり、自分をピュアリファイする場だと思います。特定の神や教祖ではない「Something Great」への畏怖の気持ちですね。

弊社の本社から時おり来日・滞在する欧米人の同僚などには、それを説明し、靖国神社(鎮魂・慰霊・感謝)や近所の小さな天満宮(小さな願い事・ご利益)等へ連れて行くと、みな理解を示し何のわだかまりもなく参拝しますヨ。

日本人でありながらイチャモンをつけているのはゴリゴリのサヨク----この人らは、子供の時分に、親にお宮参りに連れて行って貰えなかったのでしょうかね?又、自分の子供の七五三を祝ったりしないのでしょうか?----か、それに毒されて妙な罪悪感を持っている小心者の偽善者、または特定の新興宗教の信者ぐらいでしょう。

一般の日本人の殆どは、言葉にしなくとも、神道に対する共通認識を持っている、、と信じたい。

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┌──────────「hideおじさんから」

いつもいつもありがとうございます。全くもってコメントを頂戴したとおり、私の仕事先、取引先の欧米人は、何の躊躇いもなく、靖国にしても他の神社にしても参拝します。

彼らに聞いてみると、やっぱり感覚が違うんですね――――。彼らの「宗教」はあくまでキリスト教であって、その他は、宗教というより「文化」として捉えている部分が非常に大きいようです。

悪くいえば「宗教」は「キリスト教だけ」であって「イスラム教」など宗教として認めていないのでは?と思うふしがあります。----お互いに宗教と認めないからこそ、十字軍に代表されるような宗教戦争が起こったのではないでしょうか?

英語で仏教は「Buddhism」。イスラム教は「Islam 」ともいいますが「Mohammedanism 」といいます。単語
の最後に「~ism 」とつくように「主義・観念・精神を表すもの」という意味があるのですが、よく言われる「Nationalism」も「~ism」が付いてます。

ところが神道だけは英語でも「Shinto」なんですね。

最初は「Shinto-Buddhism」とも言われたのですが、うも違う?ということで今では「Shinto」となってます。神道は英語でいう「~ism」が付かないように、宗教とか主義主張のようなものと同列に表現できない為、日本語がそのまま英語になったといわれています。

日本酒の「酒」「納豆」など、そのまま英語になった単語も沢山ありますが、他に表現の仕様がない為、というのがその理由です。同じように、神道も英語で他の表現に代わるものがないので「Shinto」になったと考えてよいのではないでしょうか。

言葉ひとつを取り上げても、神道を他の宗教とは別な日本独特の感性を表しているものとして、特に欧米人には「日本文化の代表」と捉えられているようです。

先の投稿でもいいましたが、神道を無理矢理「宗教」にしたのは、日本人ではなくGHQなんですね。でも、よくよくみたら宗教ではないということで、その後は何もいわなくなったという、非常に面白いいきさつもあります。

ブッシュ大統領が「靖国神社参拝」を希望したとき、日本の外務省は大いに反対しました。ーーーアメリカの外務省ではなく、日本の外務省が「参拝してもらっては困る」などというのは、アメリカからすれば理解できないものでしょうね。

アメリカでさえ、「最初は宗教だと思ったていけど、違ったからなんにも言わないよ」と考えて靖国参拝は「儀礼」として捉えているのに、何故日本が「宗教だ!」云々と騒ぎ立てるというのは、日本人自身が日本の文化を理解していない、、その現われではないでしょうか。

今回は、そこの部分を考えて投稿させて頂いております。今後とも宜しくお願
い致します。

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┌──────────「ミカの赤い服さん」

hideおじさん、こんにちは。――――バチカンの指針「戦没者への敬意は宗教儀礼ではなく国民儀礼とみなされてきた」というのは納得できました。

だからこそクリスマスやバレンタイン、最近ではハロウィンといった外国の宗教行事が、「宗教」抜きに日本人の生活行事として生活に入り込んだのでしょ
う。

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┌──────────「hideおじさんから」

本当に、いつもありがとうございます。仰るように、クリスマスにしてもハロウィンにしても、キリスト教行事が日本では「イベント」として受け入れられておりますが、ーーー神道も同じように、仏教という異文化を素直に受け入れている部分があります。

昔から、日本人というのは異文化を受け入れて、自分なりに消化する能力というものがあったのではないでしょうか。そこには、本来含まれている「宗教」というものを除いて日本化させるというのは、他国ではみられない行動です。

例えば有名な「金比羅さん」など、元々は梵語の「クンビーラ[Kumblira]」が由来です。――――インドのガンジス川のワニ、という意味なのですが、仏教の守護神のひとつされ、日本にもたらされてから仏教とは関係のない「金比羅大権現(神社)」に変化するのです。「ワニ」から、「水」に関係あるということから、今では「航海の神様」等にされています。

神社の狛犬も同様に、(諸説あり確定されていない)、ルーツはなんとエジプトのスフィンクスという説もあります。――――ペルシャ・インド・中国を渡って、日本では「犬」に変わっておりますが、中国・インドでは「獅子」、エジプトでは「猫」ではないかとされています。

エジプトのファラオ信仰から、ペルシャ・インド・中国の仏教を通じて、日本では「神社」の中にそれが組み入れられたというのは面白いです。「お寺」があるのに、何故「神社」なのか?今でも詳しい理由は分っていないそうです。

多分、守るべき聖域の守護神としての役割ではないか?といいますが、これとて日本ならではの発想かもしれませんね。――――ちなみに、狛犬は必ず対になっており、片方は口を開けており「阿」とよばれ、片方は口を閉じて「吽」と呼ばれてます。それでふたつつなげて「阿吽[あうん]」「阿吽の呼吸」はここからきているそうです。 

一方、お寺のない地域はあるが神社のない地域はないといわれるぐらいその数が多いです。ーーー有名なお稲荷さんは、日本の神社の1/3を占めているといわれるぐらい多いです。

江戸時代には「○○と稲荷の犬の糞」といわれ、どこにでもあるといわれていました。――――何故こんなに神社があったのでしょう?

「お稲荷さん」は「いねなり[稲成り]」からきているのでは?という説が一般的です。五穀豊穣を願った日本人は、今年採れた稲を神様に捧げて感謝する。稲は富の象徴、、それで商売の神様というふうになっていったそうです。

同じように、「木綿」も日本人の服として大変重要であり、自然からの贈り物とされて神に感謝するものとなりました。「木綿」というと何色を思い浮かべますか?――――「白」ですね。

稲と木綿を組み合わせて「神」に感謝することから「しめ縄」が生まれてきたようです。それと、木綿は「白」=清らかなもの、そして自然界にこれらをもたらす太陽「赤」、これが組み合わさって「日の丸」になったのであろうというのが私の推理です。

故郷に帰れば必ず「神社」があります。何故なのでしょう?万葉集では、「神社」と書いて「もり」と読ませる歌がたくさんあります。また、神社に限っては何故「森」ではなくて「杜」というのでしょう――――。

神社を調べていくと、不思議なことがいっぱいあります。これから、少しずつお話していきたいと思っています。ーーー今後とも宜しくお願いいたします。
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ここからは、日本のお姉さんの意見です。↓

もっと、日本政府が、靖国神社は、

戦没者を記念し、彼らが日本のためにいのちをささげたことを

思い出し、新たに彼らが愛した祖国を

次の世代のわれわれも守っていこうという誓いを立てるという

日本の施設であって、宗教施設ではないのだと、

みんなに宣伝してくれたら、

クリスチャンでも行ける施設になるのでは?


今のままでは、宗教施設だと「みんなに思われている」から、

クリスチャンは行けないね。

靖国神社にあるのは、名簿だけなので、宗教施設ではないと

頭では知っているのですが、わたしは「神道」は、宗教だと思っているし、

みんなが手を合わせて拝んでいる場所は宗教施設になっていると

わたしは心で感じている。わたしは日本のクリスチャンだ。

アメリカ人は、アーリントンの墓地のような感覚で靖国神社に行って

黙祷できるのだろうが、わたしは日本のクリスチャンらしく、

自分の意志で靖国神社には行かない。


でも、戦争の時のことを書いた本を読めば、日本が存続するために

命を捨てた日本人の気持ちを感じることができるので、

わたしも、彼らの意志と願いを受け継いでいこうと考えているんです。

何をしたらいいのかは、分かりませんが、歴史の勉強をすることが

日本の役に立っていると思うので、いろんな本を読んで

勉強しているところです。日本の天皇のことも、世界一古い家系の

日本の王様なんだから、敬愛しています。聖書にも、上に立つ者を

尊敬して法に従いなさいと書いてあるし、誰が首相になっても、

文句を言いながらも応援します。安倍元首相のことも応援していた。

一年間で、昔の首相たちができなかったことを、捨て身で

たくさんやったのだから、わたしは安倍元首相が好きだった。

病気で首相を辞めたのに、安倍元首相を悪く言うテレビの

コメンテーターは、言うことが下品で醜(みにく)い。

日本人って、こんなに変な人種だったっけ?

by日本のお姉さん