独立国タイと、日本人
タイの歴史は以外に古い。紀元前4000年までには、初期の青銅器
文明の中心地として、稲作を中心とした集団が今のタイに出現していた
そうだ。
昔のタイは今の人種とは違い、マレー人、モン族、クメール人などで、
今のタイ人は、言語からみて6世紀~7世紀にチャイナ南部から移住
した人々である可能性が高いそうだ。
今のタイは、1238年に、スコータイでクメールを倒した民族で、1350
年に出現したとタイ人は考えている。その後のアユタヤ王朝の時期は、
タイは相当繁栄していた。
上座部仏教を公式の宗教として独自の法律を持っていた。
日本人の山田長政は、江戸時代前期、徳川二代目将軍秀忠時代の
駿河生まれの人で、27歳の時に商人の船に乗ってシャム(現タイ)に
行き、アユタヤ王朝のソンタム王の元で貿易をしながら日本人義勇隊
の隊長として、カンボジア、安南、トンキンと戦って活躍し高い地位に
ついた。
山田長政は、ソンタム王の死後、後継者である王子を殺した権力者
にリゴール州に追いやられ、バタニー国と戦うことになった。
権力者の息のかかった医者に、戦争中に受けた傷口に毒を塗られて
暗殺された。40歳だった。
その後、日本人町も、権力者が仕向けたアラビア人、タイ族、華僑の
軍に滅ぼされた。逃げ出した日本人はその後シャムに戻ったが、
寛永12(1935)年、鎖国令のために日本との関係を絶たれて、
現地人との混血が進んで消滅した。
アユタヤは400年以上続いたが、ビルマ軍によって破滅し、国は6つ
に分かれたが、その後タークシン将軍が、トンブリーを首都として
タイ王国を再統合して、1769年にトンブリー王朝の王となった。
タークシン将軍が精神の病を患い殺害され、1782年、彼に仕えて
いたチャクリがトンブリーの対岸バンコクを首都として、チャクリ王朝
を築いた。この王朝は現在も継続している王朝で、彼はラーマ1世
として、チャクリー王朝の最初の王となった。現在の王はラーマ9世
(プーミポン・アドゥンラヤデート)だ。
1826年にイギリスがビルマを侵略した年に、タイ王国はイギリスと
友好通商条約を結んだ。1833年にはアメリカもタイ王国と外交を
はじめた。タイでは、モンクット王(ラーマ4世)と息子チュラーロンコーン王
(ラーマ5世)の2人が、巧みな外交で西洋人による植民地支配を免れた。
イギリスの植民地マレー、シンガポール、ビルマと、フランスの植民地
カンボジア、ラオス、ベトナムの緩衝地帯として、タイは東南アジアで
唯一、独立を保持した。
1882年には、タイは日本と(明治15年)国交を樹立している。
映画「王様と私」は、当時モンクット王(ラーマ4世)が息子(ラーマ5世)
のために英語の教師としてインド生まれのアンナ・レオノーウェンズ
女史を雇ったことを元に作られた小説をミュージカル仕立ての映画に
したもので、「Shall we dance?」はミュージカル映画「王様と私」の
主題歌だ。
タイでは王様に対する不敬罪があり、「王様と私」は王様を侮辱する
映画だとして上演禁止となっている。
チュラーロンコーン王が王位についてから奴隷制度を廃止したのは、
アンナ・レオノーウェンズ女史が小説「アンクル・トムの小屋」を教えた
からだとなっているが、時代の流れでそうなったのだろうし、王様と
女史はそんなに仲がよくはなかったそうだ。
アンナ・レオノーウェンズ女史の息子は王族の娘と結婚している。
1932年には、人民党によるクーデターでタイの政体を絶対君主制
から立憲君主制へと移行させた。
タイは昔からクーデターが多く起こる国であるが、王室を中心に
国民が団結しているので、人々はクーデターが起きてもあまり動じない。
ピブーンソンクラーム首相は、1939年9月にヨーロッパで第二次世界
大戦が勃発した直後に中立宣言を出していた。
タイは、華僑に、華僑学校を閉じてタイ語の教育を受けさせ、華僑の
入国を年間100人に決め、外国語看板に重税を課し、華僑が
理髪店やタクシー運転をしないように決め、華僑の二世には
自動的にタイ国籍を与えた。
1949年5月11日に、シャムというサンスクリット語の国名を自由(タイ)
な国という意味のタイに変えた。
ABCD包囲網で日本が苦しんでいる時に、生ゴムと綿を日本に提供
してくれた。アメリカが日本の在外資産凍結をしたときは、タイは日本に
多額の金を貸し付けてくれた。
満洲国を承認した国で、リットン報告の後、ジュネーブの国際連盟の
対日非難決議でも、唯一棄権して日本に好意を示してくれた国だ。
1940年に、日本軍が仏印での戦いのためにタイを通過させてくれる
ように頼むと、直ぐにピブーンソンクラームは許可した。
ピブーンソンクラーム首相は、蒋介石にも「同じアジア人として日本と
手を結び、帝国主義的米英を駆逐するべきである」と電報も打って
くれた人物で、日本を理解していた。
独立したビルマ、フィリピンを真っ先に承認したのもタイだった。
タイはフランスやイギリスに領土を奪われていたので、
1940年9月10日に、隣国の仏領インドシナと対仏国境紛争を
開始した。1940年1月に日本の仲介により講和を締結し、仏印の
一部を自国領に併合した。
1941年12月7日に、日本軍がマレー半島やビルマへ向かうためタイ
に上陸した際も、ピブーンソンクラーム首相はその場にいなかったが、
戻って直ぐに通過を許可してくれた。
1941年12月21日には日泰攻守同盟条約を締結し、タイは日本の
同盟国となった。
東条英機は、タイがフランス、イギリスに奪われた土地をタイに返した。
1942年1月8日、タイが日本の味方をしたというので、タイの地方
都市も米・英空軍の空襲を受けるようになり、25日にはタイも
米・英に戦線布告をして参戦することになった。
1945年8月に日本が戦争に負けると、内閣の官僚の
ルワン・プラディットマヌータム(本名プリーディー・パノムヨン、
摂政で後の首相)が、「タイの宣戦布告は無効である」と宣言した。
こうしてタイは、連合国による敗戦国としての裁きを免れ、国際連合
での敵国条項にその名を連ねることもなかった。
日本が負けると、かつてフランス、イギリスから取り戻した土地はまた
奪われてしまったが、戦後のドサクサに侵略してきたフランス軍を、
国際連盟に訴えて撤退させるなど、実に外交が上手い。
日本が戦争に負けた時は、タイは日本軍の避難場所となった。
戦後、タイはイギリスに支払う賠償金で大変だったようだ。また、日本
がタイに借りた20億バーツ(当時の換算で10億ドル以上)の巨額な
日本側の借金を日本が敗戦して焼け野原になっているのをみて
同情してくれて、40分の1の2500万ドルにまで値引きしてくれたの
だった。
一時期、タイから亡命者として日本にきていたことのあるサラサス氏
も、マッカーサーに会って「日本をいじめるのは間違っている。
将来アメリカはソ連という共産国と戦うことになる。そのとき力に
なるのは日本である。日本をいじめる事は、アメリカの為にも
アジアの為にもならない」と進言してくれたそうだ。
またサラサス氏は、戦後、日本の子供が象を動物園に欲しがって
いるのを知って、象の花子と米10トンを私費で寄贈してくれた。
アーナンタ・マヒドン王は、1946年に、公式見解としては銃の
手入れ中の暴発事故で死亡、プーミポン・アドゥンラヤデート
(ラーマ9世)が即位した。
ラーマ9世は、日本の戦争中から敗北以降も、米英を支持した
「自由タイ」というタイ人の団体の支援を受けて、アメリカと非常に
親密な関係を保った。
タイは、冷戦期は、ビルマ、ベトナム、カンボジアおよびラオスの
ような近隣諸国の共産革命に脅かされた。
タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受けた。
ベトナム戦争ではアメリカを支援して、ラオスおよびベトナムへの派兵
を行い北爆のための空軍基地の開設も許可した。またタイは、
米軍の補給・休養のための後方基地を提供した。
ラーマ9世期のタイは立憲君主政体であったが、それは名目上で、
実は軍政であった。1992年の民主選挙以来、タイは民主主義国家
となった。
タイは東南アジア諸国連合(ASEAN)の積極的な参加国である。
タイは、日本と昔から付き合いのある国で、日本が物も金も無いとき
に必要な物や金を揃えて出してくれた国なのだ。
日本人は、タイが日本にしてくれたことを覚えているのだろうか?
覚えていないのなら、それはなぜだろうか?
戦争はずっと昔の出来事だから関係ない、嫌な思い出だから早く
忘れたいという態度では当時の状況を把握できずに、周りの国が
都合のよいように作り出した「周りの国目線の歴史」に日本国民が
振り回されることになるのではないだ
ろうか?
日本人が、戦争について語らない、または、何が起こったのか知ろうと
しないのなら、タイのような戦前から戦後までずっと日本によくして
くれた国のことも忘れてしまうだろう。
アジアの国々の問題を日本とは係わり合いのないことだと思い、
以前受けた恩義も忘れて、無礼な態度で生きる日本人を大量
生産してしまうことになるだろう。
その恩を忘れた無関心な態度は、日本人らしさを失くした行いだと思う。
戦争は嫌だ、戦争はよくない、戦争が起こらないようにしなければなら
ないと口ずさむだけでは世界は平和にならないし、何も始まらない。
わたしたち日本人は、歴史から学んで成長しているのだろうか。
外国の外交の上手さ、情報戦の上手さ、国益のために外国と
駆け引きをする方法などを学んできているのだろうか――――。