8月19日の停戦交渉で、関東軍の捕虜をシベリアに送り、使役につかうことを容認したという疑い | 日本のお姉さん

8月19日の停戦交渉で、関東軍の捕虜をシベリアに送り、使役につかうことを容認したという疑い

渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第920号
平成19(2007)年09月04日(火)
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泥沼のイラク さらに6兆円
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 平井 修一

「ワシントンポスト」紙2007年9月2日号は、イラクの石油と電力の生産
が回復に程遠く、米国は巨額の資金投入を迫られていると報じている。
以下、抄訳する。
・・・・

米国のゴールから遠いイラクのエネルギー事情
需要を賄うためには500億ドル必要

by デーナ・ヘッジペス(ワシントンポスト・スタッフライター)

イラクの重要な産業である石油と発電については、米国は4年以上にわた
って60億ドル以上を注ぎ込んだものの、需要に見合うためにまだおよそ
500億ドルを必要とすると、アナリストと当局が言っている。

2003年の米国のイラク進攻以来、ブッシュ政権は445億ドルの復興策の多
くを石油と電気に集中させてきた。

現在、米国主導の復興段階は終わりに近づいているが、イラクは電力シ
ステムにさらに270億ドル、石油インフラのために200億ドル~300億ドル
が必要だと、政府監査部はイラクと米政府当局の分析から試算している。

資金提供があっても、イラクが1日につき600万バレルの油を生産して、
需要に見合う十分な電力が生産するには2015年までかかると政府監査部
は指摘している。陸軍工兵隊のある司令官は、早くても電力回復は2010~
2013年だろうと言う。

「米国の金は、それらの産業の回復を図ることを目的として投入された」
と、スチュアートW.ボーエンJr.は語る。彼はイラク再建のためのアメリ
カ特別監察官で、数十億ドルの戦費・復興費用を無駄、詐欺、汚職から
守るのが仕事だ。

「我々は、荒廃し、疲れ果てたシステムの中で働いてきたが、まだまだ
先は永い」と嘆息する。

石油と電力セクター復興に関係していた国防総省当局の前幹部は、さら
にはっきりとこう断言する。「人々はこの金は国を再建するためのもの
だと言った。

しかし、それは頭金でしかなかった」。彼は政府の職員のため匿名を条
件に話してくれた。「資金は、あれこれすべてを取り扱うのにはまった
く不十分で、バンドエイドに過ぎなかった
」。

問題が解決されないならば、強い経済を確立し、生活水準を改善するこ
とは難しく、人々に政府に対する信頼を失わせることになるだろう。

石油と電力はイラクの最も重要な産業のうちの2つで、各々が重く他に依
存している。イラクは、1年、およそ26億ドル相当の石油製品を輸入して
いる。石油輸出はイラク政府の歳入の90パーセントを占めている。

しかし、石油生産は、精練所とパイプラインのための十分な電力なしに
は稼動しない。一方で電力は、大部分のイラクの発電所の原動力となる
石油燃料なしには生産できない。

米政府当局は、イラクのインフラが予想した以上に悪かったと言う
1990~91年の湾岸戦争と10年間の経済制裁で大きなダメージを受けてい
た。

油井は荒れ、発電所は修理の器材と部品がないのでぼろぼろだ。ある米
国の監査役は、22人のイラクの電気技師と一日を過ごした際、発電機の
部品にペプシコーラの一端を切り落した底を使っていることに驚かされ
た。

アメリカ国民は、発電施設、変電所、送電線を修復する2600以上の計画
に46億ドルを注ぎ込んだ。国の石油インフラの改良には17億5000万ドル
を注ぎ込んだ。

もう1つの大きな問題は、武装グループによる定期的な石油・電力施設
への攻撃だ。

アナリストは、イラクが油をポンプで揚げ加工するために、器材の改善、
維持、発電所と精練所の労働者の訓練などインフラ整備にさらなる投資
が必要だという
。「彼らは、すべての分野でより多くの支援を必要とし
ている」。

陸軍工兵隊のガルフ地方師団の司令官であるマイケルJ.ウォルシュ将軍
はバグダッドから電話インタビューにこう答えた。「我々がこの4年でし
てきたすべては、インフラ整備を始めるのに十分だった。今度はイラク
政府がそれを続ける必要がある」。

 ◎瀬島龍三氏が死去 元大本営参謀、老衰で

元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、老
衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。葬儀・告別式は未
定。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、
大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜と
なってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進
出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手
掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。副社長、副会長
を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任
を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨
調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。

2007/09/04 02:52 【共同通信】
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8月19日の密約説
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         古澤 襄

瀬島龍三氏が9月4日、老衰で亡くなった。95歳。シベリアに抑留され
た旧日本兵の家族や遺族たちにとっては、複雑な思いがあるだろう
。私
もその1人である。瀬島氏は満州で敗戦を迎えている。肩書きは関東軍
参謀、陸軍中佐であった。

関東軍の終焉については作戦参謀だった草地貞吾陸軍大佐の「草地貞吾
回想録」(芙蓉書房)がある。11年半のシベリア抑留でスターリンの日
本人赤化教育に屈せず、毅然として志操を守った人物。

敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日に
ジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随
行したのが瀬島中佐であった。交渉といっても一方的なものであったと
草地氏は回顧している。

この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。「瀬島龍
三 参謀の昭和史」(文春文庫)の著者である保阪正康氏は、文庫版の
ための追記で「瀬島氏への疑問は一点に収斂される」として

!)大本営参謀として語っておかねばならぬ事実!)関東軍参謀としての自
らの役割!)昭和20年8月19日のソ連側との停戦交渉!)東京裁判でのソ連
側証人に選ばれた経緯!)将校の民主化運動を指揮した事実・・・を挙げ
た。

しかし瀬島氏は、これらについて口をつぐんで語らなかった。一番の疑
惑は8月19日の停戦交渉で、関東軍の捕虜をシベリアに送り、使役につ
かうことを容認したという疑いである。

ソ連側の脅しに屈しなかった草地氏は”反動”の折り紙をつけられて、
ソ連の監視兵と日本側の民主化グループから、手厳しい暴力を40人の仲
間と一緒に受けている。

共同通信社社会部編の「沈黙のファイル」(新潮文庫)は「瀬島龍三と
は何であったか」の副題がついている。

この中で1954年2月5日に元関東軍参謀・志位正二(陸軍少佐)が「自
分はソ連のスパイでした」と警視庁に出頭してきたことが書いてある

ソ連の在日代表部書記官だったユーリー・ラストボロフが米国に亡命、
日本におけるソ連のエージェントとして志位ら36人の存在が明らかにな
った。

志位は警視庁の取り調べに対して「米国のデモクラシーというものは、
他国民を犠牲にして自国の安全と平和、繁栄を築きあげる利己的なもの
である。

日本の平和と独立のためには、ソ連と協力してソ連・中国と平和関係を
結び、米国を日本から追い出すことしかない」と供述している。ソ連か
ら帰国した元高級将校には、志位と同じ考え方をするソ連派がかなりい
いる。

その一方で反動の折り紙をつけられた草地氏のような元高級将校も数多
くいた。瀬島氏はハバロフスクの第16収容所の21分所に収容されたが、
約600人の団長になって、ソ連当局との交渉役であった
。「ある程度ソ連
の言うことを聞いて、健康な身体で帰国しよう」と説得していたとの証
言がある。

ロシア国防省中央公文書館に一枚の軍事機密暗号電報が保存されてある。
発信時は敗戦12日後の八月27日。関東軍から大本営参謀次長・河辺虎四
郎宛のもので「原子爆弾保管の件、長崎ヨリ東京ニ持帰リタル不発原子
爆弾ヲ速ヤカニソ連大使館内ニ搬入保管シオカレタシ」。起案責任者は
瀬島龍三となっている。

長崎に落とされた原爆の不発弾が存在したのか、今もって謎である。
らかなのは瀬島電報がロシア国防省中央公文書館に保存されていること
である。

これについてソ連軍の元通訳のチタレンコが手記を残している。「瀬島
氏の名前は正確には覚えていない。だが彼は明らかにソ連軍司令部に日
本から不発の原子爆弾を受け取るよう提案していた」と記していた。

彼は言ったという。「日本を占領するのは米国であろう。米国が原爆を
独占したら、日本は植民地として2度と立ち上がれない。原爆がソ連に
もあれば、日本は近い将来、大国間でしかるべき地位を占めることがで
きる」と。

この「彼」は瀬島氏ではなかった。後に大本営参謀だった朝枝繁春中佐
だったと分かった。それを関東軍作戦主任の瀬島参謀に頼んで打電して
貰っていた。

実は不発原子爆弾は存在していなかった。長崎の原爆が投下された時に、
米軍は落下傘で高層気象観測装置のラジオゾンデを3個投下していた。
これが不発原子爆弾と誤認された。

ソ連抑留から瀬島氏は1956年に帰国した。2年後に伊藤忠商事に入社、
その後の活躍は山崎豊子氏の小説「不毛地帯」の主人公・壱岐正中佐と
して華麗に描かれている。中曽根元首相のブレーンとして土光臨調委員
にもなった。

戦後の軌跡が栄光の輝きを持っただけに、これに反発する旧軍人の間に
は、八月十九日のソ連軍との停戦交渉で、瀬島氏が関東軍の捕虜のシベ
リア抑留と使役を申し出たという密約説が消えない。(
ふるさわ のぼ
る氏は元共同通信社常務理事)
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何もしゃべらずに老衰で死んだのだから、真実は分からないままに

なった。でも、そういうウワサは、本で読んだことがある。

「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日に
ジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随
行したのが瀬島中佐であった。交渉といっても一方的なものであったと
草地氏は回顧している。」

交渉と言ってもソ連側の一方的なものだから、

日本人の瀬島氏が何を言ってもあまり関係なかっただろう。


北海道を攻めない代わりに、関東軍の捕虜がシベリアで抑留されて

鉄道を建設するとでも交渉したのかな。

でも、そんな交渉をしなくても、アメリカはソ連に北海道をとられたく

なかっただろうから、ソ連は北海道まで攻め込むことはできなかった

だろう。アメリカは、ソ連に「北海道に入るな、その代わり

元日本兵をシベリアで奴隷のようにこきつかってもいい。」と、

語ったとかいうウワサもある。元日本兵が戦争が終わった後も、

長い間、シベリアに抑留されるのは、国際法違反だ。

国連は、日本人を助けてソ連に文句を言ってくれたか?

アメリカは、ソ連に文句を言ってくれたか?

言ってないよね。

どこかで誰かが、ソ連と交渉をした可能性もある。

ソ連が北海道を奪わない代わりに、元関東軍兵士がソ連の奴隷に

なって、シベリア鉄道ができあがるまで抑留されてもよいと、

誰かが言ったのかもしれない。

でも、ソ連のことだから、誰もそんな交渉をしなくても、

元日本兵をシベリアで奴隷にしただろう。

だから、やっぱり、何があったのか

分からないね!

シベリア鉄道が出来上がってから、日本がアメリカに訴えて、

抑留されていた元日本兵を返してもらうよう、ソ連に

促してもらったらしいが、なぜ、アメリカは、それまでシベリアに

抑留されていた元日本兵を助けてくれなかったのだろう?

とにかく、ソ連人、ロシア人のやることは、

いつも、汚い。

約束を守る習慣はあまり無くて、

卑怯なことをしても平気な性格を持った民族なのかもしれない。

昔のロシアよりも、共産国になってからのソ連は、人間に対して

非人道的になった。共産刻は、基本的に無神論の国なので、

人間のいのちを大事にしない。神さまよりも、共産党の体制を

キープすることが、大事な非人道的な国になった。


満洲でロシア人に襲われた日本人によると、当時のソ連人は、

時計の使い方も分からない野蛮人揃いで、両手に日本人から奪った

時計をいくつもはめて、喜んでいたそうだ。ネジも巻かず、時計が

止まったら怒って捨てていたそうだ。

満洲では、ロシア人は日本人女性を子供の前でも平気で強姦して

いた。小さな女の子でも、平気で強姦したあと殺していた。

まるで、野蛮な「けだもの」のようだったそうだ。

それで、日本人女性はみんな頭を丸刈りにして、男に化けていたそうだ。

当時、満洲にいてソ連兵に強姦された日本人女性たちは、そのことを

語らない。子供を連れて日本に帰ってこられた日本人女性は、まだ

幸せな方だ。満洲のアパートの部屋の中で、押し入ってきた大勢の

ソ連兵に、母親が目の前で強姦されたのを見ていた子供が、

当時のことをテレビで語っていたが、

もう、おじいさんなのに、当時のことを思い出して泣き出しておられた。


日本が戦争を止めようとしているのに、それを分かっていながら満洲に

攻め込んできた汚いソ連が、なぜ、北海道をあきらめて、

北方領土だけで止めたのか、不思議だ。


アメリカが強くけん制したからかな。

明らかに、北海道を奪うつもりで、北方領土を奪いに着たのに、

なぜ、北海道まで来なかったのだろう?

アメリカが、何か勝手にソ連と交渉したのかもしれない。

だから、元日本兵がシベリア抑留されても、アメリカは黙っていたの

かもしれない。でも、アメリカ人にとっては、元日本兵がシベリアで

奴隷のようにこき使われて何人死のうがどうでもよくて、

何の理由も無く、無関心だったから

助けてくれなかっただけなのかもしれない。


結局、北海道がソ連に奪われなかったのは、アメリカ軍がすばやく

日本に入ったからだし、日本は北海道も本州も四国も九州も

西洋の国々にバラバラに植民地にされずに残ったから、まだ

マシだったと思うしかない。アメリカは、日本を民主化したと

考えているようだが、日本が抵抗したから、世界は植民地支配を

止めて、しだいに民主的になったのでは?


日本が戦争に負けてからも、世界のあちこちで独立運動は

続いたし、アメリカの国内では黒人が人種差別の撤廃を求めて

抗議していたよね。昔は、どこの国も今よりもひどい国だった。

その中で、チュウゴクとロシアは、ずっと人権に関しては進歩が無い。

あいかわらず、政府のジャマ者は、あっさり処分される恐い国の

ままだ。共産国って、そんなものだ。戦後の日本は共産主義の

人だらけだったらしい。ソ連もチュウゴクも、洗脳した日本人を

送り込んできたからね。日教組は、教員たちをまとめ上げ、

教師たちは共産主義を子供に植え付けた。わたしも、小学校の時に、

君が代は、天皇賛美の変な国歌だとか、みんなで働いたお金を

みんなで分けるのがいいとか、教師に教えられた記憶があるよ。

あれは、共産主義の宣伝だったんだね、今になってみると。

by日本のお姉さん