シンガポールの独立と日本人 | 日本のお姉さん

シンガポールの独立と日本人

シンガポールは、サンスクリット語のシンハプラという言葉からきた言葉

で、ライオンの町という意味なのだそうだ。

シンガポールの象徴となっているマーライオンは、古い地名の「海の町

(テマセク)」と、「ライオンの町(シンハプラ)」をいっしょにして、マーメイド

(人魚)でなくて、頭がライオンのマーライオン(獅子魚)にしようと

決まって作られたそうだ。

シンガポールの伝説では、スマトラのアレキサンダーの末裔が、

ビンタンの王女と結婚して、1160年にシンハプラを建設したという。

1252年にジャワのマジャパイト王朝に攻撃されて米も採れないよう

な場所になったといわれている。

その後は、何十人かのマレー漁民が住むだけの島となっていた。

1819年、西インド生まれのラッフルズが、マレー半島ジョホールの

サルタン(王様)から、5万ドルでシンガポール島を購入した。

ラッフルズはバタビア(現ジャカルタ)の副総督だった。

ウィーン会議でイギリスはマラッカを捨てたが、ラッフルズはその代わ

りにシンガポールを領有するよう総督を説得した。

ラッフルズが1826年に死んだ後、アヘン戦争でイギリスは香港を得た。

またイギリスは、スエズ運河の株券をフランスから買い、エジプトを

支配した。

1828年にはマレーの4州を支配し、ジョホールも植民地にし、ビルマ

も制圧した。イギリスはインドばかりでなく、ビルマ、シンガポール、

マレー、北ボルネオ、香港をほぼ同時に手に入れた。

ワシントン会議の後は英米で日本を圧迫しようということになり、シンガ

ポールがイギリスの軍事拠点となった。

シンガポールには十ヶ所近くの航空基地が建設された。周辺の島々が

まず要塞化された。18インチの大砲や浮ドックが用意された。

100万トン入りの重油タンクも備え、イギリスは15年の期間と、

当時の金で4億円をかけ、シンガポールを世界の四大要塞のひとつと

呼ばれる大要塞に変貌させた。

大東亜戦争の勃発を予測して、イギリス本国から世界最新鋭の戦艦、

プリンスオブウェールズと巡洋戦艦レパルスが、上陸してくる日本軍を

迎え撃つためにシンガポールに向かった。

1941年(昭和16年)12月8日、日本時間の午前1時30分、日本軍は

マレー半島コタバルに上陸した。真珠湾攻撃は12月8日の日本時間

で午前3時25分なので、コタバル上陸のほうが早い。

プリンスオブウェールズとレパルスは8日午後6時55分に出撃したが、

航空部隊の支援はなかった。そのため日本軍の爆撃隊や雷撃隊に

よって攻撃され、
12月10日午後2時29分から50分までの間に、レパルスは轟沈、

プリンスオブウェールズも撃沈された。フィリップス英東洋艦隊司令官

は艦を降りるのを拒否してプリンスオブウェールズと運命を共にした。

日本軍は、シャム湾シンゴラと、コタバルとパタニの三ヶ所に上陸。

シンゴラとパタニに上陸した部隊はマレー半島西海岸を自転車で

南下した。1942年1月28日に合流、マレー人は熱烈な親日感情で

日本軍に協力した。

1月31日には、マレー半島の南端ジョホールバールに突入。

シンガポールはマラッカ海峡へ向けて要塞を築いていたので、その

方面には大小の砲塔が配備されていて、日本軍に対抗数する手段が

なかった。

そこでマレー半島から突入することになったのだった。

日本軍は、2月8日から総攻撃を行い、2月11日には、英語とシナ語の
投降勧告文を納めた通信筒やビラを空から散布。
イギリス軍とオーストラリア軍と華僑の義勇軍は勧告に応じず、
ブキティマ砲台やアンモキオ渓谷では激しい突撃戦が行われた。

15日にイギリスが停戦を申し出てくる。ブキティマ高地の自動車工場
の中でパーシバル中将ら4名と、山下奉文[ともゆき]中将との会談が
行われた。2月11日には、日本軍部隊の一部がスマトラとビルマに
転用されることが決まっていたため、山下中将には時間が無かった。
日本軍の携行していた食料も砲弾も弾薬も多くはなかった。

パーシバル中将が、交渉の条件のひとつひとつに注文をつけ始め、
日本側の通訳も上手ではなく交渉がゴタゴタしかけていた。
山下中将は、回りくどい通訳に「君はイエスかノーかだけを聞けばいい
のだ」とちょっと強く言ったところ、
「イエスかノーか」と迫ったというふうに伝わってしまったが、

実際は、パーシバル中将があまりにも青ざめていたので、大丈夫か
と声をかけそうになったぐらいで、山下中将は礼儀正しい人だった
そうである。山下中将はパーシバル中将の願いを聞き入れ、日本軍の
シンガポール入城を禁じ、十万を超す連合軍の武装解除を速やかに
行った。

本当は、日本軍は弾薬も尽きかけており、その日の内に
なんとしてもイギリス軍を降伏させる必要があったので、降伏するのか
しないのかまず確認したかっただけだったようだ。

1819年2月にシンガポールがイギリス領になってから120年。
東洋支配の牙城であったシンガポール要塞が陥落した
1942年2月15日が、初めてアジア人が西洋列強の軍を破った記念
の日であり、アジアの国々が独立する第一歩となった日である。

塹壕から、ゴム林から、ジャングルから、日本兵がバンザイの歓声と
共に走り出て、投降してくるインド人兵士は、「イギリスはこれで
アジアから去る!次はインドだ!」と、飛び上がって喜んでいた。

クアラルンプールに住むあるマレーシア人は、「我々マレーシア人は、
長い間イギリス人には何もかも劣る、とても勝ち目はないと諦めていま
したが、あの時、我々と同じアジア人である日本人が、我々の目の前
でイギリス軍を叩きのめしてくれたのを見て大変自信がつきました。
独立の願いが実現するのではないかと。」と言っている。

1942年2月15日から1945年9月12日までの3年半、マレー半島と
シンガポールを日本軍が占領していたが、日本が負けると再び
イギリスの支配下に戻った。
しかし、民衆に白人優位の意識はすでになく、1959年、自治政府が
設立され、1963年、マレー半島とボルネオ島北西部、シンガポールが
マレーシア連邦としてイギリスから独立した。

マレー人の多いマレーシア連邦はマレー人優遇政策をとったため、
華僑が7割だったシンガポール島では、華人とマレー人が対立する
事件が後を絶たずデモや暴動が続発。
1965年8月9日、シンガポールはマレーシア連邦から追い出される
ように分離独立し、シンガポール共和国を建国した。

初代首相のリー・クアン・ユーは、ルックジャパン政策を掲げて、英才
教育と公共道徳・インフラ整備に力を入れ、国を発展させた。
不安の中で独立したシンガポールは、多人種主義・能力主義・実用
主義を打ち出して国を発展させ、最近では、日本の東京都知事が、
シンガポールの英才教育の現場を見学に行くまでになっている。

リー・クアン・ユーは、不道徳なことをしなかった山下奉文中将の兵団
に通訳として出入りしており、日本民族の美点と特徴を受け取ったと
語っている。

リー・クアン・ユーは、能力によって、年が若くてもどんどん高い教育を
うけることができる英才教育システムや、高学歴の女性に高学歴の
男性を政府が斡旋するお見合い制度、高学歴の夫婦には、子供が
3人以上生まれると多額の援助を行い、低学歴の家族には、子供を
2人にしておくなら特典を与えるなど、独自の考えで出生率をあげてきた。

マレーシアから水を引き、精製してマレーシアに送り出し、シンガ
ポールを車で出るときはシンガポールでガソリンを一定量買わせる
法律や、ガムやゴミを道に落としたら莫大な罰金を払わせ、ボウフラを
涌かせたら罰金を払わせる法律を作って定期的にチェックさせ、
車が増え過ぎないように許可制にしたり、徹底的に国を管理している。

マンションでは、華僑だけが固まらないように、右隣はマレー人、左は
インド人というように、徹底的にバラバラにして同民族が固まって
他民族と敵対しあわないようにしている。

二国語政策をとっているが、徐々に英語が主体になるようにしむけ、
教育は英語で行っている。
法人税を下げ、外資に優遇処置をとって外資を誘致し、シンガポール人
の留学生には、卒業間近になったらリクルート組織を差し向けて
Uターン就職をうながす。

政府が管理する個人名義の強制貯金口座に毎月給料から2割近い
金額を強制的に振り込ませて、医療費や、住宅購入、株式投資、
年金のみに使うことができるようにしている。

男性は2年から2年半の兵役があるので、女性はその間社会で活躍
している。
結婚してもシンガポール人は朝昼晩外食が基本なので、家事は楽だ。
政府斡旋のフィリピン人やインドネシア人のメイドを安く雇えるので、
子供一人につき一人のメイドを雇って仕事を続けることができる。

リー・クアン・ユーは1990年に引退したが、彼は今でも各方面に
影響力を与え続けている。

シンガポールは、東南アジアの中で唯一の先進国であり、国民1人
当たりの購買力は日本を抜いている。今はむしろ、日本のほうが
シンガポールを見習わねばならない。

能力のある者に英才教育を受けられる機会を与える一方、学習能力が
劣っていても10年間の義務教育を受けさせ、得意な分野で能力を発揮
できるチャンスを与えるようにしている。

日本を発展させるには、リー・クアン・ユーのように国益を考え策を練る
リーダーが必要だと思う。国が滅びたら国民の生活など誰も面倒を
みてくれない。
国が滅びず発展していけば、国民生活も豊かになる。国民の生活を
第一に考えるなら、個人的な欲や自分の政党のためにではなく、
国益を考えた政治をしていかなければならない。

戦前は、日本とタイだけが、西洋の植民地にされなかったアジアで
ただ二つの独立国だった。日本人は、弱ければいつでも侵呑しようと
する欧米列強に囲まれていたので、独立を守るために必死になって
頑張ってきたのだと思う。

シンガポールは、マレーシア連邦から追い出されるように独立したので、
小さな島で生き残るための不安や恐れがあったことだろう。
リー・クアン・ユーは独立を宣言した日、国民の前で泣き出したそうで
ある。ーーーそれでも、生き残るために頑張ってシンガポールは今日の
繁栄を築いた。

日本も、これからも生き残っていくために国際社会で高い地位を得てい
かねばならず、テロ対策などで責任ある仕事を望まれたなら受けるべき
である。また日本が今後も発展を続けていくためには平和でなければ
ならず、アジアで戦争が起きないように努力する必要がある。

日本が外国の標的にされないように抑止力を持つことや、周辺国が
侵呑しようという野心を起こさせないように、常に手を打っていくことも
必要である。
周りの国々に対して、上手にアメとムチを使い分けて、日本には何を
しても抵抗しない、何をしても大丈夫と思わせないようにするべき
である。

シンガポールのまわりには、マレーシア・インドネシアなど、襲ってくる
かもしれない危険な国はないが、日本はどうだろうか。
――――日本の首相には、

日本が独立を維持し、さらに発展するように、不安や恐れも糧にして
やるべきことをどんどん実行していってほしいと願う。
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参考資料:
「シンガポールの教育」
http://www.clair.or.jp/j/forum/forum/gyosei/075/INDEX.HTM#3
「アジアに生きる大東亜戦争」ASEANセンター編
「秘史太平洋戦争の指揮官たち」別冊歴史読本77号 新人物往来社
「シンガポール路地裏百科」トラベルジャーナル