他国が武力行使に踏み切る「隙」を作らないことだ。
古い記事ですが、
最後の言葉がよかった。
「戦争を防ぐのに必要なのは、自国が武力を行使しないことだけではない。
他国が武力行使に踏み切る「隙」を作らないことだ。」
「防衛相たる者は「いかなる理由があろうとも、わが国には指一本
触れさせない」という姿勢を示し続けるのが職務である。 」
http://www.nikkei.co.jp/neteye5/suzuoki/20070725n5a7p000_25.html
(引用開始)
久間章生前防衛相の原爆投下に関する「しょうがない」発言。「平和勢力」や「民主勢力」からの批判によって久間氏は辞任に追い込まれた。だが、本来なら、安全保障を重視する「保守勢力」こそが批判の先頭に立つべきではなかったか。この発言は「今後、日本に対し少々手荒な行動に出ても、理由さえつけば日本は文句を言わない」と考える国を生みかねないからだ。
「ついに、認めましたね」
原爆投下容認発言は中国や韓国でも日本で考えられる以上に大きく報じられた。もちろん「被爆者の気持ちを傷つけた」とか「日本の核廃絶努力を無にする」といった、日本で語られた理由とは全く異なる。
「日本の被爆者の気持ち」に中国や韓国のメディアが思いを致すことはない。そもそも「日本が核廃絶運動を繰り広げている」という認識は海外では薄い。
「ついに、認めましたね」。
久間発言に関し、示し合わせたかのように何人かの中国や韓国の知識人から同じ言葉をかけられた。彼らにしてみれば、広島と長崎への原爆投下は自国を戦勝に導いたり、植民地からの解放をもたらした「正義の核」だ。そんな彼らにとって「唯一の被爆国」という日本の物言いは「被害者になりすまし、侵略戦争を糊塗する不当で不愉快な主張」だった。
多くの中国人や韓国人は、久間前防衛相の発言を「被害者であるとの不当な主張をようやく取り下げ、正義の爆弾投下を遅ればせながら認めた発言」と理解した。だからこそ、中韓のメディアは大きく取り上げたのだ。久間発言をとらえる視覚が、日本のそれとは百八十度異なることに注意を払う必要がある。
なお、「平和勢力」の多くの人は、アジア人のこうした見方に対し以下のように語ることが多い。「日本の戦争責任に関しては我々も意見を同じくする。だから後は、彼らに核兵器の悲惨さを理解してもらえば、共に核廃絶に立ち上がれる」。だが、過去も期待ほどにはそうならなかったし、たぶんこれからも同様だろう。
「過去は過去」で終わらない
久間発言の危うさは、日本以外の世界では「過去は過去」で終わらないことを認識していないことにある。「しょうがない」発言の直前の「あれで戦争が終わったんだ」という言葉からして、久間氏は「戦争も原爆投下も、昔の話」という意識で語ったのだろう。
だが、中国人や韓国人には「過去を水に流す」発想はない。むしろ「現在は過去によってもたらされた」と考え、現在の問題を自らに有利に運ぶために「過去を目いっぱい利用する」のが基本的な行動原理だ。
「理由があれば自国への原爆投下も認める」と宣言した日本に対しては、それが「過去」を巡っての発言であっても、「将来の」日本への核、あるいは非核攻撃の心理的障壁を大きく減らすだろう。日本人が、ことに防衛相がそう公言した以上、他国からの軍事行動を今後も日本は「しょうがない」と受け入れ、反撃してこない可能性がある、との期待が成り立つからだ。
久間氏は「理由なしに原爆投下を認めたわけではない。原爆投下は戦争終結という正当な理由があったから『しょうがない』と語ったのだ」と弁解するかもしれない。
だが、理由はいくらでもつけられる。例えば、韓国にとって竹島とは「韓国領なのに日本が不当に領有を主張する問題」であり、中国にとって尖閣列島とは「自国領土なのに日本が不当に占拠している問題」だ。世界にはもっと小さな理由で戦争が始まることがいまだ多いのだ。
「拉致は歴史」
いくら何でも、「理由があれば、攻撃されてもしょうがない」と思うほど日本は「お人よし」だろうか――。
こう思う日本人が多いだろう。でも、外から見ると、日本はそう思われてもしかたないほどに相当な「お人よし」だ。
例えば、2003年当時の外相、川口順子氏。同年4月、「家族をばらばらにしたのはだれですか」との拉致被害者の問いかけに対し「いろんな複合的な力だろう。それが歴史ということだ」と答えた(「日本が拉致被害者を取り戻すには」2003年12月19日 参照)。
北朝鮮の犯行を「歴史」の一言で片付けたのは「北朝鮮の機嫌を損ねると拉致は解決しないと思った」(日本の外交官)のであろう。だが、「これを含めた日本の外務省の姿勢から、その弱腰を北朝鮮に見透かされてしまった」(拉致被害者関係者)。
北にとってこれほど歓迎すべき発言はなかった。人質を返さないで置けば、日本は北の言うことを聞き続けると想定できたからだ。自らに利するために他人の過去を厳しく糾弾するのが常道の国にとって、自らの間違った過去を指摘もしない国は実に御しやすい。
日本政府の顔たる外相自らが「何の疑問も持たずに北を利した」(同)。久間氏や川口氏だけではない。日本の政治家は日本への誤った判断を加速する数々の「実績」を積み重ねてきた。
「自国の権利を守ってくれるのは自分以外におらず、言うべきことは言っておかないと自国の権利は誰からも尊重されなくなる」という世界では当たり前のルールを知らない政治家で日本は溢れている。そして、いくつかの周辺国はそれに気がついて、すでに彼らを十二分に利用しているのだ。
変化する軍事バランス
「久間発言が日本の安全保障を毀損する発言だとしても、戦争誘発の可能性まで言い募るのは過剰反応ではないか」――。
日本人、ことに「平和勢力」や「民主勢力」からはこんな疑問が呈されるだろう。確かに、少し前までならそこまで神経を払う必要はなかったかもしれない。だが、ここ5年で、日本を取り巻く安全保障の環境は大きく変化した。
まず、軍事バランスの劇的な変化だ。中国や韓国は経済成長とともに軍事力、ことに海・空軍力を急速に強化している。これに加え、米国と日本の「海洋勢力連合」が弱体化しつつあり「領土紛争に絡んだ小規模なものなら、日本が攻撃を受けても米国は日本を助けないのではないか」との見方も広がっている。中東に足をとられた米国が「悪の枢軸」と名指ししてきた北朝鮮と最近、関係改善に乗り出さざるをえなくなったことも、その認識を加速している。
軍事「能力」に加え「意識」も大きく変化した。中韓両国の経済成長に伴う国家威信の向上は、それぞれの国民に大きな自信を与えた。ことに10年間以上も経済的低迷と政治的な混迷、外交的失速を続けた日本に対しては、軽く見る気分が強まっている。
中韓ともに、一昔前のように日本から金銭的な援助を貰う必要もなくなった。技術面でも「あと少し」頑張れば追い越せる、という「気分」も広がっている。日本との軍事的緊張への歯止めは大きく減じたのだ。
韓国の盧武鉉大統領は2005年3月、突如として「日本との外交戦もありうる」と、あえて「戦争」という言葉を使って国民を煽った。同大統領は、日本と戦えば韓国が経済的な困難に陥る、という見方に関して「さほど懸念することはない。我々は耐えうる力を持っている」と述べている。
中韓の高揚感
最近、中国人や韓国人と話していると「日清、日露で勝ち、さらには第一次世界大戦で戦勝国に回った後の日本人は、こんな心境だったのだろうな」と思うことがしばしばある。特に、日本のアジア専門家の間でこうした観察が増えており、中には「当時の日本人以上の高揚感ではないか」という人もいる。
植民地、あるいは半植民地に陥った屈辱。そこから脱して先進国に追いついた、あるいは追いつき、追い越せるとの自信。これらがあいまってもたらす「今、自分は我が国の歴史的な勃興期を生きている」との誇り。こんな彼らの心境を日本が十分に理解したとはとてもいいがたい。
この高揚感を背景に「いずれ、我が国は経済力でも軍事力でも米国を越える」と言い切る中国人が出てきた。それは最近、中国で急速に浮上する海洋国家論と表裏一体をなす。米国のように海を制さない限り成長は限界に達する、との発想で、当然、米国との軍事的対決をも念頭に置く。
韓国でも、冗談半分にしろ「どこかと戦争して勝てば、我々も日本人のような自信を持てるのだが」と語る人が出始めた。盧武鉉大統領の日本との外交戦争発言も、そうした「気分」が背景にある。
冷戦期と比べ、核兵器を使った全面戦争の可能性は小さくなった。だが、「島のひとつか二つ」を強襲して占有する領土紛争型、あるいは海洋調査を引き金にした小競り合い、つまり「手軽な戦争」の可能性が増している。冷戦体制の終結とともに「小競り合い」が全面戦争を引き起こす可能性は小さくなった、と考えられているからだ。
さらに、中韓ともに注目すべきは、強まる国際的威信とは裏腹に国内の矛盾が激化し、時には国内対立が激しくなる傾向が見られることだ。国内問題の打開を狙って、政権が「小競り合い」に心を動かされる可能性を見落とすべきではない。
もちろん、こうした大状況の変化が今すぐに軍事的衝突につながるわけではない。ただ、北東アジアで軍事行動への心理的な障壁が低くなっている現実から決して目をそらすべきではない。そんな折に軍事行動を誘発しかねない発言を防衛相が何の躊躇もなくするというのは、非常識そのものだ。
戦争を起こさないためには
戦争を防ぐのに必要なのは、自国が武力を行使しないことだけではない。他国が武力行使に踏み切る「隙」を作らないことだ。その意味で、これまたあまりに当然なことであって今さら書くことでもないのだが、防衛相たる者は「いかなる理由があろうとも、わが国には指一本触れさせない」という姿勢を示し続けるのが職務である。
久間氏はその基本的職務を放棄したし、その防衛相を辞任させただけで日本はケリをつけたつもりになっている。日本は世界に向け繰り返し誤ったメッセージを発しているのだ。