ビルマ(現ミャンマー)の独立と日本人 | 日本のお姉さん

ビルマ(現ミャンマー)の独立と日本人

1941年(昭和16年)12月8日、日本は、アメリカ、イギリスに宣戦布告
をした。大本営は、イギリス軍のアジアの要衝であったシンガポール

攻略を最大の目標に、マレー作戦を実行した。

当時の日本政府と軍部は、シナとの単独講和を渇望していた。日本は

シナに膨大な戦費を使っていたので、なんとしても蒋介石と和睦した

がっていた。

開戦当時の陸軍の総兵力は210万。そのうち、シナに68万の兵力を

投下しており、満州、朝鮮に74万、内地に53万を配置し、南方戦線

には15万しかいなかった。

予算面でも、陸軍の臨時軍事費は104億円だったが、シナには1割

8分を使い、南方には9分しか使っていなかった――――。

日本はシナの戦線を終わらせたがっていたが、イギリス・アメリカには、

日本とシナの和睦は許せないもので、全力をあげてシナ国民党の

蒋介石に武器援助・戦費援助をし続けた。

イギリスとアメリカは、日本が広東の援蒋ルートを封鎖すれば、海南島

方面にルートを作る。

日本が海南島ルートを閉鎖すれば、仏印(インドシナ)にルートを作る。

日本が仏印に進駐すると、こんどはビルマのラングーンを起点とする
大規模な援蒋ルートを作った。

日本はシナ事変を終息させたかったので、このビルマルートを遮断しよ

うとした。シナでは、南京に別の政権ができ、日満支一体となって東亜

新秩序を建設しようと協力していたが、紹介石は、尽きない軍事力と

援助を得て日本に戦いを挑み続けた。

大本営は、ビルマルートを閉鎖した後は、インドのインパールにインド

国民軍を入れ、そこを拠点としてインドとイギリスの分断を図るという考え

だったらしい。東条首相が、インド独立運動の志士チャンドラ・ボースと

インド侵攻を約束していた。明治時代からインドの独立運動は日本では

よく知られていた。ガンジーのインド独立運動も有名だった。

牟田口中将は、日本軍とインド国民軍を、食料・弾薬の補給無しで、

雨期の中を、2000メートル級の山々を越えさせてインドのインパールに

攻めに行かせるという無謀な戦略を切望、上部に働きかけて作戦は

決行されることとなった。多くの者が反対したが、なぜか、彼の押しの

強さによって、昭和19年3月、インパール作戦は実行された。

そのころには、ガダルカナルでは日本軍は撤退を余儀なくされており、

チャンドラ・ボーズは、日本軍の余力が無いのを知って焦っていた。

ボーズは「アラカン山脈を越えてインパールに入るのは愚かである。

一挙にインド上陸作戦をやれ!」と提言したが聞き入れられなかった。

――――日本の海軍力は尽きており、ボースの到着も遅かった。

牟田口中将は、東京裁判では日本軍の消耗に貢献したということで罪

には問われず、長生きして畳の上で死んだ。彼は一生、言い訳をして

過ごした。葬式には、息子に言い訳を書いた小冊子を配らせた。

インパール作戦では、シナで戦った日本兵や、インド国民軍が参加した。

彼らは、インドに達する前に、河を渡る際に食糧として渡された馬や牛や

山羊を、荷物ごと失った。イギリス空軍による空からの攻撃で、多くの

牛がチリジリに逃げて多くの物資を失った。牛は山地を歩くのに適さず、

日本兵が牛を連れて歩く姿は、直ぐに敵の標的となったーーー。

日本軍は空軍の援助を全く受けておらず、食料も弾薬も持って出たもの

しか無かった。雨期だったので泥の中を歩くしかなかった。軍刀は錆び、

服も身体も濡れて、体力を奪われた者は病気になって死んでいったーー。

食料は、一日僅かな岩塩と、半合の米しか与えらていなかった。

全員栄養失調で、頬はこけ落ちて、眼だけがまん丸になって光っていた。

誰彼の区別も付かなかった。歩きながらバッタリ倒れて死んだ者、食事

をしようと準備したのに食べる前に死んだ者もいたーーー。

日本軍は飢餓以外のも、マラリア・赤痢・コレラにも苦しめられた。

赤痢とマラリアに同時に罹れば、高熱で脳をやられ、躍り上がるように

して死んでいった。傷口には大きなハエがたかってウジがわいた。

ケガをした身体を、ウジで真っ白にしながら歩いている者もいたーーー。

服や靴はボロボロで、まともな軍服を着ている者もいなかったそうだ。

イギリス軍所属のインド人は猛攻撃を仕掛けてきた。ぎりぎりまで戦って、

もうだめだとなると両手をあげて降参したそうだ。

イギリス空軍が空から落とす食料が、運良く敵と味方の真ん中に落ちた

ら、命がけで盗りに行ったーーー。

牟田口中将は戦闘に参加せず、遠くの安全な軍司令部で5時まで過ご

し、5時になると、連れてきた料亭で食事をし、連れてきた愛人と遊んで

いた。イギリスは、前線で牟田口中将の放蕩具合を放送し、日本軍の

戦意を削ごうとした。

赤十字のマークを屋根に付けた病院はわざと狙われた。軍医、衛生兵

が赤十字の腕章をつけていたら一番に狙われた。最前線では、赤十字

のマークは使用できなかった。

イギリス軍は、弾薬、爆弾を十分に持っていた。イギリス軍が攻撃して

くるときは、たこつぼ壕に息をひそめてじっとしているしかできなかった。

反撃できるほどの弾がなかった。

イギリスの戦車は巨大で、鉄条網を巻いていて近寄れず、多くの日本

兵が砲撃を受けて倒れていった。日本兵はインドのコヒマまで到着し、

少ない弾丸や手榴弾で果敢に戦い、ほとんどの者が戦死した。

敵の攻撃は空から、M3中戦車から、野砲から、107ミリ迫撃砲から、

絶え間なく雨のように降り注いだ。日本軍は、少ない弾薬を上手に使う

しかなく、多くは手榴弾を持って敵の塹壕に近寄り、手榴弾を投げ込んだ

あとは攻撃されて蜂の巣のようになって死んでいった。

日本兵のひそむひとつの塹壕の弾丸が無くなると、他の壕から若い

工兵が補充の弾丸を運び、敵に狙われて命を落とした。血まみれになっ

て倒れても、運んできた弾丸を胸から放さなかったそうだーーー。

ケガをしても薬も無く、壕の中に寝かされるだけだったという。重症を負い

ながら自力で這って壕に戻った者も、破傷風で死んでいったーーー。

撃つに弾なく、食うに食無き状態に陥り、軍の命令なく後退した部隊も

ある。日本兵の死体は、ジャングルの中で倒れたままにされた。

生き残りは少なく、埋葬するヒマや体力のある人間もいなかった。

物資が欠乏していたので、仲間の死体からも使える衣服や靴などは

脱がされたーーー。

4月29日までにインパールを占領すると豪語していた牟田口中将は

焦りだした。作戦に批判的だった者は次々と牟田口中将によって

更迭された。中将ぐらいの階級では勝手に更迭することはできないはず

なのだが、それからは誰も牟田口中将に作戦の中止を提言する者は

出ず、いたずらに時間が過ぎていった。

敵が攻めてくるのに、野戦病院にはなぜか撤退命令がくだされず、

イギリス軍のインド兵が、逃げ遅れた病人に生きたままガソリンをかけて

焼き殺した。

昭和19年7月3日、南方総軍はインパール作戦の中止を命令した。

インパール南道は死体の山だった。重症患者や病気の者は、みんなの

足手まといになるのを嫌って手榴弾で自決した。

その道は、白骨街道とも、餓死街道とも、靖国街道とも呼ばれたーーー。

なるべく被害が少なく撤退できるように、日本から応援の部隊が送られ

たが、途中でほとんどの船が撃沈され、ビルマに到着できた者は僅か

だった。彼らは日本軍の撤退を助けながら、鉄橋を爆破した。その様子

、映画「戦場にかける橋」のようだったそうだ。イギリス軍は、道ばた

で倒れている日本兵は、生きていても死んでいても関係なくガソリンで

焼き殺したーーー。

昭和20年1月、イギリス軍のインド師団がイラワジ河を渡ってきた。

2月中旬になると、イギリス軍のM3戦車部隊も河を渡り、原住民が

日本軍に協力しなくなってきた。イギリス軍の工作員が、日本兵に食料

を渡すなと工作しだした。


原住民は、イギリス軍から、日本兵をひとり殺せばいくら、銃を奪えば

一丁につきいくら支払うといわれていたので、村人に銃を奪われて

殺される日本兵も出てきた。

火炎放射器を搭載したM4戦車が日本軍の病院を襲い、生きたまま

病人を焼いて死体を踏みつぶしていった。メイクテーラーの敗退で、

常に親日的だったビルマの人の心は日本軍から離れた。

3月27日には、アウン・サン率いるビルマ軍が叛乱を起こした。

イギリスの工作活動も盛んであった。日本軍は、戦いながら撤退をする

だけとなった。

泰緬[たいめん]鉄道は、タイとビルマをつなぐ400キロの鉄道で、昭和17
年に起工し、昭和18年の半ばに、イギリス軍捕虜とビルマ人を強制的に

集めて建設に当たらせた。疫病だらけのジャングルでの工事では、マラ

リヤや赤痢で5千名近い犠牲者を出したので、戦後、鉄道連隊からは

多くの戦犯が出た。

8月15日になって停戦となり、その鉄道を使って日本軍の生き残りは

タイに出た。

昭和20年10月には、戦犯が選び出され、コーカレーのイギリス軍の

味方になって戦った部落を攻撃した部隊の指導者は絞首刑にされた。

他の責任者も処刑された。

10月上旬に、連合軍の命令で武装を解除することになった。歩兵連隊

では、連隊の玉砕を意味する軍旗奉焼式を行い、涙を流して奉焼を

見守った。誰も命令しなくても、日本兵は自分の三八式歩兵銃について

いる菊のご紋章をヤスリで削り取った。敵に渡す武器に天皇陛下の

ご紋章が付いていることが耐えられなかったのだ。

イギリス軍がテントを張って、生き残った日本兵を、軍隊の形式はその

ままにして管理した。日本兵は、あちこちの石切場で石切をさせられたり、

飛行場や公園を作らされた。オランダ人将校、下士官の家では、奴隷の

ようにこきつかわれたそうだ。

昭和21年の4月下旬より、日本兵は順番に日本に帰る船に乗せられた。

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日本がシンガポールを陥落させた時、すぐに降伏したインド兵をインドに

進めれば良かったのだが、日本はインド人に独立をまかせず、チャンドラ・

ボースがドイツから来るのを待った。

陸軍の力はビルマまでだったかもしれないが、海軍は余力があったので、

一気にカルカッタやボンベイに上陸すれば、イギリスは海軍も空軍も

全滅していたので、インドはすばやく独立していたかもしれない。

ビルマは西暦紀元頃からある国で、後漢の時代にはタンと呼ばれ、唐の

時代にはビュウ[馬票]と呼ばれていた。宋では「糸面」と呼ばれていた。

ビルマ最後の王朝の王がインパールを攻略し、ネグレイス島のイギリス

人居住区を破壊しシャムのアユタヤまで攻略した。

その後、第一次イギリス・ビルマ戦争(1824~1826年)、第二次イギリ
ス・ビルマ戦争(1852年)でどんどん領土を奪われ、第三次戦争(1885
年)で首都のマンダレーまで奪われて、ビルマはイギリスの膝下に

下った。国王と王女はインドに送られ、そこで没した。

1886年、イギリスのインド総督ダフリンが、ビルマ王国を英領とすること
を英国王の名で宣言した――――。

日露戦争に勝った日本に憧れてビルマのウー・オッタマという僧侶が

1907年(明治40年)に日本を訪れ、「日本」という本を書いてビルマで

出版した。

「日本の勝利は、日本が明治天皇を中心に3千万人が団結したことに

よる!」「ビルマも、青年達が団結すれば必ず独立できる!」と伝え

「ビルマ人団体総評議会」を組織し、納税ボイコットでイギリスに終身刑

を宣告され、1939年に獄死した。

ウー・ウィサラも全国的な反英活動を行い、3千人が投獄された。

ウー・ウィサラもハンストを行って抗議しながら獄死した。



イギリスはビルマの国境をすべて封鎖し、ラングーン経由でしか外国へ

行けないようにし、反英分子を厳しく監視し、内陸にいけばいくらでも

採掘できる岩塩を独占し、イギリスから買わせた。また、インド人を使って

ビルマ支配をさせた。ビルマは、インド人とその資本に牛耳られていた。

日本の鈴木大佐は、読売新聞の記者としてビルマに入り、イギリス人

の過酷な弾圧を眼にした。

日本と、アメリカ・イギリスが戦争に突入間近になると、鈴木大佐は開戦

時にビルマが即刻独立できるように工作機関を設立するように軍の首脳

に提言し、南機関という特務機関を設立。

イギリスが逮捕した過激分子の中にアウン・サンがいた。鈴木は、ビル

マを脱走したアウン・サンを東京に連れて行った。1941年(昭和16年)、

アウン・サンは密かにラングーンに戻り、独立の意気に燃える青年29人

を選び出しラングーンを出て台湾から海南島に入り、川島大佐の元で

猛烈な軍事特訓を受ける。ビルマは大戦中に独立するが、ビルマ完全

独立後、これらの青年たちから首相・大統領・大臣・軍総司令官が出た。

南機関は、30名の青年からなる「ビルマ独立義勇軍」をラングーンに

入るように手引きした。彼らは「ド・パーマ!(ビルマ独立万歳!)」を合い

言葉に進撃した。「ビルマ独立義勇軍」がバンコックで出陣式を行った

のは、昭和16年12月31日で、最初の百人はどんどん増えて千人に

なっていた。

ラングーン陥落は3月8日。あっという間に北部ビルマも制圧し、5万の

イギリス軍と10万の重慶軍はビルマ領外に敗走した。

大本営はラングーンに彼らが入った瞬間、ビルマを独立させるという約束

だったが、ビルマの独立を押さえて軍政を布くことにし、独立を否定した。

ビルマ人に独立を与えたら、軍需物資の調達がうまくいかないと思いこん

だのだ。

アウン・サンは激怒した。鈴木大佐も失望し、以後、何度も大本営に

「ビルマにすみやかな独立を」と進言し続けた。軍は鈴木大佐を内地に

追放し「ビルマ独立義勇軍」30人を訓練した川島大佐もモロタイ島に

転出させられた。

敗戦が色濃くなった1943年(昭和18年)、東条首相はようやくビルマを

独立させるが、アウン・サンに首相をさせなかった。民衆が求めたのは

アウン・サンだったが、大本営は、イギリス軍に捕まって奥地の刑務所で

服役中のところを助けだしたバー・モウに首相をさせた。

完全独立を願うアウン・サンは、イギリスと完全独立の約束を取り付け、

1945年(昭和20年)、ビルマ国民軍1万5千を率いて叛乱を起こす。

日本軍が敗戦すると分かって、ビルマの独立のために日本軍に戦いを

挑んだのだ。だが終戦後、イギリスはアウン・サンとの約束を破って完全

独立を許さなかった。

日本はビルマに独立を与えるのが遅過ぎた。それでも大戦中の1943

年(昭和18年)8月1日の独立式典には、ビルマ人は大喜びしたそうだ。

結局ビルマは、1948年1月4日、イギリスによって独立を与えられたが、

ビルマ人は1943年ほどには酔えなかったそうだ。

元南機関長鈴木敬司将軍が、戦後ビルマに連行され、イギリス軍に

軍事裁判にかけられそうになったとき、アウン・サンは、「ビルマ独立の

恩人を裁判にかけるとは何事か!」と猛反対し、鈴木将軍は釈放された。

アウン・サンはビルマの独立のために日本軍を攻めたが、バー・モウは

日本に亡命した。ビルマは再びイギリスの植民地となり、アウン・サン

率いる愛国ビルマ軍は、英国指揮下のビルマ軍に合併されたが、

アウン・サンは英領ビルマとイギリスに対し自治を要求し、完全独立を

目指して活動を続けた。

1947年1月27日、英国首相クレメント・アトリーと、1年以内の完全独
立を約束する「アウンサン・アトリー協定」に調印。完全独立に向けての

イギリスとの厳しい交渉や、国内対立の解消と国家統一への苦しい道

を模索し続けていた。

1947年7月19日、政敵であり前首相のウー・ソーの一味の手で、6人

の閣僚とともに暗殺され、翌1948年1月4日のビルマの独立を見る

ことなくわずか32歳で没した。

ビルマは、1962年の軍事クーデター以来、ネ・ウィン軍事政権が独裁

政治を敷いた。1990年5月27日に総選挙を行ったが、アウン・サンの

娘であるアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。

しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。

1989年、アウンサンスーチーは自宅に監禁され、国名がビルマから

ミャンマーに変更された。

2002年12月、ネ・ウィン将軍がヤンゴンで死亡。今日の軍事政権は

1962年から88年まで独裁政治をやり悪名の高かったネ・ウィンの

否定者として登場した。

アウンサンスーチーは日本政府に、ビルマの軍事独裁政権に援助金を

渡さないように要求した。軍事政権は、アウンサンスーチーは政治の

アマチュアでありビルマが民主主義に移行すると混乱が生じるとの考え

を持っている。

日本はこれまで、開発途上国における民主化や人権状況に好ましくな

い動きがあった場合、援助の停止や削減も含めた見直しを行っている。

ミャンマーに対する新規の経済協力を原則見合わせているが、

ミャンマーの貧困農民がケシ栽培から脱却するための農村開発で農民

の収入向上を図り、道路建設のための機材供与や村落の電化、小学校

の改修の支援を無償資金協力により行っている。
マラリアや結核、ポリオなどの感染の撲滅にも協力している。

2007年3月27日、ミャンマー政府は、新首都ネーピードーで国軍

記念日式典を開いた。――――ミャンマーは近年急速にチャイナと

接近して、チャイナの水力開発の援助などをうけている。

4月には北朝鮮とも国交を回復。昨年から核技術研究所を設け、

ロシアに留学生を送っている。

アウンサンスーチーは、2007年8月現在も自宅に軟禁されており、

国連安全保障理事会は同国の人権改善を求める採択を実施したが、

チャイナとロシアは、国連が扱うべき『国際の平和と安全にたいする

脅威』に該当せずとして拒否権を行使、否決された。

かつて日本はビルマ独立の志士を助け、ビルマの独立に深く関わった。

ビルマはミャンマーと国名を変え、人権無視の軍事独裁国家にとして

生まれ代わり、チャイナやロシアや北朝鮮との関係を強めている。

ミャンマーはほとんど鎖国状態だったので、経済の発展が遅れ、

その分手つかずの自然が残っている国でもある。グローバル化から

遅れているが、素朴な民族性もよく残り、観光には魅力的な国である。

日本は、日本の経験を生かし、ミャンマーがチャイナのように自然を

壊さないように指導をすることもできる。軍事政権の独断と横暴に

国民生活が脅かされていることにも無関心にならず、ミャンマーの民主

化を促すこともできるのではないか。

ミャンマー人は、戦後あちこちに取り残された日本兵の遺体を埋葬して

くれたそうだ。今でも、イギリスに味方して日本軍と戦った村以外は、

日本に対する印象はいいらしい――――。