日印関係、わが国を破壊するマスコミスパイ活動・何様だ、渡辺恒雄殿!・中日(東京)にみる情報工作
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▼日印関係、わが国を破壊するマスコミスパイ活動~中日(東京)にみる
情報工作
▼何様だ、渡辺恒雄殿!日本のメディアを腐らす迷惑~渡辺恒雄殿の
「ご乱心」
▼日印関係、わが国を破壊するマスコミスパイ活動
~中日(東京)にみる情報工作(きち@石根) ↓
■中日(東京)にみる情報工作
首相がインド国会で演説へ・安全保障、日米印豪で連携 http://
(安倍晋三首相は22日、インドの国会議事堂で演説し、日印に米国やオーストラリアを加えた「拡大アジア」の枠組み強化に取り組むと力説する。「自由と民主主義などの基本的価値観や戦略的利益を共有する」と説明。インドに「安全保障分野で一緒に何をなすべきか寄り合って考えるべきだ」と連携を呼び掛ける。 「二つの海の交わり」と題した演説で首相は「太平洋とインド洋は自由の海、繁栄の海としてダイナミックな結合をもたらしている」と強調。)
さて、安倍首相はこの後ラダ・ビノード・パール博士の御子息と面会されるわけですが、例の東京新聞が恐ろしい論説を書いております。↓
パール判事長男の思い
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(東京)
(安倍首相が今週、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯の無罪を主張した故ラダビノード・パール判事の長男プロサント・クマール・パールさんとインドで面会する。もう八十歳になっている。十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている。当時、既に日本との交流は途絶えかかっていた。「日本からの手紙もいつしか来なくなった」とプロサントさんは寂しい思いをしていた。だから今回の安倍首相の訪問は唐突な印象だ。面会は、日本の戦争責任を否定する動きと受け止められかねない。パール判事は東京裁判そのものを「戦勝国の敗戦国に対する復讐(ふくしゅう)。原爆投下こそ犯罪だ」と批判した。だがそれは日本の軍国主義を弁護したわけではない。プロサントさんは「父は裁判で国際法の専門家として判断しただけだ。日本擁護を考えていたわけではない」と何度も強調した。パール判事がインド・コルカタの裁判所判事だったころに一家が住んでいた家を訪ねたことがある。そこの大家は「判事がある被告人に判決を出す直前、このままでは重い判決になることを悩んだことがある。妻から『手をさしのべられるのはあなただけよ』と背中を押され、判決が軽くなる法解釈を徹夜で考えていた」と教えてくれた。七年前にプロサントさんと再会したとき、東京裁判を扱ったある日本映画に、「事実と違う」と不満だった。判事の人柄や思想を正確に伝えることが長男としての責務と考えているからだ。今回「お会いするのはうれしい。パール判事の息子として、いろいろお話ししたい」と話す。安倍首相はその思いをじっくりと聞いてほしい。)
さて、中日(東京)新聞と言えば平成7年1月7日、カルカッタで弁護士をされているこのプロサント・クマール・パール氏を訪ねた時のインタビュー記事を第一面に掲載しております。その時の中日(東京)の意図は純粋にパール博士の足跡を辿ったものだったのかもしれません。しかし、近年の関連報道をみていますと、純粋とも思えない。「父は裁判で国際法の専門家として判断しただけだ。日本擁護を考えていたわけではない」それは事実でしょう。パール博士は何も親日家だから日本無罪判決を認められたのではない。法と正義に照らし合わせて判断された。しかし、東京新聞は、枕にこんな一言を入れる。だがそれは日本の軍国主義を弁護したわけではない?そのテーマはどこからでてくるのでしょう^^で恐ろしい言葉は十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている。・・・・。
さて、パール博士については最近こちらの本が話題ですが
↓中島岳志『パール判事』 http://
中島岳志『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』白水社 感想記 「本書についてはすでに、中島の成果を生かす形で朝日新聞が06年7月12日付で従来のパール像を批判する記事を描いている(中島はこの記事に先行して「中村屋のボースとパール判事——日本人はいつまでインドを利用し続けるのか?」を雑誌「エコノミスト」に発表した)。事実誤認が多いと言うか、・・・従来のパール像ってなんですかね。東京裁判史観否定派が曲解しているということ?それは一種の被害妄想ではないだろうか。
「 パールの息子であるプロサント・パール。東条英機をはじめとする日本の戦争指導者を美化する映画『プライド』が彼の「心を傷つけ、憤らせている」とインドの新聞「インディアン・エクスプレス」は報じた。「父が渾身の力を振りしぼってまとめ上げた判決書を、自分の政治的立場を補完する材料として利用しようとする者への怒りは、きわめて厳しかった」(中島p.295)御子息に映画の内容を曲解して伝えたのは中日新聞か?まぁIEの記事を見たいものです。「父が・・・」はプライドに対してなのですか?博士が平和主義者であることが、判決とどう関係するのか。何度も言うように「法と正義に照らし合わせて」判決文を書かれたのです。無罪として。
パール判決文第七部「勧告」
「~~法的根拠もないのに日本を侵略国、犯罪国と決めつけて、多数の個人を処刑することは、20世紀文明の恥辱である。後世の史家は必ずこれを再審判するであろう。~~「時が熱狂と偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剝ぎとったあかつきには、その時こそ、正義の女神は、その秤の平衡を保ちながら、過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう。」
なぜ、中島「パール判事」が出版され、朝日がパール像批判の記事を書いたか?なぜ、その時期に。また、今夏はNHKがNHKスペシャル「パール判事は何を問いかけたのか~東京裁判 知られざる攻防」8月14日(火)総合 午後10:00~10:50 と放送。答えは簡単です。田中正明先生(パール博士の日本無罪論:著者)が昨年1月に亡くなられたからです。なぜか?田中先生はパール判決公開をパール博士ご自身から託されただけでなく博士の日本滞在時の世話をされ、パール博士から「マサアキチャン」と呼ばれ、日本での息子と呼ばれるほど親交があったのです。
パール判事の日本無罪論(Wiki) なお田中は、パール博士が南京大虐殺をあたかも全否定したかのように書いているが、実際には松井石根に無罪を判決したに過ぎず、南京事件自体は事実と認定している。↑
事実認定は裁判における検察資料から。南京の虚構---
博士は判決後、田中先生との親交を深めますがそのなかで松井石根大将の秘書であった田中先生からも所謂南京大虐殺というプロパガンダの実態を知らされます。だから数度に及ぶ来日において、あの裁判が列強の茶番であると言われてきたのです。さて、今田中先生が御存命でしたらどうなったでしょう。博士との書簡、交流の記録、博士のお言葉・・・出てくると困る人が多い。すべてはパール判決の本当の意義を彼方へ追いやろうとするある思想の人々の恐ろしい企て。
田中正明先生が亡くなられてから頻出する「パール判事」関連報道と出版。わかりやすい人たちです。さて御子息はどのように考えていたか。↓
父の魂は今も日本にhttp://
プロサント・パール氏Mr.Prosant.K.Pal:法律家,極東国際軍事裁判判事パール博士の長男1awyer.Son ofJudge Radhabinod Pal of the Tribunal far the East,lnternational Militaly
極東国際軍事裁判、つまり東京裁判で判事を務めた私の父パール博士は、つねづね東京裁判について次のように語っていました。
「あれは勝者の一つのショーであったのだ。この東京裁判の一番の問題は、日本だけが裁判にかけられ、連合国はかけられなかったということだ。もし、日本に罪があるとするならばそれは日本が戦争に負けたことだろう。負けたから日本の行為は悪として非難されたのだ」
東京裁判では、敗者を裁く法律と、勝者である連合国の行為を正当化する法律という二種類の法律が適用されましたが、法律家としてパール博士は、これに強く反対しました。法の尊厳ということからも、法の正義、平等は絶対に守られなければならない、決して勝者が用意した法律によって敗者を裁くことはあってはならないと考えたからです。しかし、東京裁判の判決を批判することは当時許されませんでしたので、個別に意見書を提出したのです。 誰がパール博士を東京裁判の判事に任命したのか。当時、インドはイギリスの支配下にありましたので、指名したのはイギリスです。それでは何故、イギリスはパール博士を判事に指名したのか。それは、パール博士が表面的には穏健で常識的な人であったからです。当時、国際法の学識があるインド人は少なく、その限られた人のなかでパール博士は比較的無難な人だと思っていたのです。連合国側はパール博士の内面の力、燃えるような情熱の炎を見抜けなかった。内面からあれほど激しい東京裁判への批判がでてくるとは思っていなかったのです。
戦前、日本を除いてアジアは列強の完全な支配下に置かれていました。アジアの指導的な立場を演ずる力があったのは日本だけでした○その力すら西洋諸国は日本から取り上げようとした。だから、日本は立ち向かった。
インドをはじめとするアジア諸国は日本が立ち上がってくれたことに対して、内心、拍手喝采を贈りたいような気持ちでした。そうした気持ちをパール博士もまた抱いていました。日露戦争で日本が勝利した時、大学生だったパール博士はカルカッタで日本の勝利を祝い、白人の前でわざと旗行列を行なったと聞いています。
パール博士が最後に来日したのは、1966年でした。私も随行しましたが、彼はいつも「Ilove Japan」と言っておりました。「もし、日本が私に住むところを提供してくれるならば、私は日本に永住したい」とさえ言っていました。ですから、空港で見送りを受けた時、日本の方たちが「さようなら」と言ったら、パール博士は「"さようなら〝という言葉は聞きたくない。私はこの日本を愛している。この日本に私は骨を埋めたいんだ」と言いました。それが、彼の最期の望みでした。ですから私は、父の魂はいまなお日本にあると信じています。今日、靖国神社にお参りしましたが、私はお参りして、父の精神的なふるさとに来たと感じました。日本の皆さんにお願いしたいことは、現在のアジアの状況を見つめ直してほしいということです。アジアの人々はすべて、日本に対して「リーダーシップを取ってほしい」と要求すべきです。その要求に応え、日本は全アジアのためにリーダーシップをとるべきなのです。[1995年4月26日、インタビューにて]
もし万一、パール博士の御子息が何かの意識変化を持たれていたとしたら東京新聞、鈴木記者のこの言葉を思い返してみましょう。十二年前、取材で会ったのを機につきあいが続いている。「パール判決をもとに、核保有を日本の右翼が考えている」とか無茶苦茶なことを言っているんではないでしょうね^^私もプロセント・パールさんにご挨拶したことがあります。
今度は「パール判決」が勢力のターゲットになっているようです。↓
パール判 事遺族と面会 なぜhttp://
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無茶苦茶な論理です。「パール判決の都合の良いところ」これよく反論で出てきますが・・・どっちが?・・・
パール博士、最後の来日時の言葉。
「日本人よ、卑屈になるな。自国を愛し、誇りを持て!」中日一派の動きには要注意です。
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▼何様だ、渡辺恒雄殿!日本のメディアを腐らす迷惑~渡辺恒雄殿の「ご乱心」(博士の独り言)
日本人に戦争の真相と戦犯犯罪をはっきりと知らせるようにしなければならない - 渡辺恒雄氏に対する特別取材 2005年、日本の戦争責任の反省のため、総裁兼編集長の渡辺恒雄氏の主導のもとで、日本の読売新聞社は戦争責任検証委員会を創設し、「日本が中国の東北地域を侵略した『九・一八事変』(日本で一般に「満州事変」と言われている)は、なぜ中日戦争へと発展したのか」などの5つのテーマをめぐって、1年余りをかけて調査・検証を行い、日本で発行部数が最大といわれる『読売新聞』が調査結果を1年間連載するとともに、それを『戦争責任を検証する』という本にまとめ、日本語版と英語版を出版した。先日、この本の中国語版が新華出版社から出版、発行され、広範な中国人読者の手元に届けられた時に、当ネットの記者は渡辺恒雄氏に対し独占特別取材を行った。 「北京週報日本語版」 2007年8月10日付記事より参照のため抜粋引用/写真は「渡辺恒雄氏」読売新聞へようこそのページより引用
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中国に篭絡された「読売新聞」
NPO事務所の設定やそれにともなう移転等、諸般の事情により見落としていていたニュースがかなりあることに気づいた。先稿で読売新聞社が出版した本について触れた、「こういう記事もある」と読者から教えていただいた情報が表題記事である。感謝する。 記事に記される渡辺恒雄氏(読売新聞)のインタビューは、日本の大手新聞の総指導的な立場にある人物の「言資」として、そのまま「中国」に盗られたものと認識してよい。後々に同紙の指導者が代わり、たとえ、紙面を刷新して「親中」メディアから抜け出そうと努めても、かなり苦労するであろう。 「中国」は容赦なく、且つ執拗なまでに「前の指導者はこう述べている」、「その方針によって『戦争責任を検証する』を出版したのではないか」、「中国へ捧げた信義を裏切るつもりか」等々、と延々と責めて来るであろう。たとえ、軽く語ったつもりの言葉でも、相手は「中国」である。「中国」に都合よい「言葉」はカードに変わる。「言資」と筆者が認識している事由はここにある。
読売新聞の今後はどうなるのか。考えられる1つは、かつての朝日新聞が広岡氏の時代に「中国」に篭絡され、中国共産党の機関紙「人民網(人民日報)」の提携紙となった。それと同様の「提携」、あるいは「姉妹紙」の関係が読売新聞に出来上がることも有り得るだろう。渡辺恒雄氏が今後も指導的立場に在れば、その可能性は高い。いわゆる、「新聞」が偏向報道から明らかな反日新聞、抗日ビラに変わるプロセスがここにある。
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独断と偏見と傲慢と
自らを省みない指導者の「愚」のツケは、大勢の迷惑になる。表題に紹介する通り、新華ネット記者に語った、とされる渡辺恒雄氏の言資が「北京週報日本語版」(8月10日付)で5ページにわたって掲載されている。その中で、先ず、渡辺氏自らのスタンスについて、かつての訪中時(1982年3月)に、鄧小平氏の言葉を聞いて『私は親中派となった』と吐露している。 また、もし、中国がなければ、日本の経済が発展を遂げることは不可能だと語った、とする経団連(日本経済団体連合会会長)の言葉を『日本経済界の人たちはすべてこう見ている』と語り、中国との『信頼関係構築の肝心な点は政治にあると思っている。安倍首相の唯一の功績は就任してからまず中国を訪問し、5年も中断していた両国トップの相互訪問を回復させたことである』と述べている。 安全保障を基軸とした日米関係については、『私は今後日本と中国の関係を強化し、経済の面でも安全保障の面でもすべてそうすべきだと思っている。そうすれば、日本がより多くアメリカに依存する必要はなくなり、中国との関係の発展を通じてみずからを発展させることができる』と語っている。
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「中国」が外交カードに掲げる“日本の首相による靖国参拝問題”については、日本の首相は不参拝を国民に約束すべきで、『これは最も重要な原則である』と位置づけている。ゆえに、現首相には参拝しないように進言し、その後の首相に対しても『私もその人が靖国神社を参拝しないと約束するよう求めなければならない』と述べている。 そして、渡辺氏は『さもなければ、私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す。私は新しい首相ができるだけ早く中国を訪問するよう促し、そのほかに皇室メンバーの訪中を促し、皇太子が日中友好関係のためになることはよいことであり、それから胡錦涛主席の訪日を招請する』と語っている。
これらを新華社ネットの記者に対し、渡辺氏が語った事柄は、内容的には、「中国」に思考停止した屈中議員や一部の経済人による、不用意な「中国」への賛辞と変わらない。
だが、四半世紀前の「中国」首脳の「腹芸」を見抜けずに『親中派となった』渡辺氏個人の思想の自由はともかく、としても、時の首相が云うことを聞かなければ、『私は発行部数1000数万部の『読売新聞』の力でそれを倒す』と発言し、“日中友好”のために皇室に訪中を促す、胡錦涛氏(国家主席)の訪日を招請する、との発言してはばからない傲慢さは一体何か。 それ自体が「公正中立」を基本とする公器の「指導者」としての資格を自ら放棄するものであり、「中国」の恐怖政治を我が国のメディアに持ち込まんとする横暴である。ネットにも介入して来るであろう。個人の独見と偏向で国民を見下ろして、何様か、と問いたい。良識は不買をもって対処すべきだ。
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【筆者記】
「渡辺恒雄」のWikipediaには記されていないが、渡辺恒雄氏と創価学会の池田大作とは、かなり以前から入魂(じっこん)の仲にあるようだ。ジャーナリストの野田峯雄氏が、かつての著書『世直し」の真実』でその事実を指摘したが、言論封殺のためか、それほど巷では話題にはならなかった。 読売新聞が折々に掲載する創価学会の提灯(ちょうちん)記事や創価学会の書籍広告は、そのまま渡辺恒雄氏と池田大作の利害関係の深さを物語っている。同時に、渡辺氏が「親中派」となった背景が、その「関係」からも読み取れるのである。このように、一部の日本に不要な「指導者」ほど、いつまでも君臨するものだ。だが、「中国」に生かされている「キョンシー」のような存在と指摘してよい。介錯ならお手伝いする。
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ようちゃんの意見。↓
★「何様だ」って、天皇制への嫌悪から1946年に日本共産党に入った元アカですが?ナニか?もっとも翌年には党を批判して除名処分になったらしいですが。