毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争 | 日本のお姉さん

毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争

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JOG Mac No.510 石橋湛山 ~ 日本の「大欲」
■1.「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」■

 昭和6(1931)年9月18日に奉天北郊の柳条湖付近で満鉄
の線路が爆破され
、日中両軍が戦闘状態に入ると、毎日新聞
(当時の紙名は「東京日々新聞」)と朝日新聞を中心に一大報
道合戦が始まった
。当時、毎日新聞政治部記者であった前芝確三
はこう語っている。[1,p129]

(支那)事変の起こったあと、社内で口の悪いのが自嘲的
に「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」などと言って
いましたよ。

 毎日新聞の20日朝刊では「満洲に交戦状態、日本は正当防
衛」と題した社説で、いままでの中国側の排日侮日活動を列挙
して、日本守備隊の
「機を誤らざりし迅速なる措置に対し、満
腔の謝意を表する」と持ち上げ、「支那は当然わが国の報復に
価する」「わが出先き軍隊の応酬をもってむしろ支那のために
も大いなる教訓であると信ずる」と断じた。

 朝日も負けていない。「権益擁護は厳粛」と題して、「日本
の厳粛なる満蒙権益が現実に侵害され、踏みにじられるとき、
いかに日本が死命を賭しても、強くこれが防衛に当たるかとい
う厳粛無比の事実・・・不幸にしてそのときがついにきた」と
格調高く宣言した。

 二大紙が競って出した写真号外やニュース映画に、国民は熱
狂した。

■2.「国論ハ一致シテ之ヲ支持シアリ」■

 こうした新聞の力強い「後援」に、「主催」の関東軍は自信
を得た。実は、それまでは関東軍は国内世論がどう動くか、不
安を抱いていたのである。

 事変勃発後、昭和天皇は不拡大を望まれ、また若槻首相も緊
急閣議を開いて不拡大方針を決定した。
政府からの不拡大方針
の電報を受けた関東軍司令官・本庄繁大将は、これまでの決心
をひるがえして、動かなくなった。このままでは「内外嘲笑ノ
的トナリ、・・・軍部攻撃ノ声ヲ増大セシメンノミ」と、陸軍
は世論の攻撃を受けることを恐れた。

 しかし、それは杞憂だった。二大紙の「後援」で、世論は熱
狂的に軍部を支持した。
参謀部次長から関東軍参謀長への電報
には、慎重な行動を要請しつつも、「中外ノ輿論(世論)亦概
(おおむ)ネ之ヲ是認シ、殊ニ国論ハ一致シテ之ヲ支持シアリ」
と、自信をにじませた。

■3.軍部も当惑した新聞各紙の「売らんかな」主義■

 二大新聞の過熱ぶりには、当の陸軍すら当惑させるほどだっ
た。飛行隊が錦州付近を偵察していた時、地上からさかんな射
撃を受けたので、小爆弾を投下した。これを各紙は一斉に「わ
が軍錦州を爆撃す」と報じた。

 小磯国昭・軍務局長は「当方から好んで爆弾を落としたので
はない
。爆弾を落としたのは事実だが、これは応戦である。そ
こで新聞で書くにしても、標題は『錦州の支那軍わが飛行機を
射撃す』と書くべきだよ」と述べた。確かに「わが軍錦州を爆
撃す」では、いかにも日本の侵略ぶりを国際的に印象づけるだ
けである。
小磯局長は、こんな感想まで漏らしている。

 とかく新聞記者が記事の扱い方が売らんかな主義に堕し、
読者に刺激を与え興味をひくことを主とし、それが味方の
軍または国家のためいかに影響しようと、無関心であると
いうような傾向をもっている。

 もし新聞各紙が昭和天皇と内閣の不拡大方針に沿って軍部を
批判していれば、日中の戦闘も小火程度で消し止められていた
であろう。そうなれば、大東亜戦争までの流れも大きく変わっ
ていたはずだ。しかし「売らんかな主義」の新聞は、逆に火に
油を注いだのである。


 今日の朝日や毎日は、事ある毎に戦前の軍国主義を反省すべ
しと、お説教を垂れるが、国民全体に反省を求める前に、まず
当時の自社の報道姿勢について、きちんと自己反省をしている
のだろうか?

■4.「国家の危険このうえもない」■

 しかし、こうした熱狂にひとり異を唱える雑誌があった。石
橋湛山(たんざん)が主幹を務める『東洋経済新報』である。

 9月26日号の社説「内閣の欲せざる事変の拡大 政府の責
任すこぶる大」で、湛山はこう述べた。

 内閣はぜひとも事件を拡大せぬように、兵を動かさぬよ
うにと、しきりに要求せるにかかわらず、その要求はほと
んど受け入れられた形跡もない。・・・演習ならば別のこ
と、いやしくも海外において、内閣の好まず、意図せざる
兵が動かされるということになったらば国家の危険このう
えもない。・・・

 しかし我が国の政治をかくのごとく分裂せしめ、あたか
も日本には、同時に二個の政府が存在するがごとき観を呈
せしめた罪は、いろいろの弁解もあろうが、究極するとこ
ろ、内閣が負わねばならぬ。[1,p117]

 軍が政府の言う事を聞かずに兵を動かしている有様を「二個
の政府が存在するがごとき」と断じ、「国家の危険このうえも
ない」との危機感を表明したのである。「売らんかな主義に堕し」
た新聞とは、まったく別次元の言論活動を、湛山は展開してい
た。

■5.『東洋経済新報』と石橋湛山■

『東洋経済新報』は、イギリスの『エコノミスト』などを模範
に明治28(1895)年に月3回の旬刊誌として創刊された。『エ
コノミスト』と同様、経済分野に留まらず、政治・外交・社会
・教育・文芸など幅広い領域を扱い、英国流の自由主義・合理
主義・経験主義をもって論じた。

 湛山は27歳に同社に入った。早稲田大学でアメリカ流の個
人主義・自由主義を学んだ湛山にとっては、水を得た魚のよう
な心持ちであったろう。明治天皇の崩御に際しては、明治期の
最大特色は、多くの者が指摘するような「帝国主義的発展」で
はなく「政治・法律・社会の万般の制度及び理想に、デモクラ
チックの改革を行ったことに在る」と論じた。

 大正13(1924)年、40歳にして同社の第5代主幹となった。
以後、米国移民問題、第一次大戦参戦、対中国21カ条要求、
シベリア出兵、パリ講和会議、ワシントン軍縮会議、ロンドン
軍縮会議など、国際社会の荒波の中で日本国の行くべき方向を
論じ続けた。

 昭和6(1931)年、社員総数66名、日本橋に新社屋も完成し、
雑誌の売れ行きも急増しつつある中で、この満洲事変が起こり、
昭和史が大きく転回していく。湛山は国家の行く末を少しでも
良い方向に向けるべく、粘り強い言論活動を続けた。

■6.「満蒙問題解決の根本方針」■

 湛山は、前述の「内閣の欲せざる事変の拡大 政府の責任す
こぶる大」に続いて「満蒙問題解決の根本方針如何(いかん)」
を社説として発表した。

 朝日の「権益擁護は厳粛」と題した社説に見られるように、
満洲・蒙古は日清・日露戦争で「十万の英霊、二十億の国帑
(こくど、国家の財産)」を投入した土地であり
、そこでの
「日本の特殊権益」を護ることは、当時の誰もが当然と考えて
いた大前提であった。それに対して、湛山は満蒙問題の根本解
決策は、日本がそこでの権益を放棄することである、という、
当時の日本人が誰一人として考えつかないような大胆な説を展
開したのである。

 当時、満蒙が日本の生命線と考えられていた理由は、3つあっ
た。第1は過剰な人口のはけ口、第2は鉄・石炭などの原料供
給基地、第3に国防最前線、である。しかし
、湛山は統計デー
タなどを使って、これらの根拠がいずれも成り立たないことを
合理的に論証したである。

■7.「満蒙は日本の生命線にあらず」■

 第1に過剰な人口のはけ口であるが、日本の総人口は、当時
6千万人であり、明治38(1905)年から大正7(1918)年までに
945万人も増加している。しかし、外地(台湾、朝鮮、樺太、
関東州を含む全満洲など)に住む日本人は総計80万人であり、
人口増加分の9%弱に過ぎない。これでは人口問題の解決には
程遠い。

 第2に原料供給の面では、大正9(1920)年の朝鮮・台湾・関
東州との貿易総額は合計しても9億1500万円に過ぎないのに対
して、米国とは14億3800万円であり、さらにインド5億8700
万円、英国3億3000万円と続く。経済的に見れば、これら英米
圏との貿易の方がはるかに重要である。満洲や中国全体に対し
ても、欧米先進国に解放し、その「無限の資本」と「優秀なる
企業力」を流注せしめた方が、日本の中国との貿易もますます
増進し、わが国商工業の目覚ましき隆盛を来すはずである。

 第3の国防の観点に立てば、満洲を持つことは、かえって戦
争の危険を高めるという。

 さればもし米国なり、その他の国なりが、我が国を侵略
する虞れがあるとすれば、そはけだし我が海外領土に対し
てであろう。・・・戦争勃発の危険が最も多いのは、むし
ろ支那またはシベリアである。我が国が支那またはシベリ
アを自由にしようとする。米国がこれを妨げようとする。
あるいは米国が支那またはシベリアに勢力を張ろうとする、
我が国がこれをそうさせまいとする。ここに戦争が起これ
ば、起こる。
而(しか)してその結果、我が海外領土や本
土も敵軍に襲われる危険が起きる。[2,p107]

 第3の米国との対立の予想は、その後の歴史を驚くほど正確
に見通したものである。まさしく、満洲および中国の問題から
日米の対立が始まった[
a]。また、第1、第2の指摘は、戦後
の日本が大陸からの引き揚げ者を抱えつつも、国際貿易を通じ
た高度成長によって、人口問題、および、資源問題を解決した
ことを見れば、その指摘は正しかったと言えるだろう。

 しかし、アメリカが主導してグローバルな自由貿易体制が出
現した戦後と違って、戦前は英米などがそれぞれブロック経済
体制を敷いて、日本からの輸出を締め出していったのが実情で
ある
[b]。戦前においても、果たして自由貿易によって、人口
問題、原材料問題を解決できた可能性があったのだろうか。
この問題については、湛山の示したもっと大胆なシナリオを見
てみなければならない。

■8.「大欲を満たすが為に、小欲を捨てよ」■

 湛山は言う[3,p75]。

 弱小国に対して、この「取る」態度を一変して、「捨つ
る」覚悟に改めよ、即ち満洲を放棄し、朝鮮台湾に独立を
許し、その他支那に樹立している幾多の経済的特権、武装
的足懸り等を捨ててしまえ、そして此等弱小国と共に生き
よ。

 その結果、これらの国々との関係はどうなるか?

 台湾にせよ、朝鮮にせよ、支那にせよ、早く日本が自由
解放の政策に出づるならば、それらの国民は決して日本か
ら離るるものではない。彼らは必ず仰いで、日本を盟主と
し、政治的に、経済的に、永く同一国民に等しき親密を続
くるであろう。

 そして、支那全土が排日から親日に変わり、自由な貿易が実
現すれば、日本経済にとっても膨大な利益がもたらされる。

 さらに、欧米諸国に対しても、

(日本が)英米から袋叩きにされるべき理由は全く消滅す
ると同時に、局面は一転して、インドを領有し、白人豪州
を作り、メキシコを圧迫し、有色人種を虐げ、フィリピン
やグアムを武装して極東を脅威している英米が、遂に詮議
される位地に立たねばならぬ。

 湛山は、こうした結果を望むことを「大欲」とし、それを満
たすために、海外領土を欲しがる「小欲」を捨てよ、と論じた
のである。

■9.真の「大東亜共栄圏」を目指す「大欲」■

 湛山のシナリオは、机上の空論ではなかった。昭和8(1933)
年9月、斉藤実首相のもとで、外務大臣に就任した広田弘毅は
「世界いずれの国とも最も緊密な関係を保っていく」という
「万邦協和」を外交方針として打ち出し、国民政府主席・蒋介
石もこれに呼応して、中国内で排日的言論活動を慎むよう、厳
重な命令を出した[c]。

 惜しくもこの流れは近衛内閣によってねじ曲げられてしまっ
たが、もしこの日中友好がそのまま発展していれば、日本は少
なくとも中国市場から排斥されることはなかっただろう。英米
のブロック経済から締め出されても、日本経済は中国市場に活
路を見いだせたはずである。

 さらに、蒋介石政権との信頼関係を築いていれば、ソ連とそ
の手先の中国共産党の策謀によって日中戦争の泥沼に誘い込ま
れることもなく、中国大陸全体の共産化も防げた可能性がある。
[d]

 昭和18(1943)年末、東京にて大東亜会議が開かれ、満洲国、
中華民国(蒋介石政権と対立する汪兆銘政権)、タイ、フィリ
ピン、ビルマ、そして自由インド仮政府の代表が一同に会して、
アジア各国の自主独立と万邦共栄の理想を謳いあげた。[e]

 もし、この会議が、湛山の提言したように、台湾、朝鮮を独
立させ、中国との全面的和平・協調を実現した上で、さらに東
南アジア諸国やインドの解放を目指したものであったら、その
大東亜共栄圏の理想はさらなる迫力を持って、自由独立を求め
る世界の非抑圧諸民族の心に迫ったであろう。

 湛山の主張は「小日本主義」と呼ばれるが、これは領土面の
みを見た呼称であり、それは日本が極東の一角に閉じこもると
いうような消極的なものではない。アジア各国の自主独立と万
邦共栄を目指す、
それこそ真の「大東亜共栄圏」とも言うべき
共同体の盟主となるというシナリオを鑑みれば、まさに「大欲」
というべきである。

 惜しむらくは、湛山の如き「大欲」を抱く政治家、軍人、ジャ
ーナリストが、当時、あまりにも少なかったということである。
そこにこそ我々が反省すべき点があると思われる。
(文責:伊勢雅臣)
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シナ人は、満州を欲しがっていた。

満州のインフラの整い具合は、日本を越えていた。

日本は満州に日本の予算の大半を注ぎ込んでいたからだ。

立派に近代化した満州をシナ人は欲しがった。

日本が全力をあげて、近代化させた満州を手放したとは

思えない。当時は、親日のシナ人ですら、

満州を欲しがっていたから、日本はシナと仲良くなることは

なかったと思う。満州を手放しても、シナ人はお互いに

戦国時代のように戦っていたから、シナは、まとまることなく

欧米に乗っ取られただろう。by日本のお姉さん