通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年=必読=
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▼通州事件の捜査ファイル…封殺された虐殺70周年 (東アジアの目次録)
シナ人兵が暴虐の限りを尽くした通州事件から70年から経った。女性や子供までもが標的となった虐殺の現場とは…シナ人特有の非道な殺害手法は南京の捏造宣伝を解き明かす。
支那駐屯歩兵第二連隊の桜井文雄小隊長は、信じられない光景を目の当たりにした。「『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々出てきた。ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった」これは兵士が垣間見た惨状のごく一部である。
盧溝橋事件から約3週間後にあたる昭和12年7月29日、シナ人による凄惨極まりない日本人虐殺が起きた。歴史教科書から抹殺された通州事件である。日本人約380人が暮らしていた狭いエリアの中で、実に260人が犠牲となった…
武装したシナ人の群れは、駐屯する我が軍の関係施設を攻撃しただけでは収まらず、居留民の家をすべて襲撃。略奪・陵辱・惨殺など残虐の限りを尽くした。人のなせる業ではない。
それらの残忍な行為は、中共が捏造する虐殺ストーリーと重なる。つまり、戦後に脚色した“南京の惨劇”なるものが、シナ人の処刑スタイルそのままであることを皮肉にも浮かび上がらせる…
【本当の“屠城”は通州城にあった】
通州は現在、北京市内の一区であるが、事件当時は別の行政区であった。位置は、北京中心部から約20キロの地点だ。通州は古くからある街だが、事件が起きたのはごく限られたエリア内だった。城壁に囲まれた通州城の中で悪鬼のごとき残虐行為が長時間に渡って繰り広げられたのだ。中共は南京捏造ストーリーで「屠城」なる言葉を用い、でたらめな宣伝を続けている。城門を閉じ、その内部で殺戮が行なわれたとする物語だ。だが、実際の「屠城」とは正に通州城の中で起きていた。更に、記録から修羅場を俯瞰してみよう…事件発生翌日の7月30日午後、現場に入った天津歩兵隊の萱島隊長は、こう語っている。「旭軒(注:飲食店)では四十から十七~八歳までの女七~八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていた。商館や役所に残された日本人男児の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した後があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」とりわけ凄惨を極めたのが、通州城北門近くにあった旅館・近水楼だったという。第二連隊歩兵隊の桂鎮雄隊長代理は、数少ない目撃者だった。「近水楼入口で女将のらしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、きものは寝たうえで剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった」
【シナ人特有の猟奇的な殺害方法】
また桂鎮雄隊長代理は、猟奇的な殺害の跡も目撃している。「一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内蔵が散乱していた」内蔵引き出しや陰部突刺などはシナ人特有の残虐な処刑スタイルだろう。その中でも特異な「胸腹部断ち割り」という残虐な殺害方法を前述の桜井小隊長が目撃している。「陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」数珠繋ぎにして引き回した上での殺害は、各所で行なわれていた。旅館・近水楼でも女中ら殺戮のあと十数人の男女従業員と宿泊客が麻縄で繋がれ、銃殺場に連行された。その日本人大量処刑の模様は、発生直後には確認できなかったが、当日偶々宿泊していた同盟通信社の安藤利男特派員が命からがら城外へ脱出。後日になって蛮行が明らかになった。しかし、なぜ安全だった筈の日本人居留地でシナ人武装勢力の蛮行を許してしまったのか。誰も虐殺の嵐を食い止める者は居なかったのか…
そこに通州事件の計画性を見て取ることが出来る。
【不安定だった北支の勢力地図】
日本人居留民を襲ったのは国民党軍ではなく、冀東防共自治政府の保安隊と武装した黒服の学生団だった。当時の華北の状況は複雑だが、それが事件を引き起こす重要な背景でもあった。
満州事変は昭和8年5月の塘古(タンクー)停戦協定をもって紛争状態に一応の終止符を打つ。これによって満支の境界が明確になる一方、広大な非戦区(緩衝地帯)が設けられた。国民党にしても北支の軍閥を抑え切れず、極めて不安定な状況だったのだ。その中で昭和10年11月、非戦区内地域の実力者で日本寄りの殷汝耕(いん・じょこう)が通州で自治宣言を発表。年末には冀東防共自治政府が誕生する。通州のすぐ西側には冀察政権。冀察とは河北省と察哈爾(チャハル)省を指す。ちなみにチャハルはモンゴル人の有力部族である。この冀察政権(政務委員会)は、南京政府の行政院直属機関であったが蒋介石の影響力は弱く、かつて馮玉祥の部下だった宋哲元(そう・てつげん)が支配していた。そうした政情不安な北支で盧溝橋事件が起き、地域は一気に騒然となった…通州事件直前の7月25日、26日には我が軍への攻撃が相次ぐなど一部で戦闘が勃発。廊坊・広安門事件である。そして28日には天津で大規模な衝突も発生。通州の日本守備隊も北平(現・北京)南部の南苑に主力を送っていた。通州城一帯に残っていたのは、藤尾小隊40人、山田自動車中隊50人などで、憲兵を加えても110人程度だった。「武力の空白」が生まれていたのだ…
【10倍規模の兵力が未明に襲撃】
7月29日未明、冀東防共自治政府の保安隊が通州城内の日本軍民に突如、攻撃を仕掛けてきた。奇襲である。しかも保安隊は本来、友軍に等しい存在だった。隙をついた“寝返り”である。
保安隊はまず長官公署を襲い、親日派とされる殷汝耕を拉致。続いて残留する守備隊に集中砲火を浴びせた。その時、守備隊には重火器がなく、軽機関銃・小銃・手投げ弾などがあるのみだった。襲撃してきた保安隊は千数百人の兵員規模を有し、また重装備でもあった。冀東保安隊は設立以来、機関銃や野砲まで備え、保安隊という名称からは想像できない程の戦闘能力を備えていたのだ。日本守備隊は敢然と応戦したが、10倍規模の武装勢力を前になす術なく、居留民を守ることは到底不可能であった。また城内には通州特務機関のメンバーもいたが、一個中隊規模の保安隊兵に襲撃され、2人の少年給仕を含む機関員全員が壮絶な最期を遂げた。居留民を守る勢力が壊滅する中、シナ人兵は城内で蛮行の限りを尽くしたのである。修羅場から脱出できた者はごく僅かで、正に「屠城」と呼ぶに相応しい光景であった。日本守備隊の主力が奇襲攻撃を知って通州城に帰還したのは、発生から丸一日が経過した30日で、時すでに遅く、城内には目を覆う惨状が広がっていた…戦後の歴史からは抹殺された通州事件だが、当時は陰惨な事件の概要が国内に伝わるや、日本国民は憤慨し「シナ討つべし」の世論が澎湃と巻き起こったという。
無抵抗の婦女子までを残忍に殺害したこの事件が、その後の日支紛争に与えた影響は大きい。一方で、なぜ友軍であったはずの冀東保安隊が、日本居留民を襲撃するに至ったのか?
【事件は計画的な叛乱だった】
通州事件は、冀東保安隊の兵舎が日本軍機によって誤爆されたのを受けて叛乱を起こした、との説がかつては有力だったという。
シナ人の蛮行をも日本の責任にする自虐史観だ。
事件2日前の7月27日に誤爆が発生している。
通州の宝通寺エリアには第二十九軍の部隊が常駐していた。我が軍は宝通寺部隊一掃のため攻撃を加えたが、その際、支援に来た関東軍の爆撃機が誤って冀東保安隊幹部訓練所に爆弾を投下。数名の犠牲者を出す不幸な事態が起きた。
しかし、誤爆を知った通州特務機関の細木機関長は、冀東政府の殷汝耕を訪ねて陳謝。さらに誤爆現場に急行して弔意を示し、28日には保安隊幹部に対し状況を説明・釈明し、慰撫に務めている。この誤爆が大規模な組織的行動に繋がったとする説は元々根拠が薄かったが、戦後になってシナ側の資料で準備周到な蜂起であることが判明した。
冀東保安隊第一総隊の張慶餘(ちょう・けいじょ)は『冀東保安隊通県始末記』などで、事件が第一総隊と第二総隊(総長・張硯田) による計画的行動だったことを明かしているという。
保安隊のトップは明代からの秘密結社・哥老会(かろうかい)を通じて冀察の宋哲元と極秘会談を行い、叛乱の機会を窺っていたのだ。また同時に、国民党の謀略宣伝機関「南京放送」が繰り返し、日本軍壊滅の偽情報を流していたことも一般兵員の動揺を誘ったと見られている我が軍が冀東保安隊内部の不穏な動きを察知できていなかったことは、明らかなミスだ。しかし、華北の状況が不安定である事実は周知だった。それは他方で、偶発的に盧溝橋事件で紛争に巻き込まれたことを逆説的に裏付けているだろう。
【通州を知れば南京の嘘が見える】
我が国の有志の中でも、南京を語る際に、反論の手段として通州事件を取り上げるケースが見受けられる。シナ人兵の鬼畜ぶりを物語る通州事件をもって、南京捏造宣伝を迎撃するものだ。
しかし、南京と通州はまったく次元が異なっている。南京攻略戦は正規軍による一大首都決戦であり、戦争史に残る激烈な城塞陥落であった。
一方で通州事件は、隙をついた叛乱兵による残虐な事件である。
「通州事件があったから南京事件が起きた」とする意見は、敵側捏造宣伝の土俵に乗るものだろう。
通州事件の“重要性”は、そこに垣間見られた猟奇的な良民殺害の手法だ。南京プロパガンダで振りまく“日本鬼子”の所業なるものは、すべて通州において表面化していたものだった。例えば「鼻に針金を通して引き回す」などの蛮行は、旧来の我が軍にはないもので、シナ人の伝統的な陵辱スタイルであることは明確だ。中共は南京捏造で様々な「残虐性」を考案しているが、それらはシナ人の伝統に源している。南京の捏造残虐ストーリーとは、通州事件で実際に起きた惨劇の裏返しだ。そのモデルケースとして、すべては通州で“再現”されていた…通州事件の惨劇を知ることは、南京プロパガンダの嘘を透視するうえで極めて重要である