迷っていてはリーダーは務まらない( 即断する力)
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迷っていてはリーダーは務まらない( 即断する力) nikkei BP
ナポレオンの軍事的、政治的才能は世界で高く評価され、多くの学者の研究の対象となってきた。しかし、その活動が超人的であったせいで、1日3時間しか眠らなかったとか、自分の辞書に不可能はないと言ったなどのエピソードばかりが独り歩きし、繊細で、極めて感じやすい人物だった実際のナポレオン像は意外に知られていない。いじめに合い、失業し、食うや食わずで求職活動をくり広げたり、無能な上司に悩まされたり、やる気のない部下に苦しみ、派閥に手を焼き、左遷され閑職に追いやられたこともあった。家庭的にも、妻の浮気に傷つき、家族間のもめごとにストレスを抱えていた。彼の統率力は、天性の才能と言うよりこうした環境で学習し、身につけたものだ。日本におけるナポレオン研究の第一人者である作家・藤本ひとみが、現代に通用するナポレオンのリーダーシップを鋭く分析する。
藤本 ひとみ(ふじもと・ひとみ)
作家。長野県飯田市生まれ。画家であった祖父の影響でヨーロッパに傾倒する。歴史への深い造詣と綿密な取材に裏打ちされた歴史小説で脚光を浴びた。フランス政府観光局親善大使を務め、現在同名誉委員。パリに本部を置くフランス・ナポレオン史研究学会会員。ブルゴーニュ・ワイン騎士団騎士。著書に『皇帝ナポレオン』(角川書店)、『ナポレオンに選ばれた男たち』(新潮社)、『ノストラダムスと王妃』(集英社)、『聖戦ヴァンデ』(角川書店)、『シャネル』(講談社)、『侯爵サド』(文藝春秋)ほか。
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リーダーを目指すあなたにとって、「即断する力」は、欠くことのできないものの1つです。
これは、「決断する力」と似ていますが、非なるもの。「決断する力」には熟考、つまり、じっくりと考える時間があるわけですが、即断では、速さが決め手となります。といっても間違った判断は許されないわけで、リーダーは、より厳しい状況におかれると言ってもいいでしょう。 仕事の現場では、実は、この即断力が必要とされることが多いものです。現代社会は、非常に早いスピードで動いています。このため日々、状況も変わっていきますし、せっかく集めた情報も古くなっていきます。ためらったり、たじろいだりしている間にチャンスが逃げていくこともあるでしょう。 じっくり考えていたのでは、いつまでたっても対応できない。そんな時に活躍するのが、この「即断力」です。 即断といっても、ただ決めるだけでなく、それに実行が伴わなければなりません。ナポレオンの場合は、これがたいそう早かったと言われています。即断、即行です。 熟慮する時間もなく決定し、準備もそこそこに実行するわけですから、ともすれば盲断、誤断ということになり、大きな失敗の原因になります。
ナポレオンは、速いことが好きな人間でした。せっかちだったわけです。イタリアをはじめとする各地で戦勝を上げ続けることができたのも、1つには、その即断する力と、それをただちに実行できる健脚の部隊がいたからでした。 第2次世界大戦の終結1年前、1944年にビルマにおける日本陸軍第15師団兵力3万の平均行軍距離は、1日3.5キロから7キロと計算されています。地形のちがいはありますが、1805年、ナポレオン軍団兵力1万500の1日の行軍距離は、約70キロでした。これを2日間、つまり140キロを走った挙句に戦闘に突入するわけです。この速さが、ナポレオンのお気に入りでした。 ナポレオンの生涯の中に、即断、即行の例はたくさんあり、どれをご紹介しようかと迷うほどですが、今回は、これまであまり知られていない、かつあまり名誉とは言えない即断即行のケースをお話しすることにします。 以前に、「立ち直る力」のコーナーで、フランス艦隊が全滅したアブゥキールの海戦をご紹介したかと思いますが、今回は、その約1年後に同じ場所で行われたアブゥキールの陸戦についてです。
ナポレオンの即断即行
1799年7月10日、エジプトのアブゥキール沖合いに大船団が姿を現わす。イギリスの援助を受けたオスマン・トルコ軍、約100隻だった。 15日、アレキサンドリアの総督からの知らせにより、ナポレオンは即、各地に駐屯している部隊、および弾薬食料を集結させた。その間に、次の情報が飛びこんでくる。 「トルコの軍が上陸を開始、アブゥキール岬の先端にある要塞を強襲いたしました。要塞守備隊300は、全滅したもようです」
一刻の猶予もならかった。やがて部隊と資材、食料の集結が完了したとの知らせが入る。ナポレオンは、ただちにアブゥキールに向かった。16日午前4時のことである。 23日夜10時、アレキサンドリアに着いたナポレオンは、翌日早朝、敵の陣容を視察するためにアブゥキール半島まで馬を飛ばした。半島に陣取ったトルコ軍陣営は寝静まり、まったく動く気配がなかった。 「歩兵と砲兵のみだ。騎兵がいない」 その状況からナポレオンは、トルコ軍に動きが出ないのは、アラブ騎兵の到着を待っているからだと判断した。 「騎兵の到着前に攻撃をかけよう。今ならイギリス軍も、上陸していない」 ナポレオンはアレキサンドリアに駆け戻ると、すぐ戦略を立て、各師団長に通達した。トルコ軍を半島の奥に追いつめ、閉じこめるというものである。ナポレオンの尊敬する将軍オッシュが1795年にキブロン半島で実践した作戦だった。 「あれは、半島戦の見本ともいうべき戦いだった」 25日、全軍を率いたナポレオンは、アレキサンドリアを出てアブゥキール半島に向かう。兵力は7700、砲17門。対するトルコ軍は1万8000、砲32門である。
トルコ軍は、半島の突端にある要塞から1キロ半ほど南下した村に司令部を置いていた。そこからさらに南に2キロほど下がった所に、2つの砂丘をつなぐようにして前線が作られている。 「この戦いで、我々は、勝つか全滅するかどちらかだ。死にたくなかったら、気を引きしめろ」 ナポレオンの訓示の後、全軍はトルコ軍に向かって進軍し、向かい合った。お互いを探るような緊張した沈黙が1時間ほど続いた後、ナポレオン軍の砲撃によって戦闘が始まる。
午前中いっぱい戦ったが、戦況は一進一退を繰り返した。このまま戦闘が長引けば、アラブ騎兵が応援に駆けつけ、戦場に雪崩れこんでくることになる。新しい兵力は、疲れ始めたナポレオン軍にとって精神的にも危険なものだった。 早期解決を図るため、ナポレオンは自軍騎兵隊を投入することにした。 「ミュラ、君の出番だ」 ミュラは、ヴァンデミエールのクーデターで活躍し、以来ナポレオンに従っている32歳の将軍だった。1メートル80を超える長身の偉丈夫である。 「待ちかねていました」 正午、ミュラ率いる騎兵隊が突撃し、トルコ軍の前線を突破、そこに歩兵が突入する。「東側が弱い。砲座を移動して砲撃をかけろ」 砲弾の雨を受けたトルコ軍は崩れ始め、後退する。それを見たミュラが騎兵を送り、歩兵隊と連携して挟み撃ちを図った。
勢いに乗ったミュラは、間隙を生じた中央から敵陣に突入、彼の後ろに歩兵隊が続く。トルコ陣内は混乱し、追いつめられた兵は次々と海に飛びこんだ。 ミュラはトルコ軍本陣に切りこみ、敵軍最高司令官と渡り合う。顎を打たれながらも、騎兵用のサーベルで敵将の指を切り落として捕虜とした。 逃げ惑うトルコ軍兵士は捕らえられ、砲艦目指して泳ぐ者は狙撃された。要塞に閉じこもって抵抗した兵力2500も、7日間にわたる戦闘で半数に減り、8月1日、白旗を揚げる。トルコ軍死傷者1万、捕虜3000、ナポレオン軍死傷者は800だった。 ナポレオンの完勝と言えたが、この時、ナポレオンは気づいたのである。この地でいくら勝利を上げても、何にもならないということに。
ここにいる以上、周りは敵ばかりだった。永遠に戦い続けなければならない。そしていくら勝ったとしても、確実に兵は減っていく。このエジプトの地で、フランス兵の補強はできない。つまり勝利し続けたとしても、フランス軍は力を失っていき、いつかは負けることになるのだった。 ここに未来はない。ナポレオンは、そう確信した。このままでは、自分もフランス軍もエジプトの地で消耗し、消えていく運命だった。何とかしなければならない。 だが、どうすることができるだろう。フランス艦隊は、全滅したに等しい。わずかに2隻を残すのみだった。船がなくては、ここから出ていくことはできない。 進退極まったナポレオンの元に、ある日、新聞が届けられる。イギリス軍との間で捕虜の交換が行われた際、イギリス側から提供されたものだった。
藤本 ひとみ(ふじもと・ひとみ)
作家。長野県飯田市生まれ。画家であった祖父の影響でヨーロッパに傾倒する。歴史への深い造詣と綿密な取材に裏打ちされた歴史小説で脚光を浴びた。フランス政府観光局親善大使を務め、現在同名誉委員。パリに本部を置くフランス・ナポレオン史研究学会会員。ブルゴーニュ・ワイン騎士団騎士。著書に『皇帝ナポレオン』(角川書店)、『ナポレオンに選ばれた男たち』(新潮社)、『ノストラダムスと王妃』(集英社)、『聖戦ヴァンデ』(角川書店)、『シャネル』(講談社)、『侯爵サド』(文藝春秋)ほか。
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リーダーを目指すあなたにとって、「即断する力」は、欠くことのできないものの1つです。
これは、「決断する力」と似ていますが、非なるもの。「決断する力」には熟考、つまり、じっくりと考える時間があるわけですが、即断では、速さが決め手となります。といっても間違った判断は許されないわけで、リーダーは、より厳しい状況におかれると言ってもいいでしょう。 仕事の現場では、実は、この即断力が必要とされることが多いものです。現代社会は、非常に早いスピードで動いています。このため日々、状況も変わっていきますし、せっかく集めた情報も古くなっていきます。ためらったり、たじろいだりしている間にチャンスが逃げていくこともあるでしょう。 じっくり考えていたのでは、いつまでたっても対応できない。そんな時に活躍するのが、この「即断力」です。 即断といっても、ただ決めるだけでなく、それに実行が伴わなければなりません。ナポレオンの場合は、これがたいそう早かったと言われています。即断、即行です。 熟慮する時間もなく決定し、準備もそこそこに実行するわけですから、ともすれば盲断、誤断ということになり、大きな失敗の原因になります。
ナポレオンは、速いことが好きな人間でした。せっかちだったわけです。イタリアをはじめとする各地で戦勝を上げ続けることができたのも、1つには、その即断する力と、それをただちに実行できる健脚の部隊がいたからでした。 第2次世界大戦の終結1年前、1944年にビルマにおける日本陸軍第15師団兵力3万の平均行軍距離は、1日3.5キロから7キロと計算されています。地形のちがいはありますが、1805年、ナポレオン軍団兵力1万500の1日の行軍距離は、約70キロでした。これを2日間、つまり140キロを走った挙句に戦闘に突入するわけです。この速さが、ナポレオンのお気に入りでした。 ナポレオンの生涯の中に、即断、即行の例はたくさんあり、どれをご紹介しようかと迷うほどですが、今回は、これまであまり知られていない、かつあまり名誉とは言えない即断即行のケースをお話しすることにします。 以前に、「立ち直る力」のコーナーで、フランス艦隊が全滅したアブゥキールの海戦をご紹介したかと思いますが、今回は、その約1年後に同じ場所で行われたアブゥキールの陸戦についてです。
ナポレオンの即断即行
1799年7月10日、エジプトのアブゥキール沖合いに大船団が姿を現わす。イギリスの援助を受けたオスマン・トルコ軍、約100隻だった。 15日、アレキサンドリアの総督からの知らせにより、ナポレオンは即、各地に駐屯している部隊、および弾薬食料を集結させた。その間に、次の情報が飛びこんでくる。 「トルコの軍が上陸を開始、アブゥキール岬の先端にある要塞を強襲いたしました。要塞守備隊300は、全滅したもようです」
一刻の猶予もならかった。やがて部隊と資材、食料の集結が完了したとの知らせが入る。ナポレオンは、ただちにアブゥキールに向かった。16日午前4時のことである。 23日夜10時、アレキサンドリアに着いたナポレオンは、翌日早朝、敵の陣容を視察するためにアブゥキール半島まで馬を飛ばした。半島に陣取ったトルコ軍陣営は寝静まり、まったく動く気配がなかった。 「歩兵と砲兵のみだ。騎兵がいない」 その状況からナポレオンは、トルコ軍に動きが出ないのは、アラブ騎兵の到着を待っているからだと判断した。 「騎兵の到着前に攻撃をかけよう。今ならイギリス軍も、上陸していない」 ナポレオンはアレキサンドリアに駆け戻ると、すぐ戦略を立て、各師団長に通達した。トルコ軍を半島の奥に追いつめ、閉じこめるというものである。ナポレオンの尊敬する将軍オッシュが1795年にキブロン半島で実践した作戦だった。 「あれは、半島戦の見本ともいうべき戦いだった」 25日、全軍を率いたナポレオンは、アレキサンドリアを出てアブゥキール半島に向かう。兵力は7700、砲17門。対するトルコ軍は1万8000、砲32門である。
トルコ軍は、半島の突端にある要塞から1キロ半ほど南下した村に司令部を置いていた。そこからさらに南に2キロほど下がった所に、2つの砂丘をつなぐようにして前線が作られている。 「この戦いで、我々は、勝つか全滅するかどちらかだ。死にたくなかったら、気を引きしめろ」 ナポレオンの訓示の後、全軍はトルコ軍に向かって進軍し、向かい合った。お互いを探るような緊張した沈黙が1時間ほど続いた後、ナポレオン軍の砲撃によって戦闘が始まる。
午前中いっぱい戦ったが、戦況は一進一退を繰り返した。このまま戦闘が長引けば、アラブ騎兵が応援に駆けつけ、戦場に雪崩れこんでくることになる。新しい兵力は、疲れ始めたナポレオン軍にとって精神的にも危険なものだった。 早期解決を図るため、ナポレオンは自軍騎兵隊を投入することにした。 「ミュラ、君の出番だ」 ミュラは、ヴァンデミエールのクーデターで活躍し、以来ナポレオンに従っている32歳の将軍だった。1メートル80を超える長身の偉丈夫である。 「待ちかねていました」 正午、ミュラ率いる騎兵隊が突撃し、トルコ軍の前線を突破、そこに歩兵が突入する。「東側が弱い。砲座を移動して砲撃をかけろ」 砲弾の雨を受けたトルコ軍は崩れ始め、後退する。それを見たミュラが騎兵を送り、歩兵隊と連携して挟み撃ちを図った。
勢いに乗ったミュラは、間隙を生じた中央から敵陣に突入、彼の後ろに歩兵隊が続く。トルコ陣内は混乱し、追いつめられた兵は次々と海に飛びこんだ。 ミュラはトルコ軍本陣に切りこみ、敵軍最高司令官と渡り合う。顎を打たれながらも、騎兵用のサーベルで敵将の指を切り落として捕虜とした。 逃げ惑うトルコ軍兵士は捕らえられ、砲艦目指して泳ぐ者は狙撃された。要塞に閉じこもって抵抗した兵力2500も、7日間にわたる戦闘で半数に減り、8月1日、白旗を揚げる。トルコ軍死傷者1万、捕虜3000、ナポレオン軍死傷者は800だった。 ナポレオンの完勝と言えたが、この時、ナポレオンは気づいたのである。この地でいくら勝利を上げても、何にもならないということに。
ここにいる以上、周りは敵ばかりだった。永遠に戦い続けなければならない。そしていくら勝ったとしても、確実に兵は減っていく。このエジプトの地で、フランス兵の補強はできない。つまり勝利し続けたとしても、フランス軍は力を失っていき、いつかは負けることになるのだった。 ここに未来はない。ナポレオンは、そう確信した。このままでは、自分もフランス軍もエジプトの地で消耗し、消えていく運命だった。何とかしなければならない。 だが、どうすることができるだろう。フランス艦隊は、全滅したに等しい。わずかに2隻を残すのみだった。船がなくては、ここから出ていくことはできない。 進退極まったナポレオンの元に、ある日、新聞が届けられる。イギリス軍との間で捕虜の交換が行われた際、イギリス側から提供されたものだった。
そこには、ヨーロッパ各地でのフランス軍の敗退の記事が載っていた。イギリスは、それを見せてナポレオンの戦意を喪失させようとしたのである。 常勝将軍ナポレオンがエジプトにいる間、フランス軍は苦戦していた。かつてナポレオンが戦勝を上げ続けたイタリアの地は、再びオーストリアに奪われ、ドイツでも敗北、スイスでは一進一退の状況で、これらにイギリスが手を貸し、フランスの包囲を図っていた。加えて国内では、王党派の蜂起が計画されていたのである。
ナポレオンは帰国を決意した。国を救うためという名目ができたのだから、単身で帰国しても敵前逃亡とは言われないだろうと判断したのだった。自分と部下が帰るだけならば、2隻の船で充分である。 8月11日、カイロに帰ったナポレオンは、極秘のうちに帰国準備を進めた。その日から出発まで、わずか1週間である。 1年前に爆沈したフランス艦隊旗艦オリアンから生還していた海軍参謀長に準備を頼み、アレキサンドリアの総督に情報収集を依頼しながら、カイロで行われた「ムハンマドの祭り」に参加して楽しみ、学者たちを調査に派遣し、エジプトの治世に心を砕いているふうを見せた。
18日、ナポレオンは、ごくわずかな側近だけを連れてカイロを出発する。低地エジプトの視察に出ると言い残してメヌフに向かい、その港から船に乗った。 アレキサンドリアに到着したのは、22日の真夜中である。ここで、用意させていたフリゲート艦に乗り換え、地中海を横断した。 エジプトに残された兵たちは何も知らされず、後任の最高司令官に選ばれたクレベールでさえも、手紙ですべてを託された。事前に何の相談もない、突然の権利委譲だった。クレベールは怒り狂ったものの、その時ナポレオンは既に出港してしまっており、どうすることもできなかった。 10月1日、ナポレオンの乗った船は、コルシカ島アジャクシオの港に到着する。ナポレオンは実家に帰り、誰もいない家に7日まで滞在した。夜7時に港を出る。生涯二度と、この家に帰ることはなかった。 9日正午、ナポレオンの船は南フランスのフレジュスに入る。夕方6時、ナポレオンはパリに向かって出発するのである。 ナポレオンの計算通り、祖国の危機を知って駆け戻ってきた英雄は、熱狂的に迎えられた。敵前逃亡の罪で軍法会議にかけよとの意見もあったが、政府がそれを実行することができないほど、市民はナポレオンを支持したのだった。
一方、エジプトに残されたクレベールは、やむなく統治を引き継ぎ、全力をつくした。ところが、軍は既に経済的に困窮しており、いくら努力しても財政を立て直すことができなかった。 思い余ったクレベールは、ナポレオンの時代からの経済的困窮を本国に報告する。しかし、この手紙を受け取ったのはナポレオンだった。 既にブリュメールのクーデターが終わり、ナポレオンが政権を握っていたのである。エジプトからの報告を読んだナポレオンは、クレベールが自分に責任をかぶせようとしていると考えた。激怒したナポレオンは、何の手も打たなかったのである。そればかりではない。 その後、クレベールがテロリストによって暗殺されると、彼の遺体がフランスに戻ることまで拒否したのだった。
即断する力を身につける
エジプトにいても未来はない。だが、帰る船はない。日夜考え続けているところに、祖国の悲報が届く。これで帰る口実ができ、1人分なら船もあるということになったわけです。 ナポレオンにとって、名誉とは言いがたい行動でしたが、彼がパリに帰ったのが、10月16日。この日からブリュメールのクーデターまで、たった24日間です。 脱エジプトという即断即行がなかったら、ナポレオンはクーデターに乗り遅れていました。政権を握ることはできず、もちろん皇帝となることもできなかったということになります。 当然のことながら、この脱エジプト即断即行には、当時から多くの批判がありました。けれども、ナポレオンの立身出世のためには必要なことだったのでしょう。 ナポレオンの即断力の秘密は、日頃から胸に問題を抱えこみ、考え続けているというところにあります。それらの問題は、何とかしなければならないものなのですが、当面なんともできないものなのです。
普通の人間は、こんな時お手上げ状態となり、考えるのをやめてしまいます。けれどもナポレオンは、考え続けました。なぜ、どうにもできないのか。問題を構成している要因を細かく分析し、どうすれば何とかできるのか、その方法を考え続けたのです。 そのうちに状況が変わっていき、どうにもならなかった要因の1つが動く。その一瞬をとらえて決断、行動しました。 リーダーは、常日頃から、あらゆる問題について考えをめぐらせていなければなりません。目の前で起こっている問題を分析し、今はこうだが、現状の中のどの要素がどう変わったらどうなるのか。そういうシュミレーションを、自分の心の中でくり返しておく必要があります。いろいろなパターンを想定しておくのです。
もちろん、情報収集も怠ってはいけません。周りの人々の状態や気持ちも考慮に入れながら、自分の考えや、行動の基盤となる信念を、ある程度固めておきましょう。 そうすれば、状況が動いた時にすかさず判断することができます。間違いのない即断をする力は、日頃の心がまえの中から生じるものです。 補足ですが、ナポレオンに拒まれたクレベールの遺体は、地中海の小島シャトウ・ディフの牢獄に入れられました。なんと8年間も、ここに置かれていたのです。私が訪ねた時には、クレベールの独房は、伝説の囚人「鉄化面」が収監されていたという監房から廊下続きの別棟の2階にありました。さぞくやしかったことでしょうね。
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ナポレオンは帰国を決意した。国を救うためという名目ができたのだから、単身で帰国しても敵前逃亡とは言われないだろうと判断したのだった。自分と部下が帰るだけならば、2隻の船で充分である。 8月11日、カイロに帰ったナポレオンは、極秘のうちに帰国準備を進めた。その日から出発まで、わずか1週間である。 1年前に爆沈したフランス艦隊旗艦オリアンから生還していた海軍参謀長に準備を頼み、アレキサンドリアの総督に情報収集を依頼しながら、カイロで行われた「ムハンマドの祭り」に参加して楽しみ、学者たちを調査に派遣し、エジプトの治世に心を砕いているふうを見せた。
18日、ナポレオンは、ごくわずかな側近だけを連れてカイロを出発する。低地エジプトの視察に出ると言い残してメヌフに向かい、その港から船に乗った。 アレキサンドリアに到着したのは、22日の真夜中である。ここで、用意させていたフリゲート艦に乗り換え、地中海を横断した。 エジプトに残された兵たちは何も知らされず、後任の最高司令官に選ばれたクレベールでさえも、手紙ですべてを託された。事前に何の相談もない、突然の権利委譲だった。クレベールは怒り狂ったものの、その時ナポレオンは既に出港してしまっており、どうすることもできなかった。 10月1日、ナポレオンの乗った船は、コルシカ島アジャクシオの港に到着する。ナポレオンは実家に帰り、誰もいない家に7日まで滞在した。夜7時に港を出る。生涯二度と、この家に帰ることはなかった。 9日正午、ナポレオンの船は南フランスのフレジュスに入る。夕方6時、ナポレオンはパリに向かって出発するのである。 ナポレオンの計算通り、祖国の危機を知って駆け戻ってきた英雄は、熱狂的に迎えられた。敵前逃亡の罪で軍法会議にかけよとの意見もあったが、政府がそれを実行することができないほど、市民はナポレオンを支持したのだった。
一方、エジプトに残されたクレベールは、やむなく統治を引き継ぎ、全力をつくした。ところが、軍は既に経済的に困窮しており、いくら努力しても財政を立て直すことができなかった。 思い余ったクレベールは、ナポレオンの時代からの経済的困窮を本国に報告する。しかし、この手紙を受け取ったのはナポレオンだった。 既にブリュメールのクーデターが終わり、ナポレオンが政権を握っていたのである。エジプトからの報告を読んだナポレオンは、クレベールが自分に責任をかぶせようとしていると考えた。激怒したナポレオンは、何の手も打たなかったのである。そればかりではない。 その後、クレベールがテロリストによって暗殺されると、彼の遺体がフランスに戻ることまで拒否したのだった。
即断する力を身につける
エジプトにいても未来はない。だが、帰る船はない。日夜考え続けているところに、祖国の悲報が届く。これで帰る口実ができ、1人分なら船もあるということになったわけです。 ナポレオンにとって、名誉とは言いがたい行動でしたが、彼がパリに帰ったのが、10月16日。この日からブリュメールのクーデターまで、たった24日間です。 脱エジプトという即断即行がなかったら、ナポレオンはクーデターに乗り遅れていました。政権を握ることはできず、もちろん皇帝となることもできなかったということになります。 当然のことながら、この脱エジプト即断即行には、当時から多くの批判がありました。けれども、ナポレオンの立身出世のためには必要なことだったのでしょう。 ナポレオンの即断力の秘密は、日頃から胸に問題を抱えこみ、考え続けているというところにあります。それらの問題は、何とかしなければならないものなのですが、当面なんともできないものなのです。
普通の人間は、こんな時お手上げ状態となり、考えるのをやめてしまいます。けれどもナポレオンは、考え続けました。なぜ、どうにもできないのか。問題を構成している要因を細かく分析し、どうすれば何とかできるのか、その方法を考え続けたのです。 そのうちに状況が変わっていき、どうにもならなかった要因の1つが動く。その一瞬をとらえて決断、行動しました。 リーダーは、常日頃から、あらゆる問題について考えをめぐらせていなければなりません。目の前で起こっている問題を分析し、今はこうだが、現状の中のどの要素がどう変わったらどうなるのか。そういうシュミレーションを、自分の心の中でくり返しておく必要があります。いろいろなパターンを想定しておくのです。
もちろん、情報収集も怠ってはいけません。周りの人々の状態や気持ちも考慮に入れながら、自分の考えや、行動の基盤となる信念を、ある程度固めておきましょう。 そうすれば、状況が動いた時にすかさず判断することができます。間違いのない即断をする力は、日頃の心がまえの中から生じるものです。 補足ですが、ナポレオンに拒まれたクレベールの遺体は、地中海の小島シャトウ・ディフの牢獄に入れられました。なんと8年間も、ここに置かれていたのです。私が訪ねた時には、クレベールの独房は、伝説の囚人「鉄化面」が収監されていたという監房から廊下続きの別棟の2階にありました。さぞくやしかったことでしょうね。
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ようちゃんの意見。↓
★今の自民党にはこの「決断」「即断・即行」が無いのですねー。皆仲良くお手手繋いで行きましょう>とは行きません。護送船団方式などもっての他。一番速度の遅い船に全部の船の速度を合わせるなど・・。指揮を執る事の意味が平時の悠久とした暮らしからは身に付かない! 軍隊は「早飯、早○、早○」ですよ!咄嗟の判断力が生死を分かつ経験談が戦場には多いです。
★今の自民党にはこの「決断」「即断・即行」が無いのですねー。皆仲良くお手手繋いで行きましょう>とは行きません。護送船団方式などもっての他。一番速度の遅い船に全部の船の速度を合わせるなど・・。指揮を執る事の意味が平時の悠久とした暮らしからは身に付かない! 軍隊は「早飯、早○、早○」ですよ!咄嗟の判断力が生死を分かつ経験談が戦場には多いです。