インドネシアの独立と日本人
1945年8月15日の天皇の「終戦の御詔勅」から半月後、9月2日にマッ
カーサー元師が日本に到着した――――。
日本が敗戦して直ぐに、以前の欧米宗主国が、日本に追い出されていた
植民地地域に再び乗り込んだけれど、そこで宗主国軍は、思わぬ民衆の
抵抗を受けることになった。
現在のインドネシアは、それまで340数年間オランダが支配していた。
オランダの統治の仕方はイギリスとは違って、インドネシアの伝統的な建
物を一掃し、オランダ式の建物に変えてしまったこと。
インドネシア人には義務教育を受けさせなかった。島々にはそれぞれの
言語が320以上あったが、共通語を作らせなかった。
経済部門はすべて華僑に委ねた。インドネシア人の恨みや憎しみを
華僑に向けさせ、オランダ人は高原の気候のよい場所で、御殿のような
住居を作り一般のインドネシア人から隔絶された場所に住んでいた。
オランダは、各地のスルタン(地元の王族)を使って支配した。
インドネシア人との混血児をたくさん作り、混血児を中間階級とした。
警察や軍人はアンボン人、ミナハサ人、バタック人を使った。
インドネシア人は、一切の会合を禁止された。3人ぐらいが路上で立ち
話することすら許されなかった。逆らえば厳重に処罰した。
このようにして、オランダは340年以上インドネシアを支配した。
インドネシア人も、1905年の日露戦争で、日本がロシアに勝った
ことや、1909年の青年トルコ党やパン・イスラム主義の反英革命や、
1911年のシナの辛亥革命をみて、東部ジャワのスラバヤの、
ウマル・チョクロアミノトという人が、1910年に、華僑だけに
インドネシア経済を支配されるのは、オランダに間接支配されることだと
悟り、会員200万人のイスラム経済連盟を作った。
オランダ総督府はこれが独立運動に繋がっていると気がつき弾圧し
たが、チョクロアミノトはインドネシアのあちこちで講演を行って独立
気運を広めた。独立インドネシアの初代大統領スカルノも、彼に才能
をかわれて学費を出してもらい大学まで出た。
スカルノは一時共産主義に洗脳され、1920年には共産党に入って
いたが1925年に国民党を作って党首になった。
1926年には、共産党がクーデターを起こしたが、オランダ総督府の
軍隊によって鎮圧された。チョクロアミノトを崇拝するモハメッド・
ナチールがマシュミ党を作り、インドネシア建国に貢献した。
1920年、オランダに留学した経験を持つハッタが、日本の協力を得て
独立しようという考えを持ち、戦争以前から同志を連れて訪日している。
スカルノの同志タムリンも親日派で、スカルノとハッタとタムリンは、
インドネシアの独立に貢献した。
そんな時代に大東亜戦争が起った。
日本軍はジャワに入ると、あちこちにインドネシアの国旗となる赤と白の
旗を掲げ、インドネシア語を島々に普及させた。ラジオでは、インドネシア
の国歌となったインドネシアの歌を流し、「日本軍は征服者オランダを
駆逐してインドネシアの独立を助けるために来ました」と宣言した。
それまでにインドネシアは、日本軍がマレー沖でイギリス艦隊を破った
ことも聞いていたし、白い馬に乗った英雄が率いる神兵が来て独立を
助けてくれるという伝説もあったので、インドネシアの住民は全員が
日本軍に協力したのだ。
おかげで日本軍は、9日間でオランダ軍を破ることができた。
日本軍は「独立はみずから勝ち取るものだ」と教え、タンゲランに道場
を作りインドネシア人に軍事訓練を施した。
インドネシア人は、翌年最初の50名の学生がジャワ派遣軍原田熊吉
中尉の応援で、PETAという祖国防衛義勇軍の教師となってボゴール
に移された。そこで軍事訓練が実施された。3万8千人が将校となる
べく訓練された。
日本軍は「兵補」という部隊も作り、数万人が日本兵と共に訓練を
受けた。日本軍は専門学校や大学を作り、十万人のエリートを
養成した。オランダは350年間の支配のうちに、数千名しか教育
していなかった。
日本が連合国のポツダム宣言を受け入れて降伏、停戦したあと、
華僑がオランダに味方し、独立を願うインドネシア人を襲ったが、
日本人義勇軍は日本に帰らずに、インドネシアの独立のために戦った。
1945年8月15日、インドネシアの独立志士13名がジャカルタに
集結し独立宣言の草案と武装闘争を協議した。そこに居合わせた
金子智一氏は、連合国軍がジャカルタに到着して日本側の重要人物
を逮捕している最中にバンドンに飛び、日本軍の武器、弾薬、宝石類
をインドネシア独立軍に渡した。宝石は売って軍用資金にするために
役だった。ーーー金子智一氏はその後連合国軍に逮捕された。
日本軍が猛訓練したPETAがインドネシア国軍の母胎となった。日本軍
は反共だったから、PETAの将校も反共だった。
1948年に共産党がソ連主導で起こしたクーデターも国軍が防ぎ、
1965年に共産党がチャイナ主導で起こしたクーデターもPETA育ちの
スハルト将軍が粉砕した。
インドネシアが独立を宣言した後、イギリス軍とオランダ軍がインドネ
シア軍を攻撃したが、日本軍が3年半の間に10万人を教育して、
オランダ軍と戦う基礎を作ったことがインドネシアの独立に役に立った
のだ、と当時のPETAの将校たちに高く評価されている。
残留日本軍兵士と民間の日本人らが武器をとって、インドネシア人と
共に命をかけて独立のために戦った。スラバヤでの戦闘は凄烈なもの
だった。日本軍人は常に先頭にたってイギリス・オランダ軍に向かって
いったので犠牲も多かった。
日本人の戦死約400名。残留日本兵の話では約800名とも言われる。
部隊から離脱してインドネシアの独立を助けようと、日本に帰国する
船に乗らなかったのは、スマトラで約500人、ジャワで約300人、軍
属・民間人を含めると、残留し独立戦争に参加した日本人は千人とも
二千人ともいわれている。(800人参加して400人死亡という説もある)
ジャカルタ郊外のカリバタ英雄墓地にも、インドネシアの独立戦争で戦
死した1800柱の勇士が祀られているが、日本人勇士も共に葬られて
いる。独立後内地に帰ったり病死した人を除けば、100人以上が
そのままインドネシアに留まった。
日本名を隠してイスラム名で通した人、貧乏を恥じて出てこない人も
入れるともっといたともいわれる。残
留日本兵は、2007年6月11日に1人亡くなられたので今では6人に
なった。
インドネシアでは、日本軍がインドネシアの労務者を使い、ビルマの
鉄道敷設に過酷な労働を強いたなどと宣伝する容共親中反日の
華僑系のインドネシア人もいる。
そこに使われたレールは、インドネシアの鉄道のレールを外して持って
いったものであるが、インドネシアにとっては、日本とビルマは同盟
関係にあるのだから、それぐらいの援助は当然だと当時のインドネ
シア人は思っていたそうだ。
しかし日本の敗戦間近になると、日本軍もイギリス・オランダの捕虜も、
インドネシア人の労務者も、飢餓状態で悲惨なものだった。
ジャワの労務者の生き残りは、そのまま日本の敗戦後もビルマから
帰れず、苦しい生活をしていたそうだ。
インドネシアの残留日本兵も、戦後帰るチャンスがあったものの、その
ままインドネシアに残った人は、貧しい生活を続ける者が多かった
そうだ。
オランダや英国は、日本が敗戦したあと、インドネシアやマレーシアで
3年もかけて現地人を、あらゆる非人道的手段で、女・子供も容赦なく
捕らえて拷問にかけたり虐殺したりした。――――今の日本人が
抱いている、アジアにおける日本軍のイメージは戦勝国が押しつけた
もので、当時アジアで行われていた各植民地宗主国の悪行は、歴史
から巧妙に隠されている。
日本の敗戦後、インドネシアで連合軍は、国際法に反して元日本兵
のみならず日本の民間人にも強制労働を課した。
インパール作戦で日本軍と共にイギリス軍と戦ったインド国民軍の
兵士達が、戦後、イギリスに対する反逆の懲罰としてインドネシアに
送られ日本人強制労働の監視をさせられたが、インド人は日本人捕虜
に対し、共にインド独立のため戦った戦友として扱い親切に接した。
そればかりか、インド兵も次々と脱走してインドネシア独立運動に
加わったため、イギリスはインド兵をインドへ戻さざるを得なかった。
天皇の「終戦の御詔勅」の中に、『東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ
遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ズ』という言葉があるが、インドネシアの独立を
信じて現地民衆を激励してきた日本兵としては、最後までインドネシア
を助け独立を見届けるのが正しいとして、異国の地で命を落とした人が
少なからずいたのも事実だ。
欧米の宗主国からみれば、日本が彼らの植民地であるアジアを侵略
したということになろうが、それだけなら、なぜ、インドネシア人は
日本軍に協力したり戦後も日本に好意的だったのだろうか。
華僑系インドネシア人は、日本軍を悪く伝えるマンガ本を発行したり
しているし、今でも日本のイメージを損なう工作を進めているようだが、
華僑は欧米宗主国の手先となって植民地経済を牛耳り、隷属化を
手助けしていたのだ。
マレーでも日本軍に敵対的で、しばしば華僑グループが日本軍を
襲ってきたという。親日の華僑もいたが、日本が敗戦した後は彼らの
運命は悲惨なものだったようだ。
日本は3年半の間、無謀で無計画で悲惨な大東亜戦争を戦い、アジア
を侵略した悪い国だ、と反日日本人や反日外国人はいっているが、
その前に欧米列強が数百年間アジアを侵略支配していたことはなぜ
一言半句も触れないのだろう。
欧米列強はアジアやアフリカを植民地として永遠に支配しようとしていた
のだし、戦後になってさえ、長い間アジア・アフリカの各地では独立を
勝ちとろうと苦労していたのだ。
そんな当時の世界で、たった一国、日本だけが欧米列強に戦いを挑んだ
のだということも、たまには考えてほしいものだ。
日本はアメリカとの戦争には敗れたが、アジアやアフリカの国々が次々
と独立する引鉄の役を果たしたこと、そしてインドネシアの危機やタイの
通貨危機の際には援助する役も果たしてきた。
――――そうした事実を忘れずにいてほしいが、軍事的に弱いアジア
の国々が、年々軍拡を進める強いチャイナに逆らえず、経済援助や恫
喝に従うだけになっている現実も注視してほしい。
日本は、アジアではチャイナの軍事力にただ一国、アメリカの助けを借り
ればなんとか対抗できる国だ。軍事力なしで、アジアの平和や世界の
平和に口をはさむ事はできない。軍事力なしでは、やられたらやりかえ
すことも、侵略者を追い返すこともできないではないか。
アジアの国々には、日本は憲法九条というベビーベッドで寝ている
赤ん坊のような、無責任で頼りにならない国に見えているのではないか。
もう少し、自衛のためだけではなく、アジア全体のためにも、日本は
責任ある立場をとれるように強くなるべきなのではないか。
このままではアジアのリーダー的立場は、自然にチャイナがものにする
だろうし、アメリカが干渉してくれなければ、日本だって仕方なく
チャイナに合わせるような時代が来かかっているのだ。
日本は、世界で一番強くて一番道徳的な国と同盟していれば安泰
だが、チャイナの自国民に対する態度からみて、人権無視の共産国チ
ャイナが、今後、道徳的になる可能性はあまり期待できない。
日本は、自衛のためにもチャイナに負けない軍事力を持ち、道徳的に
もチャイナをリードするべき立場にいるはずだが、日本は何のアドバ
イスも警告もせず逆に内政干渉をされる始末だ。
援助金にも、見返りも感謝の言葉も一切ないどころか、20年間
チャイナは自国民に反日教育を施してきた。
しかも、これからの日本は、チャイナの公害や棄民政策の尻ぬぐい
までさせられそうだ。――――昔の日本が悪かったといわれて反省
ばかりして縮こまっていないで、もう少し積極的にアジアのリーダー
シップをとるべき時期に来たのではないか。何もしないでいることが、
平和を創り出すのではないだろう。
日本には、チャイナにも強く意見が言えるようになってもらいたい。
侮られていては、意見を言っても相手は検討もしてくれないだろうーー。
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―― 参考1: http://sarah.iza.ne.jp/blog/entry/194012/
日本の敗戦後、インドネシアに残って対オランダ独立戦争を戦った
元残留日本兵の藤山秀雄さんが、11日、ジャカルタ市内の病院で
85歳で亡くなった。
元兵士の互助会「福祉友の会」によると、同国で生存する残留日本兵
はこれで6人になった。
戦後、インドネシアの独立闘争に共感して義勇軍に加わった
元日本兵は、約1000人いたとされるが、多くがゲリラ戦で死亡した。
佐賀県出身の藤山さんは、独立戦争後、インドネシア人女性と結婚。
整備兵だった知識を生かして自動車整備で生計をたてた。
葬儀は13日午前、カリバタ国立英雄墓地で執り行われる。
―― 参考2:「アジアに生きる大東亜戦争」昭和63年10月初版
ASEANセンタ-編 展転社刊
――参考3:中共スパイ活動:経済改革後、海外に設立した会社で情報
活動=政治評論家【大紀元日本07月25日】
中国共産党(中共)指揮の下、海外でスパイ活動を行っている組織が
国際社会の広範囲において注目されている。
政治評論家・林保華氏はこのほど「希望の声」ラジオ放送取材で、
中共の外交・情報・統一戦線のスパイ活動は三位一体で、中国領事
館は海外華人を使ったスパイ活動以外に、80年代に始まった
経済改革後、海外に会社を設立し領事館指揮の下、華僑や外国人に
対し統一戦線や情報収集を行ったことを明らかにした。
林氏は中共駐在外使館が海外の中国人を使ってスパイ活動している
ことについて語った。
彼がインドネシアの華僑中学校に通っていた時、学校の教師はすで
に地下の党員として吸収されていたという。
とされていたが、私はのちに、彼らは皆党組織として生活をし、
中共の指令を受けインドネシアにおいてどのように統一戦線を展開
するかを指導しており、そこには国家転覆も含まれていたということに
気づいた。
彼はさらに、「私の情報と外交人生」という本の著者・熊向暉は、
統一戦線部次長と国安部次長を歴任、さらに経済改革後は中国
国際信託公司副理事長に就任。
海外における中国会社組織においてスパイ活動に従事し続けていた
と話している。
事実上はスパイ活動をしており、それは彼らの重要な任務の一つ
であった。
このように、私たちの知っている中国外交事務機構は、実際には
中国領事館指導のもと統一され、華僑、さらには米国人に対する
情報収集が行われていた。
米連邦調査局(FBI)は最近、サンフランシスコの多くの華人向け
新聞雑誌に華人社会に入り込んでいるスパイを見つけ出す人員募集
広告を載せたことで、国際上の広い範囲で注目を集めた。
分析家によれば、中共は国家安全部などの専業情報機構以外にも、
すべての外交関連部に情報任務が課せられているという。
中共統一戦線部、宣伝部、外交関連部およびそれらに属する部門
――新華社、民衆日報社、全国僑連と外交友協などもそれにあたる。
―― 参考4:(ジャカルタ共同)
対インドネシア円借款、累積額は4兆円を超え供与対象国中で最大。
スハルト長期政権下で、1970年代に始まった水力発電、アルミ精錬
などの大型開発やインフラ整備を支えてきた。97年のアジア通貨危機
と、98年の同政権崩壊による混乱期に減少したが年間1千億円規模
の供与が続いている。
インドネシア政府は、今年1月、日本が主導的な役割を果たしてきた
インドネシア支援国会合の解散を突然決定。
支援調整の枠組みがその後決まっておらず対インドネシア支援は
転機にある。
で合意 【ジャカルタ=代慶達也】
インドネシアのユドヨノ大統領は5日、ジャカルタを訪問中の中国の
楊外相と会談した。
両者は電力などエネルギー開発の分野で関係を強化するほか、中国
がインドネシアに技術支援することで合意した。北朝鮮訪問を検討して
いるユドヨノ大統領は、楊外相と6カ国協議の開催時期についても意見
交換したとみられる。
楊氏は外相就任後、東南アジア地域では初めてインドネシアを
訪問した。同外相は「インドネシアは域内の大国であり、国連安全
保障理事会非常任理事国として重要な役割を担っている」と強調した。
―― 参考5:(7/5)中国外相とインドネシア大統領、エネルギー分野