インドネシアと、戦争と、デビ婦人の話。
デビ婦人はインドネシアのスカルノ大統領の奥さんだった。
インドネシア人はイスラム教徒だから、奥さんは4人まで持てるので、
デビ夫人も一人目ではない。スカルノが日本に来たときに、日本政府に
招待された場所にデビ婦人がいたのだ。スカルノは一目ぼれして
「あなたは、わたしの宝」など、ロマンチックな言葉を一生懸命語って
デビ婦人をインドネシアに連れて帰ることができた。
その当時、スカルノは貧乏だったので、デビ夫人が冷蔵庫などを
売って渡航費用にあてたそうだ。結婚してからも、そんなに急に
金持ちになったわけではないらしい。
スカルノは、若い時にポルトガルからの独立のために働いていたグループに
紛れ込んで活動していた共産党員に影響されていて、共産党に入っていた
ことがある。でも、共産党がクーデターを起す前にその党を出て、自分で
別の党を作って党首になっていた。だから、生き延びた。
日本が戦争に負けたあと、日本に奪われていたかつての植民地を
取り戻そうとオランダが乗り込んできたとき、
日本軍が3年半の統治の際に訓練したインドネシア軍、PETAと
日本軍を脱走してインドネシア軍に入った元日本兵たちが、
必死にイギリス軍やオランダ軍と戦っている時、
共産党は戦わずに、連絡係などの裏方に廻って体力を温存した。
シナの共産党と同じだ。
シナの国民党が日本軍と戦っている時、共産党は奥地に逃げ込んで体力を
温存していた。
インドネシアのPETAの勇士たちは、大勢死んだが、共産党は残った。
だから、ソ連やチャイナが、二度も、インドネシアの乗っ取りを図って
インドネシアの共産党を裏から指導してインドネシアでクーデターを起した。
PETAは、共産党が大嫌いな日本軍が教育したインドネシアの独立軍だから
彼らも共産党が大嫌いだった。
PETAの勇士たちは、その二度のクーデターを抑えて、共産党に味方した
スカルノを追い出した。その時の大将がスハルトだった。
だから、スカルノもデビ婦人もインドネシアを追われてフランスに住んでいた
わけだ。
スカルノは、戦後、日本がインドネシアに送った賠償金の大部分を
自分の贅沢のために使った。デビ婦人も豪華な装飾品を多数持っていた
そうだが、スカルノに買ってもらったということは、日本の賠償金がデビ婦人の
贅沢品に化けたということかも。
日本がインドネシアの留学生を日本に招待した時も、2,300人ぐらいしか
送らなかった。スハルトも大統領になってから、日本政府からの援助金を
使い込んでいたというウワサがある。自分の貯金は貯めずに、割と質素に
していたかもしれないが、家族や親戚に大きな権限を与えて、彼らが大会社を
持つよう、なにかと援助した。それで、インドネシア人に嫌われた。
その後、スハルト退陣を求めて起きた学生運動は、実は学生の先頭に立って
暴れた連中は捕まえてみると、身分証明書を持っていない怪しい人々で
マレーシアからきたテロリストだったらしい。イスラムの過激派だったのかも
しれない。インドネシア人に聞いた話なので、ただのウワサかもしれない。
その当時は、アルカイダがマレーシアやフィリピンに多数入り込んでいて、
彼らがインドネシアを転覆してイスラム教が政治を支配するイランのような
国にしようとしていた時期だったので、多分、本当だろう。
それで、暴動の最中に、インドネシア人は日ごろから嫌いな華僑を襲って
店を壊して物を奪ったり、華僑の女性をレイプしたり好き放題したそうだ。
華僑はあわててマレーシアや香港などに逃げ出した。
今では、またインドネシアに帰ってきている架橋もいるらしい。
華僑はチャイナが後押しした共産化運動に随分協力したから、その時も
かなりの華僑がインドネシアから追い出されている。
それでも、華僑はインドネシアに戻ってくる。かなりインドネシアが気に入って
いるようだ。何かあっても、戻るんだから。しかし、華僑はいつ何があるか
分からないので、インドネシアで儲けた金をスイスなどの外国に貯めている。
そして、子供には、外国に留学に行かせて、そのまま外国に住まわせている。
インドネシアの経済は華僑が牛耳っている場合が多く、日本企業は常に
華僑と仕事を組みたがる。なぜかといえば、インドネシア人はのんびりしていて
しかも、ずうずうしいことも言うし、仕事を一緒にするのは難しいのだ。
インドネシア人には、悪いが、インドネシア人同士で仕事をしても、仕事が
なかなか進まないのだ。日本人の中には、インドネシアで仕事をすると
最後にはノイローゼになる人もいる。インドネシアで、うまくやれる日本人は
いい加減でおおらかで、のんびりした人だと思う。
スハルトは、退陣して、何度か大統領の交代があって、
今はユドヨノという人が大統領になっている。
この人が結構、チャイナが大好きで、日本よりもチャイナに傾いている。
聞いた話では先祖はチュウゴク人だとか。(本当かウソかは分かりません。)
インドネシアには、チュウゴク系と言われる人がたくさん住んでいる地域が
ある、顔も別にチュウゴク人には見えない。肌の色はなんとなく、薄いかも
しれないが、ほとんど現地のインドネシア人と同じだ。ただ、ちょっと
丸顔でひらべったい顔で、日本人の中にいても、違和感がない顔かもしれ
ない。ジャワ島の西の山の中に住む人など、まるで日本人のような顔の
インドネシア人もいる。日本に来ても日本人に紛れ込めるぐらいの
日本人っぽい顔だ。
チュウゴク系のインドネシア人も、インドネシア語と島の言葉しか話せないし、
宗教はイスラム教なのだ。でも本人たちは「チュウゴク系」だと言って誇りに
しているようだ。マレーシアも、フィリピンもトップはチュウゴク系だ。
華僑はたいてい固まって暮らしているが、インドネシアに同化したインドネシア
人は、戦前からインドネシアにいる人たちで、ジャワのチレボンなどは、
バティック(ジャワ更紗)で有名だか、柄がなんとなくチュウゴク的なのだ。
すっかり、インドネシアに溶け込んでいるチュウゴク系のインドネシア人は
別に他のインドネシア人に嫌われているようには見えない。むしろ、肌の
色がちょっぴり薄くてきれいだと思われているようだ。
東ジャワのマランの近くの村におじいさんが日本兵だった家族がいる。
おじいさんはもう亡くなっているが、孫が日本に興味を持って日本に留学した。
そんなに金持ちの家族では無いが、2世であるお父さんは日本語が少し
話せるそうだ。
インドネシアには、日本軍を脱走してインドネシア独立軍に入ったので、
日本の家族が脱走兵の家族と言われるのが嫌で、帰国しなかったり、
最初からイスラム名で通して日本人だということを秘密にしていたからという
理由で日本に帰るチャンスをのがし、そのままインドネシアで結婚したり、
貧乏を恥じて日本人だと名乗り出なかったりした人もいるのだそうだ。
戦後、日本政府がそんな諸事情で日本に帰れなかった日本人を日本に
帰れるようにしたので、帰るチャンスはあったのだが、それでも
約100人はインドネシアに残った。みんなインドネシア人と同じように
貧しかったそうだ。その後、残った日本人が年寄りになって、日本政府に
「一時帰国費用をだしてほしい。」と訴えたりしていたが、帰るチャンスがあった
のに帰らなかったのだから、日本政府には責任は無いと思う。
インドネシアの独立を助け、インドネシアで結婚をしてそこで生きる決心をした
のなら、たとえ貧しくても、一生日本に帰れなくても、それなりに幸せだった
のだと思いたい。インドネシア人が日本に好意的なのは、インドネシアの
独立にいのちを捨てた日本人がいたからだと思う。
「戦友がみんな死んだのにわたしだけ、生き残っているのが申し訳ない。」
などと日本のテレビのインタビューに答えている様子を見たが、
戦争で生き残った日本人は、みんなそういう気持ちでいるんだろうな。
サハリンで戦って生き残った日本人のおじいちゃんも、戦友たちの墓に手を
合わせて泣いていた。何年たっても、おじいちゃんになっても、やっぱり
当時のことを思い出したら悲しいんだ。
そのおじいちゃんも「わたしだけ生き残って申し訳ない。」と言っていた。
でも、戦争で生き残ったみんなが頑張って働いて、子供を産んで育ててきたか
ら今の日本があるんだよね。
会社の近くのお好み焼きのおばちゃんも、戦争の時に子供だった人で、
戦後の食料が何も無いときに、母親が着物をもって電車に乗って田舎に行き、
農家の人に着物と交換して、芋や米を手に入れて家に持って帰ってくれたのだ
そうだ。なけなしのよそ行きの着物を売って、食べ盛りの子供たちに食べる
物を与えようと、頑張って汽車の切符を買って出かけているのに、途中で
闇米の取締りがあり、せっかく買ってきた食料を全部奪われるそうだ。
国民に食べるものが無いから、母親が必死で農家に闇米や野菜を仕入れに
行っているのに、国鉄の役員は情け容赦もなく、母親たちの努力の成果を
奪っていくのだそうだ。
奪われた時は、母親は悲しくて泣いていたそうだ。
戦争の時に、育ち盛りだった子供たちは栄養失調で、大人になっても内臓が
弱くておばちゃんよりも、年上の人たちは、内臓の病気で亡くなることが
多かったそうだ。
デビ婦人も、子供のときに、親に連れられて買出しに行ったそうだ。
母親は細長いもめんの袋をつくり、その中に農家で買った米を入れて
平べったくし、体に巻きつけて帰ったそうだ。
帰りの電車の中では、「一斉だ~!!」と言う声がしたら、おばちゃんたちが
泣きながら電車の窓から田舎で買ってきた食料を投げ捨てるのだそうだ。
闇米を買ったことがばれると拘留されるので、みんな泣く泣く捨てていたそうだ。
デビ婦人は幼かったので、何が起こっているのか分からず、そんなおばちゃん
たちの姿をただ見ていたそうだ。
没収された食料は、多分、国鉄の職員のものになったのだと、
お好み焼きのおばちゃんは言っていた。
友達のお母さんのお父さんは国鉄に勤めていたので、戦争中も戦後もまったく
食料に困ったことは無いと言っていた。
お好み焼きのおばちゃんのお姉さんは疎開で田舎に預けられたが食べ物は
一日、イモのはし切れが一個しかでないのに、昼間は畑仕事をやらされ、
骸骨のようにガリガリに痩せて家に帰ってきたそうだ。
母親が引き取りに行かなかったら、そのまま死んでいたかもしれないそうだ。
お姉さんはずっと内臓が弱くて早くに死んでしまったが、おばちゃんは、
無事に子供を2人育てあげ、孫もいる。
おばちゃんの時代は修学旅行には、自分で生地を買ってきて
着ていく服を縫ったそうだ。遠足のおやつは、お菓子なんか買えないから
さつま芋のふかしたものを持って行ったそうだ。
男の人が戦争をするのは、勝手にやってくれていいけど、女性や子供が
食べ物が無くて大変なんだから、ちゃんと考えてくれないと困ると
おばちゃんは言っていた。
たしかに、日本の子供の食べ物が無くなるくらい、負けている戦争を無理に
続けたのはいけないと思う。戦争の時は、みんな被害者だったのだと思う。
日本はボロボロになったが、インドネシアは、独立できた。他のアジアの国も
次々と独立していった。欧米列強がアジアを植民地にするのが当たり前の
時代に、日本が意地を通したことは、日本人の性格としては避けられないこと
だったのかもしれない。日本が余力を残して停戦していたら、アジアは
どうなっていただろう。