戦争学 松村劭著(1)  | 日本のお姉さん

戦争学 松村劭著(1) 

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▼【書評】戦争学 松村劭著(1) (連山)
『連山』は日本の教育という戦場は崩壊したと考えている。優しい先生より強い英雄が必要だ。 2007年9月より松村劭氏が「名将たちの教育論」というタイトルでコラムを連載 1. 序章 スポーツを始めとする全ての戦いは勝たなければいけない。あらゆる戦いの中でも、その善悪に関わらず民族の興亡を決定する「戦争」は勝つもののみが全てを手に入れ、負けたものは全てを失う" All or Nothing"の世界である。
スポーツを始めとする全ての戦いは勝たなければいけない。あらゆる戦いの中でも、その善悪に関わらず民族の興亡を決定する「戦争」は勝つもののみが全てを手に入れ、負けたものは全てを失う" All or Nothing"の世界である。戦場における勝利の術は戦術と呼ばれる。戦後、日本国がその戦争研究に最も欠けていた戦術の歴史を 戦争学 松村劭著を読んで考えてみよう。

2.戦闘教義

『得意技なくして戦術なし。戦術できずして戦略は成り立たない』というのは筆者がかねてから主張しているもので、あらゆるスポーツを楽しむ人々からは容易に理解すると賛同をいただいているところである。

[アレクサンダー大王の戦闘教義(前編)]

全体の戦略から、戦術を組み立てるという演繹的方法により勝利を導くことを主張する論者もたくさんいるが、20年に渡り、4つのチームスポーツに親しんできた自分の経験からも、得意技(=戦闘教義(バトル・ドクトリン))を確立したのち、それを戦術レベルに組み立て、全体の戦略を計画する帰納法的方法が正しいように思う。なぜなら優れた戦闘教義がなければ戦術も戦略も”画塀の餅”以外の何者でもないからだ。松村氏は戦場において勝利する要素として次の4点を指摘している。
(1) 優れた戦闘教義
(2) 良質な軍事力と量
(3) 巧妙な戦略と戦術
(4) 強力な指揮官の統率力

(1)優れた戦闘教義が勝利する要素の第一番目に挙げられるのは、戦術の基礎であるばかりではなく、兵器の性能に対する要求、編成・装備の根拠となるからだと氏は指摘している。まずは戦闘教義ありきなのである。

優れた戦闘教義として、第二次世界大戦に、ドイツのグデーリアン将軍が開発した戦闘教義「電撃戦」が記憶に新しい。この戦闘教義をもとに当時の新技術を取り入れて軍編成したドイツ陸軍がポーランド、フランス、ユーゴスラビア、独ソ戦緒戦期にまでドイツに大勝利をもたらしたのである。

3. サマルカンドの戦い
1220年3月17日、モンゴル帝国の太祖チンギスハンはホラズムの太守モハメッド・シャーを打倒し、シルクロードの要所サマルカンドを陥れている。その戦史を振り返り、チンギスハンの戦闘教義を考えてみよう。
チンギスハンはサマルカンドに対する進撃に対し、5経路を使用して接近した。これだけ広大な地域で外線作戦をとったのである。相互の連絡と共同が作戦の鍵となる。


「外線作戦;全体として敵の外側から接近し、敵を周りから包囲するように求心的に機動した後、最終的に各部隊が一致協力して一つの戦場に集中的に攻撃する作戦(p85)」

[戦争学 松村劭著]

これに対し、ホラズムの太守モハメッド・シャーが取った作戦が内線作戦である。両者の時間計算が戦いの勝敗を決定する。

「内線作戦;2方向以上から外線作戦を行う敵に対して、戦力が合一しないようにそれぞれの方向から接近してくる敵を、一部によって拘束しておき、主力をもって敵を一部隊ごとに撃破する戦略的な作戦(p83)」

1)第一経路、第二経路
兵力5万をもつチャガタイ軍とオゴタイ軍はおおむね平行に走る道路を前進して、シル・ダリア河畔のオトラルを包囲
 
(2)第三経路
兵力5万のチンギス・ハン直轄軍はシル・ダリア河がアラル海に注ぐ河口近くに沿って進撃
(3)第四経路
兵力5万のジェチ軍はフェルガナ河谷を前進してサマルカンド東方のホジェンドを包囲

(4)第五経路
兵力2万のチェベ軍はパミール高原を超えて南下しサマルカンドの南方より進撃

チンギスハンの総兵力22万~24万に対し、サマルカンドに総兵力50万を集中していたモハメッドシャーはサマルカンドの北方、東方、南方よりチンギスハン軍が進撃しているとの報告を受け、オトラル、ホジェンドに増援を送り持久させ、最初に最も危険はチェベ軍を撃破するために南方に10万の軍隊を派遣した。サマルカンドの西方には要塞都市ブハラがあり、さらにその西には広大に広がるキジルクム砂漠が存在するために西方に関して全く無警戒だったのが命取りとなる。

チンギスハンの直轄軍がシル・ダリア河口近くから南下してブハラに向かって西方の砂漠から接近していたのである。この西方からの進撃軍は恐怖とともに過大に報告され、モハメッドシャーは彼の全戦力50万を包囲する大兵力が進行してきたと判断しわずかの近衛部隊を率いて家族とともに逃亡した。

チンギスハンがブハラに向かって進撃している間に、ジュチがホジェンドを、チャガタイとオゴタイがオトラルを占領した。チェベはモハメッドシャーが派遣した約10万のトルコ軍を撃破し、さらにサマルカンドに向かって北進した。チンギスハンはブハラを降伏させた後、休む間もなく進撃し、サマルカンドの郊外において、10万の残敵を撃滅している。

それではチンギスハンの戦闘教義(バトルドクトリン)とは一体何であったのだろうか。それは広大な地域での外線作戦を可能とする機動力であったと考えられる。


「機動力とは単に速度だけはなく、森林、山野、砂漠、河川、湿地等各種の多様な地形踏破力と、休息することなく機動を続けられる距離や、草原、砂漠などにおける方向維持力を含んでいる(p91)」

[戦争学 松村劭著]
本コラムの筆者である、私、峯山は幸か不幸か現在、湾岸諸国の内陸部にある都市で生活している。家の北東方面にかけて見渡す限り砂漠が広がっている。夏場の昼間に外にでかけ砂漠の上を歩いてみようものなら、強烈な日差しのために5分程で目眩に襲われて倒れそうになる。
これだけ過酷な自然環境である砂漠の上を5万に及ぶ大軍が行軍したとはとても想像することができない。チンギスハンが軍の練習に使用したゴビ砂漠は夏冬に関わらず過酷な自然環境であったそうだ。


「他の砂漠と比べ非常に高緯度(北緯43度付近、日本の札幌市に相当)であるにもかかわらず、夏である5月~9月までの間の最高気温は45度を超えることもある。しかし冬である12月~3月の間は、砂漠の年中灼熱といったイメージとはかけ離れ、寒風吹きすさむ厳冬の地である。特に1月末から2月にかけて最低気温がマイナス40度を割り込むことも少なくない。」

[ゴビ砂漠]

モンゴル軍は戦闘教義を最大限に生かす形で軍隊を編制し、指揮官を選定し、個々の兵士においては戦場として予想される草原よりも条件の厳しいゴビの砂漠において訓練を受けている。また外線作戦とは時間計算を間違えば常に個別撃破されてしまうという大きなリスクを背負っている。そのために各軍隊は相互に連絡員を派遣して、密接な協同作戦を図っている。この内容の詳細においては本サイトに掲載されている松村劭氏のコラムに詳しいので併せてご確認いただきたいと思う。