槙枝日教組元委員長「教育荒廃の責任の半分は日教組」 | 日本のお姉さん

槙枝日教組元委員長「教育荒廃の責任の半分は日教組」

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▼国を憂い、われとわが身を甘やかすの記さん日教組を語る
参院選の選挙期間に入ったので、このブログでも選挙がらみのことは書けません。どの程度のことを書けば公職選挙法に引っかかるのかよく分からないので、とりあえず、本日は別のことを書こうと思います。さっき、会社のロッカーをごそごそしていたら、12年前のノートが出てきたので、そこにあった日教組元委員長、槙枝元文氏に対するインタビューについてです。

この人は、日教組の委員長を12年間も務めたその世界では有名人ですが、現在の知名度はどうなのでしょうか。いろいろなエピソードがありますが、とにかく北朝鮮のことが大好きだったようで、1974年の著書「チュチェの目、朝鮮を訪ねて」の中で、次のように書いています。
 《この国には泥棒がいない。泥棒とは、富の片寄ったところに発生する。この国には、泥棒の必要がないのである。泥棒も殺人犯もいないから、警察官もいない》
 ある時期、北朝鮮をユートピアであるかのように礼賛した人々がいたようですが、その典型的な1人だったのかもしれません。1991年には、北朝鮮から「親善勲章第1級」も授与されています。まあ、日教組の関係団体には、日本教職員チュチェ思想研究会連絡協議会などというところもありますしね。槙枝氏は、わずか5年前の2002年2月には、「金正日総書記誕生60周年祝賀」に寄せて、こんな文章も書いています。
 《わたしは訪朝して以降、『世界のなかで尊敬する人は誰ですか』と聞かれると、真っ先に金日成主席の名前をあげることにしています。(中略)主席に直接お会いし、朝鮮人民が心から敬愛し、父とあおぐにふさわしい人であることを確信したからでした》(「キムイルソン主義研究」第100号)
 拉致事件のことなどは、まったく頭になかったのでしょうね。なんだかなあ、という感じです。…話がずれましたが、私が槙枝氏にインタビューしたのは1995年8月11日のことでした。当時、村山政権下で日教組と文部省が歩み寄り、日教組執行部が「日の丸・君が代強制反対の棚上げ」「学習指導要領の是認」などの運動方針を打ち出していたので、果たして日教組は変わるのかについて見解を聞いたのです。結果は、まあ国会開会中の国会前に座り込んでいる教育労働者の姿を見れば分かることですが。

 《私 運動方針をどう見るか


 槙枝氏 僕も運動方針をもらってみたが、そんなに方向転換とか、180度変わるとか、文部省の軍門に下ったとかいうと、必ずしもそうではないと思う。曲解、扇情的な報道がされている。事実上、あの中身ではそんなに日教組大会でもめたり、混乱したりとかはなく、一部を除き決まると思う。

私 というのは?


槙枝氏 というのは、文部省との話し合い、和解は日教組の180度の転換というけど、私も書記長を9年、委員長を12年やったけど、常に話し合い路線を追求してきた。労使で立場の違いはあるが、教育というのは、話し合いもせんというのはいかん。教育の大元締めと現場が、互いに話し合いをして、こういうやり方でいいか、なぜ方針が出てきたのかと理解していくように譲り合ってやっていかないと、現場が混乱する。教育効果が上がらず、子供が犠牲者になると私は言い続けてきた。


私 しかし、これまでそうした話し合いはできなかった


 槙枝氏 できなかったのは、自民党と日教組が敵みたいな関係になったからだ。それで文部省も日教組の組織を弱めるために全力をつくした。そういう政策を持っていた。昭和27年、天野貞祐文相時代までは、ずっと話し合いでやってきた。当時は文部省も平和・民主教育を徹底していた。戦後は、教育も含めた4権分立から始まった。

 (中略)

槙枝氏 今回、日の丸、君が代について戦術転換したのは、文部省のいいなりになるのではない。状況の中では妥当だと思うんだ。マスコミは日の丸・君が代と並べて書くが、そうではない。昭和26年、天野文相のときに初の論争があった。天野が談話で、サンフランシスコ講和条約直後に、「独立国家になるのだから、日の丸・君が代もいいじゃないか」と。日本の転換期だった。それまでは日の丸・君が代は軍国主義のシンボルであり、国民全体のイメージも悪かったのは事実だ。

私 当時、槙枝氏はどういう立場だったのか

 槙枝氏 私は日教組の法制部長だった。それで天野に「取り消せ」と交渉を申し入れたら、向こうは「議論しよう」と。率直に言って、日の丸については日教組も納得した。君が代については天野が一歩引いた。天野は日の丸について「学校には校旗があり、会社にも社旗がある。国にも印があってしかるべきだ。万国共通している。日の丸を反省を込めて使うべきだ」と言った。この印は今変えなきゃいかん理由はない。ただ、君が代については、「何と言っても君主国家の歌だ」と主張した。天野さんも「それは間違いないが、長く歌ってきたんだから、君=国民と読み替えてはどうか」と言った。結論的に、君が代では向こうが折れた。その後、私も国際会議では私の席の前に日の丸を立てたものだ。君が代、日の丸は国民全体の問題で、政治で解決することだ。現場で争っても解決しない。だから、棚上げした件はいいと思う。

 私 君が代はどうしてもダメなのか

 槙枝氏 昭和26年に、家で息子と話したことがある。日の丸を国旗としてどう思うかと聞いたら、「デザインとしてはすっきりしている」という。僕自身も、格好悪い印ではないと思う。君が代についても聞いた。すると息子は「眠くなるような歌。どういう意味?」と。日の丸・君が代についての反発は、例えば沖縄のように戦場になったところは、虐げられた県民感情から見れば忌々しい。しかし、その沖縄が昭和47年までは、米軍に対し、「日の丸を立てさせろ」という運動があった。今度の執行部方針に対しては、地域単組には、今まで自分たちが反対運動をやってきたのは何だ、という思いがあろうが。

 私 運動方針転換の背景は何だと思うか

 槙枝氏 こうなってきたのはなぜか。日教組うんぬんじゃなくて、もっと大きな背景がある。世界情勢の変化、米ソの話し合い路線、自民党の一党独裁とそれにつく官僚の終焉。それから細川首相の誕生と、自社さ連立。自民党も傲慢・独断は通らず、社会党にしてもチェック機能だけじゃだめになった。文部官僚も変わってきた。

 (中略)

 私 戦後教育が荒廃した責任は日教組にあると思うか

 槙枝氏 教育を荒廃させ、ダメにした点だが、日教組と文部省の両方に責任がある。私が委員長をやっている時代、日教組の出した方針に文部省は譲らなかった。だが、今やっている学校5日制は、1972年の日教組大会で私が提起したものだ。当時は、文部省は学力低下になると見向きもしなかった。

 私 現在の横山日教組委員長は、自民党の部会で、「教育を荒廃させた責任の半分は日教組にある」と認め、議員たちを驚かせたというが

 槙枝氏 横山の荒廃発言には抵抗を感じない。責任は、半分は日教組に、半分は文部省にある。昔と今は情勢が違う。今はそう言うしかなくなった。その点では、連立政権は教育にとって非常に良い。一党の政策が押し付けられない。(後略)》

 あまりタイムリーなエントリーではなかったかもしれませんが、これまでも何度も日教組について書いてきたいきがかりもあり、本日はミスター日教組とでもいうべき槙枝氏に登場してもらいました。この組織も、中央の執行部が現実路線を取ろうとしても、北海道教職員組合や大分県教職員組合など各都道府県の単組は全然言うことをきかないようです。あと、きょう指摘しておきたかったのは、日教組元委員長も戦後教育の荒廃の原因の半分は日教組にあるとあっさり認めていることです
 まだ書きたいことはあるのですが、取材時間が迫ってきたのでここまでにします