死刑になった鄭食品製薬安全局長は「改革」の旗振りでもあった
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成19年(2007年) 7月14日(土曜日)
通巻第1863号 (7月13日発行)
死刑になった鄭食品製薬安全局長は「改革」の旗振りでもあった
中国で賄賂は文化である。エリートはこうして転落した
7月10日に死刑に処せられた鄭某は福建省福州出身で
復旦大学卒業のエリートだった。
上海の同大学は北京大学、清華大学と並ぶ名門。
国営製薬企業を経て94年に党組織の書記。
98年から国家薬品管理局長に就任していた。
賄賂の噂は、その一年以上前からあった。
実は昨年12月に鄭を呼んでの「査問委員会」が北京で開かれており、
温家宝首相も出席していた、とNYタイムズが伝えている(13日付け)。
4月に逮捕され、監獄の中で鄭は「告白書」をしたためていた。
「わが決定的ミスは新薬認可だった」と。年間15萬件の新薬申請が
あり、140件が許可される。
しかし、一方で鄭は安全管理の在り方を改革する必要性を説き、
「とくに共産党と切り離して独自の検査期間が必要だ」と正論を吐いても
いたのだ。
鄭管理局長は中国の製薬会社提出の出鱈目な輸出申請書類や
承認申請でろくな検査もしないで迅速に新薬を承認した容疑に問われた。
このうちの六種類は偽薬だった。
「医薬品の監督官庁トップが国民の生命と健康に危害を与えた」ことが
死刑判決の理由とされた。
立場を利用して新薬認可に賄賂を要求し、息子と妻が代理業務を展開、
懸命に蓄財に励んでいた経過も裁判の過程で暴露された。
妻と息子が上海に設立したコンサツティング企業は「二重のはと」という奇妙
な名前の会社で、このトンネル企業から香港へ12萬ドルが持ち出されていた。
賄賂は合計85萬ドルと伝えられたが、中身は高級車の贈呈から豪華家具、
株券、そして別荘にキャッシュ。
「本当は85萬ドル以上だが、8社からの賄賂の証拠だけ揃えて、
あとの捜査はしていないし、する必要もなかった」(NYタイムズ)。
表面にでた賄賂は「氷山の一角」なのである。
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(読者の声1) いつぞや貴誌で取り上げられていた、田中英道著『支倉常長』(ミネルヴァ書房)を、手に取りました。
読み進めながら感じたのは、戦国時代を戦い抜き、勝ち残った秀吉、家康、伊達政宗らの鋭敏な政治外交感覚です。
(引用開始)
「・・・秀吉の明侵攻の試みは、むろんスペインのシナ征服の尖兵隊となったのではなく、逆にスペインのシナ征服の先手を取ったもの、ということなのだ。スペインのシナ征服が成功すれば、日本が次に攻め入る対象になることは必至だからである。
秀吉はイエズス会の明征服計画を、明らかに探知していた。シナ大陸が白人の支配下に落ちれば、日本自体の安全が危険にさらされる。 (中略)スペインが兵力の不足に悩んでいることを知っていた秀吉は、彼らの計画を先取りする方策を考えたのだろう。スペイン・ポルトガルと同盟するかたちで日本が大陸を事実上抑えれば、大陸への進出という信長いらいの宿願を達成できるし、日本の安全も確保される」
(村松剛『醒めた炎』)
「この村松氏の見解に私(田中英道)も同意するものである。 ・・・天正十五年(一五八七)、秀吉はバテレン追放令を出し、みせしめにキリシタン大名高山右近の追放処分を行った。シナ大陸が彼らの餌食になったのなら、その時はスペイン・明の連合軍と対峙しなければならない。このスペインの動向を知っていたから、できるだけ早い行動が望まれたのである。 これは日本単独で行う以外はなかった。
・・・しかし秀吉の後の徳川家康はバテレン追放令を受け継いでいたものの、一方で通商関係ではスペインとの交渉を続けようとした。日本に潜入した聖フランシスコ会の僧侶を処刑せず、マニラからメキシコへのガレオン船の日本寄港の要請を行っていたのもその証拠である。太平洋を越えてメキシコとの通商を期待していたからである。
・・・一六〇〇年代になってすでにスペインが大陸を征服するほどの力は失っており、かれらの侵略を恐れるよりも、その通商関係による利益を考えた方がいいと考えたためと思われる。・・・仙台藩がキリスト教に寛容であったことは、他藩が慶長十八年(一六一三)の段階から弾圧を行っていたのに対し、支倉使節が帰る元和六年(一六二〇)の段階まで、徹底的な弾圧を行わなかったことでもわかる。
・・・(政宗がカトリックに好意的であったことを)徳川が非難しなかったことは、こうした天秤をはかる幕府の判断があったと見るべきだろう。たしかにオランダ、イギリスなどプロテスタントのカトリック批判に徳川幕府は同調していたが、徳川と伊達の見解の分裂というわけでもなく、世界はまだまだカトリックが支配し、また通商や文化交流の相手としても力を有していたことも知っていたからである。 江戸や上方、そしてキリシタンの多い九州の諸大名よりも、北方の仙台藩にそれを許す方が安全とみた判断が隠されていたように見える。
たしかに仙台藩はメキシコとの通商に有利な位置にあった。
石巻港から出発すれば、太平洋の海流にのって、メキシコへは他の港よりも早く到着することができる。 その意味で、使節を送ることは、仙台藩にとっても好ましいことに見えたに違いない。ソテロが、布教に必要な大きな教会堂を建てるために法王の認可が必要であり、使節を派遣すべきだという提案をしたことを政宗が引き受けたのも、深謀遠慮があったと考えられる。(引用止め)
幕末・明治期も、気を弛めれば欧米列強に領土を掠め取られ、限りなく収奪される厳しい鬩ぎあいの時代でした。
政治的には不平等条約を押し付けられ、 経済的には大量の金銀が西欧列強により安値で海外に持ち去られました。(『大君の通貨』)
このふたつの時代の為政者は、ひとつ間違えれば属国や植民地になりかねない、大海に板っこ一枚で放り出されたような状況の中で、国際感覚と外交交渉術と軍事力を研ぎ澄ましていました。
しかし江戸中期以降、大正以降それら鋭敏な鍛えられたものは敢えなく鈍磨・摩滅していきました。
状況が変わると為政者の力量は低下し、士気は弛んでしまうものなのでしょう。
社会が安定すると官僚化が進み、組織は硬直化し、官僚たちによる国家運営は、国益よりも官僚組織の保存と自己増殖が優先されます。
佐藤優氏は日本陸軍は最大の官僚組織だったと喝破しています(『ナショナリズムという迷宮』)。
防衛省はじめ政府与党の力量と今の自衛隊の士気では、とても襲い来る国難に耐えないのは、歴史からすると当然なのでしょう。
さまざまな想いを抱かせてくれた好著です。
(有楽生)
(宮崎正弘のコメント) 念のため、拙論は下記に再掲載されております。
http://miyazaki.xii.jp/column/index2.html
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(読者の声2) 某国立大学院で准教授をしている者です。専門は国際政治、旧ソ連の政治と国際関係(特にコーカサス専門)です。
さて貴誌コメントで、僭越ながら、一つだけ申し上げたいと思い、メールを差し上げております。
「(宮崎正弘のコメント)というわけで、小生はカザフスタンとキルギスへ取材へ向かいます。
モスクワまで一旦、でて、そこから東へ戻る格好の航空路を予定していたら、シンポでもご指摘のようにソウルからカザフスタンへ直航便があります。 韓国の進取ぶりには驚かされます」。
<後略>
とありました。
韓国がカザフスタンやウズベキスタンに拠点を築いている理由は、スターリンの民族強制移住で中央アジアに大勢連れて行かれた朝鮮人の末裔がまだ大勢いるからです。そのため、中央アジアでは朝鮮人のコミュニティも多いですし、レストランなども多いです。
ついでながら・・・「読者」からのご投稿がありましたが、GUAMへの日本の関心は大変高まっており、逆に中央アジアへの関心は下がっています(といいますか、諦めの境地に入ってます)。
去年、外務省の中央ユーラシア研究会に招かれていましたが、中央アジアへの関心は下火で、コーカサスのほうが関心を集めていました。また、GUAMにとどまらず黒海協力機構(BSEC)への関心も高まっていて、今年から外務省で研究会が作られます。
以上、僭越ながら補足的コメントをさせていただきました。 これからもメルマガ楽しみにしております。 中央アジアへのご出張、お気をつけていらしてください。
(YH生、府中)
(宮崎正弘のコメント) 91年にカザフスタンからウズベキスタンへ行きました。ブハラ、タシケントからサマルカンドへ。バザールでキムチを売っておりました。朝鮮族が50萬人前後いると聞きました。
サマルカンドから南下してウズベキスタンの国境を越え、タジキスタンのペンジケントという町でゾロアスター教の拝殿址をみました。あたりはソグト族の末裔もいる、とタジク人が言っておりました(ちょっと信じられない話ですが)。
そのタジク族は、ペルシア系で、イランと同じコトバを喋ります。
多彩な民族が混在するのも、シルクロードの要衝だからでしょうね。ご指摘有り難う御座いました。
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(サイト情報)7月12日にブッシュ大統領は「イラク情勢について」のベンチマーク評価を議会に提出した。
(1)ブッシュ大統領の記者会見
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2007/07/20070712-5.html
(2)ベンチマーク評価報告: Initial Benchmark Assessment Report
http://www.whitehouse.gov/news/releases/2007/07/20070712.html
(3)国務省国際情報プログラム局の解説記事
http://usinfo.state.gov/xarchives/display.html?p=washfile-english&y=2007&m=July&x=20070712154914idybeekcm0.7423059
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(C)有限会社・宮崎正弘事務所 2007
◎転送自由。ただし転載は出典明示のこと。
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当時の宣教師たちの書いた手紙の記録をちりばめた本を
読んだことがあるけど、先にポルトガルの宣教師たちが
シナ(明)に来て、マカオと他の一部の土地で宣教が許され、
シナは十分に宣教を許しているので、軍隊を派遣して支配する
必要は無いと、マカオの宣教師が一生懸命軍事力を使いたがる
宣教師を説得しています。日本担当だったコレヒヨは、途中から
スパインがポルトガルを支配するようになった時代に日本に
いたのですが、しきりに軍事力を使いたがった人です。
でも、マカオやマニラにいるコレヒヨよりも、上の宣教師たちが、
軍事力を使うのを反対していたんですよ。
それで、コレヒヨの思いどうりにはならなかったのです。
でも、コレヒヨが軍艦2巻を日本によこすように頼んで、
自分は軍人のような格好をして秀吉に会ったものだから、
その翌日から秀吉はキリシタンを排斥する命令を出したのです。
当時の宣教師たちも、手紙でコレヒヨとの会見のせいだということを
書いています。キリシタン大名の高山右近モコレヒヨの
しゃべり方が秀吉を怒らせるのは分かっていたので、
一生懸命、他の通訳にしゃべらせようと頑張りましたが、結局
コレヒヨは、自分が連れてきた通訳を使って秀吉を怒らせるようなことを
どんどんしゃべってしまったそうです。
スペインとしては、軍隊を派遣する気はなくて、宣教師たちが
明や日本に対する軍隊派遣を一生懸命止めていたのです。
明や日本に対する善意からもあるし、日本の軍隊は結構強いし
覇気があるということを知っていたからもあるでしょう。
しかし、秀吉はコレヒヨに会ったり、スペイン人の船乗りの言葉を
聞いたりして、スペインが明を攻めて属国化すると考えたのでしょう。
それだったら、日本単独で明を攻めて、明から日本を支配されるのを
防ごうと考えたのでしょう。(憶測ですが。)
直接、明に行くには、ちゃんとした船が足りないので仕方なく朝鮮半島から
明を攻めようと考えたのでは?
スペイン人の船乗りは、何を秀吉に言ったのでしょうね。
荷物や船を奪われて頭にきて、「スペインは、先に宣教師を送って
それから、支配するんだぞ!荷物を返せ!」とでも、言ったのでしょうか?
秀吉が宣教師たちを殺した時に、スペインの王様が怒って、日本を攻めようと
考えたそうですが、ちょうど王様が病気になって死んでしまったので
それは実現しなかったそうです。そうする内に、イギリスやオランダの勢力が
増してきて、スペインは没落してきたので、日本との関係もなくなってきたと
いうわけです。
家康にはイギリス人がついていて、いろいろ西洋のことを教えたそうです。
日本は、オランダやイギリスの方が安全で正しいと考えたのでしょう。
オランダやイギリスには、気を許していた。
家康は、マニラに拠点を置く、フランシスコ会とは、仲良くしようと
考えていて、マニラからメキシコに行く船に、日本に立ち寄ってほしいと
願い出ています。メキシコと貿易する気はあったようです。
仙台藩が、キリスト教に寛容でもそれを黙認していたし、
仙台藩がキリスト教の国に使者を遣わしていても、何もとがめなかった。
その使者は実は仙台藩が使わした大航海者だったのだが、仙台に戻って
から、キリシタン関係の活動がばれたらまずいと思われたのか
こっそり処分されたそうだ。そういう時代だったのだろう。
イギリスは、日本が喜んで購入するモノが無く、多額の税金(上納金?)を
日本に収めても、うまみが無いので、貿易を自ら断っています。
だから鎖国は、自然ななりゆきもあったのかもしれないなと思います。
オランダは、絹織物を明から購入して、それを日本に持って来ていた。
明の力が衰えると、シナ人(明)が勝手に絹織物をあちこちの日本の
漁港に運び込んで、オランダが明から買える絹織物が乏しくなって
しまった。日本人が欲しがる絹織物が無いと貿易の量も減ります。
勝手に、シナ人(明)があちこちにくるので、
貿易をしたいシナ人(明)とオランダ人が長崎に来るようにまとめた。
長崎にはシナ人(明)がたくさんやってきたので、今でもその影響が
残っている。当時のオランダやイギリスは、海で外国の船と出会ったら
船の積荷を奪って船を燃やしたりするので、日本に
「日本近海の海では海賊行為を禁ずる。」などと、命令されている。
オランダはイギリス船の積荷を海賊行為で奪って、その積荷を日本に
持って来ていた。それがバレて、怒られたわけです。
当時から、外国の方が野蛮だったのです。
オランダは本国に「イギリスの船を見つけたら、かたっぱしから
湾内にいる船のイカリを切ってしまえ。」と命令されていたが、
「そんなことをすると、日本の王を怒らせてしまいますから
できません。」という手紙を書いている。
日本人の王の方が、道徳的だったのです。
オランダは、日本と貿易がしたかったので、日本に従うポーズをとりつづけ
長崎で貿易を続けたわけです。
オランダ人は一年に一回江戸にもうでることができ、興味深々で観察した
そうです。蘭学を日本人に教え、そのうちのひとりに日本地図を
もらったそうです。日本地図を渡した日本人はそれがバレて切腹を
することになったそうです。
地図をもらった人と同じ人物だったかどうか忘れましたが、
また、いろんな植物の採集を頼んで
標本を作ったそうです。弟子の日本人もよく言うことを聞いて、あちこちから
植物や花を持ってきてくれたそうです。
そうこうしているうちにイギリスがどんどん強くなり、アメリカも強くなり、
ペリーが日本に黒船でやってきて、港を使わせろと言いに来たわけです。
長崎に住んでいた人がペリーに手紙を書いて、
「日本人は、ひとつのことを決定するのに、会議などえんえんとやって
時間がかかるが、決して早まって大砲など撃たずに忍耐を持って
対処してあげてください。時間がかかるが、じっと忍耐して待てば
かならず解決しますから。」などと忠告している。
それで、ペリーは結構忍耐したわけ。ペリーは日本の港を
水や食料を補充する中継地にしたかったんです。侵略するつもりはなかった。
でも、比較的、ペリーの態度が穏便だったのは、
日本が大好きなオランダ人のおかげかもしれない。
オランダは、日本からあじさいやら、山ゆりやらいろんな植物を
持ち出し、品種改良して世界中に売ったのです。
日本にある豪華なあじさいはオランダから逆輸入した日本の花です。
でも、今のオランダにとっては、日本はインドネシアを奪った憎い敵みたい。
結構、今でも日本軍を批判している人がいますよ。