「無防備」ということがいかに「犯罪者」を呼び寄せるのかということがはっきりとわかるはずです。 | 日本のお姉さん

「無防備」ということがいかに「犯罪者」を呼び寄せるのかということがはっきりとわかるはずです。

ようちゃん、お勧めニュース。↓

「憲法九条を守れ!」、「無防備都市宣言を!」ということがいかに「犯罪者」を呼び寄せるのかということがはっきりとわかるはずです。

「日本史から見た最新ニュース」
*個人」が「ファシスト」になる、それが「戦後日本」の正体だ
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(中日新聞より)

問われる本土日本人の想像力

自衛隊が市民団体や個人の動向を調査する「国民監視」を行っている実態を知って、この国の未来に不安を抱いた人は少なくないかもしれないが、沖縄をめぐって生起している状況は、それが杞憂ではないことを教えている。現時点では国民全体には直接のかかわりはない形で
沖縄に標的をしぼった軍国化の地ならしが着々とすすめられているのである。(略)

この国の首相は、「戦後レジーム(体制)からの脱却」による「美しい国」づくりを公言してはばからないが、その先に出現するであろう国が「恐ろしい国」であることは、いま沖縄で起きている諸々の事象から透視されるのである。

「戦争がどのようにやって来るのか、実に何でもない状態が進んでいって、ある日にば戦争が始まっている。たぶんね。足音もしないのね」(澤地久枝『世界』七月号、佐高信との対談)。

その通りだと思う。そしてかつて島尾敏雄が「日本の歴史の曲がり角では、必ずこの琉球弧の方が騒がしくなると言いますか、琉球弧の方からあるサインが太土の方に送られてくるのです」(『ヤポネシアと琉球弧』)と書いていたことを思い出すのである。いまなお沖縄戦の記憶が生き、波が騒ぐ沖縄が発しているシグナルを感知して、音もなく忍び寄る「足音」を聴き取る「想像力」を本土の日本人は試されていると言えるように思う。(新川明=元沖縄タイムス社長)

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「北方領土」と「竹島」と「東シナ海」を「侵略」され、「尖閣諸島」や、「沖ノ鳥島」、そして「沖縄」や、「対馬」までもが「侵略」の標的とされているのに、危機感を抱かないどころか、逆に「日本侵略」を手助けしようとする人々。

「平和」ということが「自己完結」では済まなくなった時代に、「自国」を守る為には、強力な「軍事力」が必要です。

もしも、「江戸時代」に「戦国時代」のような「世界最強の軍隊」が存在していたら、「日本」は「戦争」を行わずに、「自給自足」の生活を続けていたことでしょう。

もしも、「チベット」が、「アフリカ諸国」が、「ネイティブアメリカン」たちが「世界最強の軍隊」を持っていたら彼らが「侵略」され、「奴隷」となることも、「絶滅」させられることもなかったでしょう。

「チベット人」や、「ネイティブアメリカン」たちが「チャイナ」や、「欧州」を「侵略する気」が無くても、「敵」はやって来た。

問題なのは「軍隊」=「力」ではなく、それを用いる「人間の心」にあるのです

「軍隊」を廃止、縮小するということは、「自分」だけの話ではなく、多くの「他人」をも巻き込む話です。

救いようが無い「エゴイスト」でない限り、「他人」の「安全保障」の問題に対する口出し、それも「命」に関わる口出しは、簡単には出来ないはずです。

「憲法九条を守れ!」、「無防備都市宣言を!」

などと言っている人たちは、まず「自分の家」を「無防備」にし、それをしっかりと「宣言」し、全ての「財産」を「家」に置いたままで「生活」してみるといいでしょう。

そうすれば「無防備」ということがいかに「犯罪者」を呼び寄せるのかということがはっきりとわかるはずです。

「無防備」=「無責任」の「害」はそれだけではありません。「道徳教育」をしっかりと行っていないなかで、「無防備」を安易に進めることは、「善良な人々」の「悪心」に火をつけ、新たな「犯罪」や、「犯罪者」や、「不信」を生み出す原因ともなりうるのです。

「日本」で、「憲法九条を守れ!」と主張している人たちは、「道徳教育」も同時に否定している人たちです。

そんな彼らの主張の先に待っているものこそが「恐ろしい国」なのではないのか?

「個人」と「個人」が、「騙し」、「傷つけ」、「殺しあう」、そんな「戦後日本」。「自殺」しようとしている人がいても「相談する相手」も、「止めてくれる相手」も存在しない「戦後日本」。

「安倍総理」の目指している「美しい国」に反対するのは自由です。しかし、それが「公共の場」を利用していたり、「公人」としての反対ならば、反対する「根拠」と、自らの「理想」をしっかりと提示する「責任」があります。

「国民」たちの「礼儀作法」、「振る舞い」、「国土の姿」。

「戦後日本」とは「左巻き」たちが絶賛するほどに「素晴らしい国」なのか?「守るべき体制」なのか?

そのことがいま問われているのです。