チベット声楽家のちょっといい話 | 日本のお姉さん

チベット声楽家のちょっといい話

ようちゃん、お勧めブログ記事。↓

▼故郷と日本に恩返しするチベット声楽家のちょっといい話

(台湾春秋)
 チベットの声楽家・バイマーヤンジンさんは、日本の舞台に立ちな

がら、全国の学校で故郷チベットの話をしている。

その内容は、遊牧民の生活や家族のこと、それと日本との違いなど。

いま彼女は、故郷のチベットに小中学校を贈り続ける。

7月8日の産経から。

 「数年前、ある小学校で講演したとき、“幸せですか”と尋ねた。

“幸せ”という答えを期待していた。しかし答えは、“別に”とか

“分からん”とか。“分からないわけ、ないでしょう。

立派な学校で勉強できて、家に帰ったらご飯があって、欲しい物が

買えて。”

 本気で叱った。でも、子供たちは、きょとんとしたまま。

“私から見れば、いろんな豊かさに囲まれているのに、その価値が

分からない。これも不幸なことだ。いまは、それを子供たちに気づかせ

るため、招かれていると感じている。

 チベットの平均標高は4200メートル。

遊牧民の家の8人兄弟の6番目。両親は文字を学ぶことなく育った。

遊牧民の半数は、“字が読めても役に立たない”と、子供を学校に

通わせない。だが彼女の両親は、8人の子供のうち、7人を学校に

通わせた。

字が読めなくて、土地を騙し取られたとか、つらい経験があったから

だ。両親は遊牧をやめ、学校に近い町に住んだ。

だが収入の当てがない。10代半ばの長男が、“僕は学校へ通わな

くてよい。父さんたちは弟や妹の面倒を見てくれ”と、1人遊牧で家計

を支えた。

 両親と兄の気持ちに応えようと、必死で勉強した。高校へ進学した

とき、宿舎の消灯時間は午後9時。夜間でも電灯がともるトイレに、

本を持ち込んで勉強した。チベット出身で初めて、国立四川音楽大学

に合格、声楽を学び、卒業後はその大学で講師となった。

 そして、日本から来ていた現在の夫と知り合い、結婚。平成6年、

夫の故郷・大阪へ移り住んだ。初めて見る日本は、驚きの連続だった。

満開の桜の美しさに目を奪われた。スーパーには色とりどりの野菜が

並び、ほとんどの家事は電気製品が手伝ってくれる。

 “天国に嫁に来た”と思った。それと同時に、“チベットと日本は、なぜ

こうまで違うのか”。寺子屋のあった江戸時代末期、すでに日本は、

産業革命の起きた英国をしのぐ識字率を誇っていたことを知った。

現代はもちろん、子供たちの全員が学校へ通う。

 “学校を作れば、ふるさとが豊かになる”。遊牧民の子供のために

学校をつくる決意をした。

最初はパート代をためたが、やがて彼女の思いを知った人たちが、

支援の輪を広げてくれた。最初の小学校が出来たのは、平成12年。

昨年9月、10校目が開校した。
 
 “日本に嫁に来たから、私はチベットを知った。

故郷の人たちのために、学んだことを生かしたい。

そして日本に恩返ししたい”。」国際的な比較の中で、自分たちの

位置を知る。この話は、われわれ日本人にも多くのことを教えて

くれる。
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日本のお姉さんの意見↓

生まれたときから豊かだったら、必要な物がすぐ手に入る便利な生活の

ありがたみが分かんないだろうな。

日本はお金持ちの国かもしれないけれど、幸せかどうか分からない子供が

いるって、まずいなあ。

それに、なまじみんなが金持ちだから、みんなと同じゲーム機が買って

もらえない家の子供がすごく不幸だと感じたりするのも、どうかと思う。

金持ちでも欲しいものを直ぐには買って与えないで、家の手伝いを

させるなどの努力をさせてから与えるなど、我慢や忍耐も教えないと

ありがたみが全然出てこないからよくないのではないかな。


チベット人は、チュウゴク政府にあんまりかまってもらえていないという

ことがよく分かった。チュウゴク政府は、チベットを侵略した後は、

ちゃんと世話をしていないのだ。学校にも行けない子供がたくさんいる

ようだ。