李登輝前総統】外国人特派員協会におけるブリーフィングと質疑応答
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▼【李登輝前総統】外国人特派員協会におけるブリーフィングと
質疑応答【3】台湾の声
■質疑応答
◇シンガポール記者:今回の訪日で、どのような点に最も影響力を
発揮したと思いますか? また、もともと国民党である李登輝さん
ですが、次回の選挙では誰を応 援していますか?
◆李氏:私の元々の職業は農業経済学者あるいは経済学者、
総統をやっていまし たから、時には政治家と思われてきましたが、
このたびの日本訪問においては、そうい った色彩をできるだけ
出したくありませんでした。むしろ私は日本で、見たいものは何
か、勉強したいものは何か、日本文化とは何か、日本文化の持つ
本当の意味を実地に見 なければならないと思いました。
一つの国が発展するには、物質的な面の発展だけではなりません。
必ず文化と いうものが基礎となり、それが人民の生活を基礎的な
考え方・哲学となって、日本の国の形を作っていくものと思っています。
そういう私ですから、今の台湾における総統選挙についてお答え
するに、私は 国民党の指導者であり、その12年間を利用して台湾
の民主化をやりました。私はそれを一生の誇りと思っておりますが、
国民党から見れば李登輝は反逆者ですから、潔く国民 党を離れ
ました。今はまったく自由な形で、台湾の政治やなりゆきを見て
おります。
だから、誰が総統に当選する、あるいはどういうことが起きるかと
いうことに ついては、私は関心をあまり持ちたくはありません。
それは人民が決めるのですから、
私が決めるのではありません。非常に大切なことだと思います。
◇イタリア記者:台湾政治の混沌の今後と靖国神社について
(質問は英語のため簡訳)
◆李氏:Thank you for your question. I am going to answer in
Japanese.
私は民主主義社会、そして民主政治を12年間、一滴の血も流さず
にやって来ました。そ の目的は何かというと、人民の生活に傷を
つけたくないということです。
次に基本的なものは何か、それは人民のいわゆる豊かな生活、
考え方を歪めな い。そのためには私の基本的な考え方は何かと
いうと、市民社会であります。
近代社会 における市民社会の重要性、それは教育と教養とその
他いろいろなものによって築かれます。
もし一国が単に教養、あるいは政治における制度自体が変わった
だけでは、サミュエル・ハンチントン教授が言うように、成功する
可能性もありますが、なかなか成功 することは難しいと思います。
台湾における現在の政治体制の問題においても、私は基本的に
人々の高い教養 と教育が大切であり、それによってこれからの
民主政治がうまくいくものだと思っております。
だから私の基本的な考え方は、個人的に、人間としてどうある
べきか、国に対してどうあるべきか、というようなものから出発
して考えなくてはなりません。
一昨日、私は靖国神社を参拝しました。私はよく知っております。
新聞ではひ じょうな政治的問題として取り上げ、あるいは歴史
問題として政府を糾弾し、いろいろなことがあります。
私はそれに無関係であります。私は、一個の人間として、家の兄に
対する長い間の思いやりと、冥福を祈るというのが唯一の目的で
あります。そこから人 は出発しなくてはなりません。
そういうところで、私は一昨日、靖国神社を訪問しましたが、日本
における靖 国神社に対する考え方は今後変わっていくと思います
けれども、私は非常に強く感謝し ております。
兄は亡くなって60数年、家には位牌もなければお墓もなければ
何もありません 。
それを靖国神社で安置してくれ、魂を鎮めてくれるということに
対して、私は非常に 感謝しております。
◇フランス記者:靖国神社参拝に対する反応について
(質問は英語のため簡訳)
◆李氏:私はフランスから来た記者の質問に対して、以下のような
答えを与えたいと思います。
いったい、靖国神社問題とは何から出てきたか。こういうような事情
に我々は もう少し頭を入れて考えなくてはならない。
靖国神社問題というのは、中国大陸や韓国 において、自国内の
問題を処理ができないが故に作り上げられた事実だと思っておりま
す。それに対して日本の政治はあまりにも弱かったと私は信じて
おります。
こういうようなことが外国の政府によって批判される何ら理由は
ありません。
自分の国のために戦った若い命をお祀りする、それは当たり前の
ことです。
私は台湾において国民党の総統を12年間やりました。
毎年、春と秋に忠烈祠に 拝みに行って、その人たちの魂が鎮守さ
れるようお願いしてまいりました。この人たち は正直に言いますと、
台湾とは無関係の人たちばかりです。台湾のために血を流した人
ではありません。ただ、こういうところでは我々は人間として、広く
人類愛に基づいた 考え方で慰霊をするということは大切なことで
あります。
私はかつてフランスのパリに「台湾フランス文化賞」というのを
設けました。
フランスが200年間も努力してきた民主主義とは、哲学的に考えれ
ば「我々とは何か」と いう問いから始まったフランス革命が元に
なっております。それなのに、私がフランス へ行こうとしたら、
フランスの首相が中国へ行くから李登輝が来ては大変だよ、
困ります、と否定したわけです。
私がここでこのようなことを申し上げるのは非常に僭越なところが
ありますが、既成的な概念で現在の新しい社会が進んでいく方向を
妨げてはいけません。非常に大 事なことだと思っております。
ありがとうございました。【(4)に続く】
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渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針 第848号
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朝鮮戦争を知らぬ世代 渡部亮次郎
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今から57年前の1950(昭和25)年6月25日午前4時、北緯38度線で
北朝鮮軍 の砲撃が開始され、30分後には約10万の兵力が
38度線を突破した。
当時、日本にはまだテレビがなく、私(中学3年生)たち子供は
開戦の事実 を知らないまま年月は去った。
あれからもう57年が経った。団塊の世代を含む以後の世代は
朝鮮戦争を 殆ど知らない。だが、あの戦争こそはアジアを舞台に
した米ソ対立惨禍 であり、依然、北朝鮮をアジアの火薬庫に
しておく源淵である。
あの日は日曜だった。しかも韓国では前日に陸軍庁舎落成式の
宴席があ り、軍幹部の登庁が遅れ指揮系統が混乱していて、
李承晩大統領への報 告は、被奇襲後6時間経ってからであった。
しかも、T-34戦車を中核にした攻撃により、米との協定によって
対戦車 装備を持たない韓国軍は総崩れとなっていた。
北朝鮮軍は3日後の28日には韓国の首都ソウルを占領した。
こうした事態に対して国連は、侵攻2週間後の7月7日に招集した
安保理で
「米国による国連軍指揮」を認め、日本統治に当っている
マッカーサー 元帥が国連軍司令官に任命された。
一旦、南に追い詰められた国連軍は9月15日、仁川上陸作戦に成功、
以後、反撃に転じた。
日本の国内では臨戦態勢が敷かれ、共産党首脳部の公職追放、
警察予備 隊の設置(自衛隊の前身)、軍事基地の強化などが実施
され、米軍の前進 基地としての役割が実証された。
この事実はのちの日米安保条約の下敷きになった。
当然、日本は敗戦からまだ独立していない時期だったが、朝鮮戦争
特需 が起こり経済再建が急速に推進された。韓国要人に会うと
「韓国の犠牲 の下、日本は発展した」と真面目に揶揄されたものだ。
当初の韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。
北朝鮮軍は中国共 産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊を
そのまま北朝鮮軍師団に改編 したものが殆どで練度が高かった。
これに対し韓国軍は建国(1948年8月13日)後に新たに編成された
師団ば かりで、将校の多くは日本軍出身者であったが各部隊毎の
訓練が完了し ていなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練・準備を行っていた北朝鮮軍の装備や
戦術がソ連流だったのに対して、韓国軍は戦術は旧日本軍流であり、装
備は米軍から供給された物が中心であったものの軍事協定によって重
火 器が不足しており、特に戦車を1台も装備しておらず航空機もほとんど
装備していなかった。
その結果、貧弱な空軍は緒戦の空襲で撃破され地上戦でも総崩れと
なっ たのだった。
10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、
単独 で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は
中国に参戦 を要請。
中国の国務院総理(首相)周恩来は「国連軍が38度線を越境すれば
参戦する」と警告。だが10月9日には国連軍も38度線を超えて
進撃した。
これまで参戦には消極的だった中国も、遂に開戦前の北朝鮮との
約束に従って人民解放軍を「志願兵」として派遣することを決定する。
なお、「志 願兵」とは名ばかりで、派兵された中国人民志願軍は
彭徳懐を司令官とし、 最前線だけで20万人規模、後方待機も含め
ると100万人規模という大軍だっ た。
また、ソ連の援助により最新鋭機であるジェット戦闘機MiG-15が投入
さ れ、アメリカ空軍の主力ジェット戦闘機のF-84やF-80との間で
史上初の ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。
MiG-15は当初、国連軍のレシプロ戦闘機を圧倒し、すでに旧式化
してい たF-84やF-80に対しても有利に戦いを進めていた(俗に言う
”ミグ回廊” の形成)が、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機
F-86Aを投入し た。いずれにしてもF-86の圧勝に終わった。
この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦
会談が断 続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での
停戦を要求する ため交渉は難航した。
1953年に入ると、米国では1月にアイゼンハワー大統領が就任、
ソ連では 3月にスターリンが死に、両陣営の指導者が交代して
状況が変化した。
7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が
結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。(調印者:金日成・
朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐・中国人民志願軍司令官、
M.W.クラーク・国際連合軍司令部総司 令官。
李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。)
マッカ ーサーは原爆投入を主張してトルーマン大統領から
解任されていた。
板門店がソウルと開城の中間であったことから、38度線以南の
大都市である開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。
なお、その後両国間には中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコ
スロバキア、ポーランドの4カ国によって中立国停戦監視委員会が
置かれ た。中国義勇軍は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、
1958年10月26日 に完全撤収した。
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、死傷者は
韓国軍約20 万人、米軍は約14万人、国連軍全体では36万人に
達した。
一方、米国の推定では、北朝鮮軍が約52万人、中国義勇軍は
約90万人が死傷したとされており、毛沢東国家主席の2人の
息子も戦死した。
一般市民の犠牲者は100万人とも200万人とも言われ、一説には
全体で400 万人の犠牲者が出たとされる。
また、夫が兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような
離散家族が多数生まれた。両軍の最前線(今日の軍事境界線。
厳密には 38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の
国境線となり、南 北間の往来が絶望的となったうえ、その後双方の
政権(李承晩、金日成) が独裁政権として安定することとなった。
韓国は停戦後、政治の混乱によって復興が遅れたが、朴正煕
大統領が米 国と日本から多額の援助を獲得して以来、急速な
復興と成長を成し遂げ、 『漢江の奇跡』と称された。
朴の政治手法は開発独裁と呼ばれるものであったが、彼以降の
30数年で、 アジア有数の工業国となり、北朝鮮との経済格差は
朴の時代に2倍、全斗 煥の時代には3倍に開いた。
全の時代には独裁に対抗する市民や学生らの運動が高まり、
政治的民主 化が促進された。ソウルオリンピック(1988年)に
成功した時点の北と の経済格差は4倍に拡大した。
その後も深刻な経済危機を克服して、日本とともにFIFAワールド
カップ (2002年)の開催を実現するまでに国際社会の信用を
獲得している。ま た、長らくソウル北部は侵攻に備えて発展から
取り残されてきたが、緊 張緩和によって急速に住宅地として
整備されている。
また、戦車の侵攻を防ぐ目的で設けられていた戦車止めも取り
壊されつつある。一方、男子には一定の徴兵期間が義務として
設けられているほ か、数ヶ月に1回は各地方・都市で空襲に
備えた民間防衛訓練(民防) が行われている。
北朝鮮は金日成が国内派閥の粛清を進めて、個人崇拝を強化した
独裁政 権が確立し、政治の安定が図られた。
中ソ対立のあおりを受けて自主を掲げる主体思想を前面に掲げた
国づく りを目指したが、対南工作と呼ばれるゲリラ戦やスパイを
繰り返し、し ばしば外国民の拉致を行った。
冷戦終結による東欧革命、ソ連崩壊、金日成死去と立て続けに国家
を揺 るがす事態に遭遇した。息子の金正日は一党独裁(朝鮮労働
党以外にも 政党はあるもののそれらは衛星政党である)による
権力の世襲を行い、 「先軍政治」と呼ばれる軍優先の社会を
作り出した。
政権初期の自然災害によって飢餓が生じたが有効な手立てを打てず、
餓 死者などが数多く出たと考えられている。
2000年ごろから中国を手本にした改革を行っているが、かえって
貧富の 格差が広がった。
また、偽札や覚せい剤の製造など国家ぐるみの犯罪と
人権蹂躙を諸外国から非難されている。参考資料:「昭和史事典」
1923-1983 講談社。「ウィキペディア」2007・06・25