足元の真実の世界を私達は見てるでしょうか?
ようちゃん、お勧めメルマガ記事。↓(6月27日の記事です、)
ヒルズ・ビルは現代の超高層ビルの「まぼろし」では無いだろうか?
>と著者の視点からは見える・足元の真実の世界を私達は
見てるでしょうか?byようちゃん
■「加瀬英明のコラム」メールマガジン
題 名 : 身の丈に合った大きさを 超高層ビルの「まぼろし」
六本木の旧防衛庁跡地に「東京ミッドタウン」が、出現した。
地上五十四階の高層ビルをはじめとして、背の高いビルが並んでいる。
「東京ミッドタウン」のホームページをみると、「緑豊かな都心に流れる、上質な日常。デザインとアートに彩られた東京ミッドタウンへ、ようこそ」という言葉によって迎えられる。いったい、「上質な日常」が何を意味しているか、私には理解できないが、「エリア」「システム」「オープンスペース」「コミュニティ」「コジェネレーション」「エコロジー」「グリーン」といったカタカナ英語が、びっしりと並んでいる。
ホームページで「やさしさ」と「安らぎ」の「至福の時間」を過ごせると約束しているのに、私が過剰な期待感に胸を膨らませて訪れて、そのような体験を味わうことができなかった場合には、対人不信に嘖(さいな)むことになるだろうと思って、足が遠退いている。
生活実感のない巨大ビル
私は六本木ヒルズに何回か、足を運んだ。そこの店子のホテルで講演したり、五十一階にあるクラブに入会させて貰ったので、はじめのうちは物珍しさが手助って、四、五回、友人を誘って訪れた。
だが、私は率直にいって三十階とか、四、五十階といった高層ビルを好まない。人間の身丈に合ったスケールがあると思う。高層ビルは巨大な昆虫籠に、小さな虫が群がっているところを連想させる。そのうえ、巨大ビルは資本の論理があまりにもあからさまなので、経済システムのなかに取り込まれたような圧迫感にとらわれて息苦しくなる。
それに、そのような場所へゆくと、先のホームページにカタカナ英語がいっぱい使われているように、生活実感が乏しくて、まるで劇場のなかに身を置いたように感じられるものだ。レストランでも、ロビーでも、どこでも、「いたるところにアートが息づき」(前出・ホームページ)という内装によって囲まれると、自分がいったい何者なのか、分からなくなってしまう。せっかく、祖父母や親から受け継いだ精神の流れが、絶たれてしまうのだ。
平成九年に、神戸で「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る中学生が極悪な犯罪をおかして、全国を震駭させたことがあった。あの少年は新聞社に犯行声明文を送って「透明な存在のボク」と、書いた。
「東京ミッドタウン」や、新丸ビルは、どこにも属していない空間だ。「至福な時間」を過ごしている若者たちはきっと根を失って、「透明な存在のボクや、アタシ」になっているにちがいない。
私は「東京ミッドタウン」の建設中に、その前を何回か通った。ブルドーザーなどの巨大な土木機械が唸り声をあげて、動きまわっていた。私は伝統文化を壊しているのだと思って、心が締めつけられた。
私たちは欧化に憧れすぎたのだろうか。私が少年だったころは、まだ「上等舶来」という言葉を、よく聞いたものだった。
先日、私は床屋で髪を刈ってもらってから、自分の頭を叩いてみた。
幕末に「ざんぎり頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という戯れ歌が、流行った。あれから百四十年以上たつが、「文明開化」を休みなく進めるうちに、心の拠り所であるはずの自分の国まで、消し去るようになったように思われる。うわべだけの「上質な日常」と交換したのだったから、何とも損な取り引きをしたものだ。
仮装の空間
今日の日比谷の帝国ホテルのわきに百二十四年前に、洋風建築による鹿鳴館が建てられた。明治の顕官が夫人や令嬢や愛人たちを連れて、西洋を真似た仮装舞踏会を催して、文明開化に励んだ。今日の日本は、文明開化のなれの果てであろう。鹿鳴館も「東京ミッド」なにやらも、仮装の空間だという共通点がある。
私は六本木ヒルズに戯れている若者たちを見て、明日の日本と世界を背負うことになる若者が、これからいったい何のために働いてゆくのだろうかと訝った。きっと、収入のためだろうと思った。マルクス、エンゲルスはグローバリズムを先取りして、伝統的な文化を軽んじたが、世界がマルクス主義の金(かね)への執着によってすっかり毒されて、今日の惨状を迎えている。マルキシズムはおぞましい。
先のホームページが訪れる人々に「至福の時間」を約束しているのは、多くを語っている。正しくいえば、「束の間」の「至福の時間」とすべきだった。今日の人々は束の間の幸せを求めて、つぎからつぎに新しい商品を、まるで追い立てられているように買い求めている。
刹那の快感しか求めないから、先人たちがどのように生きたとか、共同体の精神や、歴史にはまったく関心がない。そして、これからあとに残すものもない。
消費中毒の患者たち
いまの人々は必要と欲望を、区別することができない。その間の境界線が、まったくはっきりしない。だから、せっかく新しい製品を買って、その瞬間は充たされても、すぐにつぎの物が欲しくなる。
かつては僧侶が人々の心を、預かっていた。いまでは獰猛な企業経営者や、その配下の宣伝部員や、広告代理店に働く人々が、民衆の精神を司るようになっている。
その結果、物慾の僧侶たちによって、人々が消費中毒を患うようになっている。これは、アメリカ人が開拓時代に先住民族のインデアンからアメリカ大陸を略取した時に、安ウイスキーをインデアンに売りつけて、アルコール中毒に仕上げたうえで、代金の代わりに先祖代々の土地を奪ったのを思わせる。
つまらない商品を所有するほど、心が渇く。狭いマンションも、ゆとりがあるはずの住宅も、不必要なもので溢れている。かつて貧しかった時代には、人々は目に見えないものを大切にした。心が目に見えるだろうか。大切なものは、目に見えないのだ。
不必要の代表はテレビ
これほど必要がないものが、人々の生活を支配した時代は、かつて人間の歴史でなかった。テレビがそのもっともよい例である。テレビがなくても飢えることがないし、雨風を凌ぐことができるし、娯楽にもまったく不自由することはない。
それにしても、テレビは節度も落ち着きもなく、行儀が悪い。けじめも、しまりもない、ふしだらな画像を、間断なく送ってくる。
電球は夜、本を読むために、バスや自転車は移動するために役に立つが、テレビは不必要なものだ。テレビのCMが売りつける、ほとんどの商品も必要がない。
人々がこれほど不必要なものの虐政のもとに生きた時代は、なかっただろう。それに引き換えて、孝心とか、先祖への感謝の念とか、信心や、愛国心のような、まっとうな生活を営むために必要なものが、失われるようになった。家に帰っても不必要なものが、満ち溢れているので、心が入り込む隙間がない。
江戸時代には九十九パーセントの人々が、目的地まで歩いたものだった。風や花や、樹木に触れることができた。そして道すがら出会った人と、気軽に会話を交わしたものだった。いまでは自動車(くるま)に乗って移動するから、他人と話すことも、挨拶を交わすこともなくなった。
急ぐことは心を傷つける。種を蒔き、芽がふき、花が咲き、やがて実を結ぶまでは、有機的な時間が必要だ。自動車や地下鉄や新幹線に乗っている時間は、無機的な時間である。人も生きているのだから、有機的な時間を必要としている。
人が動く速度は精神の健康と、深くかかわっている。いまの人々はトーキー時代以前のコマを早回しにした映画のような、慌(あわただ)しい滑稽な生活を送っている。人に合った速度や、大きさがあるはずである。
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◆ vol.369/ 平成19年06月27日 ◆─
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日本保守主義研究会
「日本以外全部沈没」という映画がある。原作者は小説家の
筒井康隆、監督は 川崎実。
2006年、劇場公開された。題名の通り「日本沈没」のパロディ映画
である。
内容は2011年、アメリカ大陸、ユーラシア大陸等世界中の陸地が
海に沈み、日本列島だけが唯一の陸地となってしまう。
む土地を失った大量の外国人 難民が日本に押し寄せ日本国の
人口は5倍に膨れ上がる。日本政府は日本人の文 化、秩序を
守る為に日本人の為に様々な政策を推し進めていく。
私が映画の中の 日本政府の政策で印象に残った政策は、
在日米軍基地の返還、在日米軍の武器弾 薬の無条件譲渡、
外国人犯罪者の取り締まり組織の設立等があった。日本人、及
び外国人難民は過酷な運命に翻弄される。この映画は世界中
から難民が日本に押 し寄せた場合、日本政府はどのような行動を
採るか、そして国家とは如何にある べきかを考えさせられる
映画である。
映画では地球上の陸地は海に沈み世界の国家そのものが無くなり
円を除く世界 中の貨幣は大暴落してしまう。
その結果、日本人を除く世界の上流階級、ハリ ウッドスターは
犯罪者や売春婦にまで落ちぶれてしまう。だが日本政府は一貫し
て非情にも日本人の為の経済、秩序を最優先にしていた。
外国人難民の日本政府 の対応は一見すると非人道的だと思われ
るかもしれない。だが外国人難民の為に
自分の住む住人を切り離しその地域と無関係な人々を優先すること
の方が倫理 的、道徳的に問題ではないのだろうか。
外国人難民に諸権利を認めるのならば個 人で行えばよい。
だが住民たちの了承を得ず、まず社会的に権利を認めろと主張
するのであればそれは独りよがりではないか。
もし今まで存在していた秩序を破壊してまでも外国人に権利を
与えてしまうと その分日本国民の秩序、平和が犠牲になってしまう
恐れがある。現在、日本人と 外国人との違いが無くなりつつある。
品質の悪い食物を食べ、安い服を着て、危 険な薬も人種に関係な
く広まっていく。その世界で日本人と外国人との違いは限 りなく
薄くなりつつある。日本の文化、伝統こそが日本国の土地が
日本人の物で あるという根拠であるから日本の文化、伝統を
時間をかけて庶民に教えていかな くてはならない。
文化こそ我々が我々である証拠である。
文化は必要ないといえばそれは曖昧な存在である地球市民を
育てろと言っているに等しい。「美しい 国」は秩序、習慣を守り続け
てきた日本民族及びその共同体を最優先に考えなければ成立
しないのではないのだろうか。
「美しい国」を再生するためには私は市場原理主義を見直すべきだ
と思う。理由は一般人が日本文化を教わる時間が取れないから
である。今後も市場原理主義を押し進めるというのなら安倍総理は
市場原理主義が何故日本の文化、伝統を守る事になるのか
説明すべきである。
映画では日本政府は日本人の為の政策を推し進めたが、現在の
日本政府は果た して映画と同じ状況になった場合、映画と同じ行動
と取るかどうか疑問である。
海に沈んだ諸外国に対し、絶対的優位に日本が立とうとも恐らく
外国人難民に対 し、どこまでも無条件に権利を認め続けるのでは
ないのだろうか。ある者は「ア メリカは非常に優秀だから日本は
太刀打ちできない。だからアメリカに従え」と 主張するであろうし、
者は「外国人はかわいそうだ。外国人に参政権を認めろ。」と主張
するだろう。
もし外国人難民に権利を与え続けると以前から住んで いた
日本国民との間で争いが起きると予想される。
もし実際に今後外国人移民に 人権を認め続けるのならば政府関係
者は諸外国に去勢されていると見てもいい。
日本よりも諸外国の人間の方が遥かに高い文化、文明を持っている
と頭の中から 信じていて勝てる戦いも自ら進んで放棄して負け
続けるのではないのだろうか。
もっと日本政府は自国の文化、伝統に自信を持ってもいいのでは
ないか。自信を 持てばアメリカで従軍慰安婦に謝罪しなくてもいい
のではないのだろうか。
この映画で私は国家について考えさせられたが、ただ笑いを
求める人にもこの 映画はそれに応えてくれるはずである。
是非ご覧になっていただきたい。
(脇坂健一)