教育委員会を再生せよ。
ようちゃん、お勧め記事。↓
>ワタミ社長渡邉美樹の「もう、国には頼らない。」
(教育“委員会”を再生せよ)
教育委員会をお役所、あるいは準お役所的組織だと思っている方は、
意外に多いのではないでしょうか?
けれども、実はまったく逆なのです。
教育委員会は、都道府県単位、市町村単位の独立した執行機関で、
メンバーも役人ではなく一般市民から選ばれます。
といっても、いわゆる市民団体からではありません。
市民の立場から行政に参加する公職、本来の意味での
「オンブズマン」。それが教育委員会です。
こう書くと、ほう、教育委員会って、実は素晴らしい仕組みじゃない
か? と思いますよね。そのとおり。「官」の暴走を「民」が防ぐための
きわめて民主的な仕組みなのです。
ところが、いまでは教育委員会の本来の意味がすっかり失われている
ようなのです。
私は2006年から、神奈川県教育委員会に委員として名を連ね
ています。おかげで私は、月に1回、必ず教育委員会でひと暴れする
ことになってしまいました。
先日も、団塊世代の教師の大量退職に伴う新規採用という、
大変重要な問題を話し合いました。
何千人もの先生が一斉退職したら、教育現場ではすさまじい人手
不足に見舞われます。そこで今後、学校の現場では新人教師が
大量採用されようとしているわけです。
人手不足が叫ばれている時代に闇雲な大量採用をすると、被雇用者
の平均的な質が下がるのは、官民どちらもいっしょです。
早い話、教師の質が下がるおそれがあるのです。
しかも、現在の教員採用制度にはそもそも不備があります。
なぜなら大学を出て、そのまま20代前半で教師になってしまう。
新人教師がベテラン教師と肩を並べて、いきなり生徒たちを教育
するわけです。
以上の問題を現状に照らし合わせるとどうなるか?
ベテラン教師が大量に抜けたあと、大量採用の、しかも何の訓練も
されていない新人教師が大量に入ってきて、学校教育を行う。
どう考えても、教育の質は低下してしまいます。
そうなると学校教育の主人公である生徒たちが大きな被害を
蒙(こうむ)ることになってしまう。
そこで私は、教育委員会でこんなアイデアを出しました。
……まず2年間なり3年間なりのインターンシップ制度を設ける。
そして教員志望者は、大学を出たら教育現場できちんと研修を受け、
インターンをちゃんと務めたうえで初めて、生徒を単独で教えることが
できるようにする。
医者と同じです。
必ず2年間、指導医の先生について、研修医という立場で勉強してから
独り立ちする。
教師だって見習いの期間があって当たり前ですし、現に私が経営する
郁文館夢学園では、こうしたインターンシップ制度を取り入れています。
ところが私の主張に対して、委員の方々はこうおっしゃいます。
「そんな厳しい制度をつくったら、先生方がほかの県に行ってしまう。
神奈川の学校には来てくれなくなる」
もちろんこの程度の反論は織り込み済みです。
そこで私は持論その2を開陳しました。
「いまの先生たちがかわいそうです」に絶句
「だったら、教員免許を持っている社会人の方、あるいは免許のない
方でも、優れた知識や経験、技能を備えた社会人を新人教師として
採用すればいいじゃないですか?」
実は特別免許状制度というのがあって、都道府県教育委員会の
教育職員検定を受ければ、免許のない人でも教師として採用できる
のです。
また、特に専門知識や技能を要する分野に限って教えることができる、
特別非常勤講師という制度もあります。
けれども彼らは、こんなあきれたロジックで反論してきたのです。
「それでは一生懸命勉強して免許を取ったいまの先生たちがかわい
そうだし、教師を目指して勉強している学生さんが意欲をなくしてしまう」
なんてことはない、彼ら教育委員会にとって大事なのは、
生徒たちではなく、
自分たちと利害の一致する既存の教師と
その予備軍だったわけです。
生徒のためを思って教師の質を上げるよりも、既得権益を守るほうが
大事、というわけです。
かくして私の提案は潰されてしまいました。
この件に限らず、教育委員会というのは何のため、
誰のために存在するのだろうと思う瞬間が、多々あります。
たとえば教育委員会の学校訪問というのがあります。
学校がちゃんとした教育を行っているかどうかをチェックするために
ある制度です。
ところがこの学校訪問、訪問先の学校に日時と場所を予告してから
行くわけです。
予告して行ったら、学校側はその訪問日だけ「よそ行き」の顔をする
に決まっている。教育現場の真実なんか見えるわけがない。
それを知った私は教育委員会の会議で、「意味がないからやめなさい」
と発言しました。すると、他の委員は「いや、これは学校との優良な
関係を保つためにやっているのだから、抜き打ち検査のようなことは
したくない」と反論する。
ちょっと待ってくれ。
学校との優良な関係を保つことが「学校訪問」の目的なのか?
学校にその場限りのいい授業をさせるのが目的なのか?
私はそう主張すると、結局出席された方たちはしぶしぶ承諾し、
ようやく予告なしの学校訪問が実現したのです。
不偏不党のために、教育委員会の意味は大きい
残念ながら、民主主義の理想のもとに生まれたはずの教育委員会
は完全に本来の目的を見失っています。
教育委員会の制度疲労は全国各地で起きているようです。
最近のいじめ問題に対する対応のまずさや、教育現場の混乱の
元凶として、教育委員会を批判する声は世間的にも高まっています。
「教育委員会不要論」もあちこちで聞かれます。
ただし、私自身は、教育委員会をなくすことには反対なのです。
教育再生会議の場でも、「教育委員会は残すべきだ」と発言して
います。
冒頭でもちょっとふれましたが、戦後、教育委員会が生まれた
背景には、「教育というものは政治、政党に一切とらわれてはいけ
ない。だから権限を知事から離そう。国からも影響を受け過ぎない
ようにしよう」という崇高な理念がありました。
学校というガバナンス(統治)の利きにくい場をいかに市民が
ガバナンスしていくのか、そんな発想が根本にありました。
教育が国から独立していないと、戦前の日本のように、時の政府が
軍国主義化したとき、学校教育もその流れに追従し、子どもたちを
戦地に追いやるような、そんな悲劇が起こり得る。
この愚を二度と繰り返さないように、いかに教育の場で国の権限を
小さくするのか、いかに特定政党の意見を排するのか、ということで
考えられたのが、オンブズマン的な教育委員会の仕組みだったのです。
では、なぜその教育委員会がうまく動かなくなったのか。
委員会のメンバーを見ると原因が見えてきます。
とにかく教育関係者に偏りすぎなのです。
大学の先生、地域の校長先生やその候補者、教師OB、それ以外だ
と地元の名士、有力者というのが、一般的なメンバー構成です。
議論の前提が、既存の学校や教師の権益をいかに守るか、と
なってしまうのも当然です。
かくして教育委員会は、生徒たちの幸せよりも、教師の既得権益や
立場の擁護に終始する組織に成り下がったといっても過言では
ないと思います。
逆にいえば、こうした旧弊を一掃して、市民参加の合議機関という
教育委員会本来の姿に立ち返らせれば、絶対に素晴らしい組織に
なるはずなのです。
教育界以外の民間人の方、当たり前の社会通念や常識を備えた、
さまざまな立場の人が集まって、わが市町村、都道府県でそれぞれ
の独自性を持った教育カリキュラムを組みましょう。
地域、地域の特色性を持ちましょう。子どもたちに良い教育をしましょう。
皆で力を合わせてこうした努力をするのは、とても有意義なことだと
思いませんか? そのために、私自身はこれからも月に1度、
ひと暴れもふた暴れもさせてもらうつもりです。
次回は、私がなぜこうした「国には頼らない」考え方を持つにいたった
かを、外食産業という業種の特性から、お話ししようと思います。