今こそ,史をふり返って、真相を見つめる必要があるでしょう。
ようちゃん、お勧め!↓
☆☆甦れ美しい日本☆☆2007年6月23日 NO.124号)
1. 塚本三郎
本当に負けた日本
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今から二十一年前、日本傷病軍人会代表団が、オランダを訪問した時、
首都アムステルダム市長が歓迎親善パーティーを主催してくれた。そ
して次の如き歓迎挨拶をされた。
「貴方がた日本は、先の大戦で敗けて、勝った。
私どもオランダは勝って大敗しました。今、日本は世界、二位を争う
経済大国になりました。私たちオランダはその間屈辱の連続でした。
即ち勝ったはずなのに、世界一の貧乏国になりました。
戦前はアジアに本国の36倍もの大きな植民地インドネシアがあり、
石油等の資源産物で本国は栄耀栄華を極めていました。
今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。
あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、
諸民族に大変迷惑をかけたと自分をさげすみ、ペコペコ謝罪していますが、
これは間違いです。
あなた方こそ、自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、
人類最高の良いことをしたのです。
何故ならあなたの国の人々は、過去の歴史の真実を目隠しされて、
今次大戦の目先のことのみ取り上げ、或いは洗脳されて、悪いことをしたと、
自分で悪者になっているが、ここで歴史をふり返って、真相を見つめる必要
があるでしょう。
本当は私共白人が悪いのです。
百年も三百年も前から競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として
勢力下にしました。
植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を、
解放し共に繁栄しようと、遠大崇高な理想をかかげて、大東亜共栄圏と
言う旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは侵略して権力を振っていた西欧人の方です。
日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。
即ち日本軍は、戦勝国の全てを東亜から追放して終わりました。
その結果アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大です。
血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です。
自分をさげすむのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべき
です。」
以上の挨拶文は、余りにも日本人の愛国心、特に傷痍軍人の犠牲者
を慰めるのにピッタリの言葉であるがゆえに、本当にアムステルダム市長
の言葉であるか、疑問の声も無くはないと思います。
しかし、その言葉の意味する戦後の日本人の雄々しさと活動は、
戦時中の悲劇の行動のみを罵倒する、日本の一部言論人の自己喪失と云う、
言葉の冷たい嵐の中にあって、日本人に自信を与えてくれることであろう。
思えば六十年前、第二次世界大戦に敗れた日本は、多くの指導者が、
東京裁判と名づける復讐劇によって、A級戦犯として刑に服せしめられた。
口惜しさを胸に秘して。
一般国民も負けた以上、負けっぷりの潔さを示してやろうと、言い訳が
ましい弁明をすることなく、勝者の歴史観を黙認して今日に至ってしまった。
勝者特有の誤った歴史観は、時代と共に定着してしまった。
とりわけ、中国、朝鮮半島、ロシアの隣人達は、それを口実として、
今日に至るも、なお当然の如く、歪められた史実を押し付けるのみ
ならず、横暴ぶりは眼に余る。
それが、「靖国問題」「従軍慰安婦問題」「南京虐殺三十万人」等となって
いる。
戦中、戦後を生き抜いた我々、大正、昭和一桁生まれは、自分の生活
体験を通じて、第二次世界大戦に際して日本国家が、追い詰められ、
戦わざるを得なかった、日本の苦難の歴史を充分に承知して居た。
従って、武力で負けたが、経済戦争で復讐しようと雄々しく生き抜いて、
今日の経済大国を造り上げ、繁栄を迎えることが出来たと思う。
経済で勝ち教育で負けた
繁栄の中に育った戦後世代の人達には、人間として日本人の
持てる、心の豊かさ、厳しさ、そして社会の中で生きてゆく為の礼節に
ついては、なおざりにされ過ぎてしまった。
経済で勝って、教育、文化で敗れた日本ではなかったか。
潔い負けっぷりが、徐々に卑屈な日本人となり、平和が現実からの逃避
となり、厳格な規律が、自由奔放へと堕ちてしまったのではないか。
今後、本当の「敗戦国日本」に沈下したとすれば、あの大戦で戦った
犠牲者は報われない。それが靖国神社参拝問題となり、日本の首相など
の参拝を非難する卑しい国の手先となり、日本国内でさえ一部の人士は、
彼等に呼応しているではないか。
在りもしない従軍慰安婦問題で、知識人と自負する、日本の相当数の
弁護士が、わざわざ朝鮮半島の人達に対して、けしかけに出掛けて、
訴訟を持ちかけている。
韓国の良識派の人達は、「日本人よ、大概にしておいてほしい」と苦情さえ
あらわにしている。
また日本の一部全国紙例えば朝日新聞などが、大々的に日本軍人を
卑しめ、日本国家こそ、軍国主義の侵略者だったし、今もその恐れありと、
他国の人達や、特に容共人と連携している姿こそ、敗戦の悲しさがよみが
えって来たようだ。
日本国内で大胆な強盗が続発している。
そして殺人が相次ぎ、眼を覆いたくなる犯罪、親を殺す事件などは、かつての
日本人の歴史には無い事件であった。その上、可愛い我が子を殺すことなど、
思ってみるだけで、日本人は、鬼に迷わされたかと言いたくなる。
日本人は、敗戦によって「物質で勝って、魂で負けた」。
これが本当の敗戦ではないか。
占領軍は、日本国家をして再起不能にせしめるべく、不戦の憲法を押し
付けた。しかし、本当の敗戦の悲劇を招いた原因は、教育勅語の禁止で
はなかろうか。
しかも、平和と自由と権利と平等と民主主義の名の下で。
明治維新が成功したのは、単なる政治改革による維新の成功ではない。
その以前に、江戸時代の支配者としての武士道が永く社会を支配し、
その下で、豊かな庶民の文化として、約三百年間培われていた、平和な
封建時代があったからではないか。
国民の歴史は、一朝一夕に築かれるものでもなく、壊れるものでもない。
江戸時代三百年の歴史が、明治、大正の六十年の歴史を築いたとすれば、
敗戦の負の歴史は、その後の六十年を経て、漸く敗戦の病弊が、
頭をもたげて来たと心配する。
真の敗戦は、今からやって来ると心配する。
先祖、先輩を軽視し、親を、師匠を、尊敬しない非倫理の日本人。
これが敗戦の最も大きな負の遺産として残されてしまった。
社会混乱の原因は権力の堕落に在る
日本の社会現象が、ひとりでに悪化したとは思えない。
敗戦後の日本が、かくも混乱を招いたのは、日本を動かしている権力
構造の堕落に在る。
国会の姿は余りにも見苦しい。マスメディアに専ら迎合し、大衆の嫌が
ることは、正論でも口にしない。
政治には政敵が居る、反対者を気にするのは、政治ではない。
小選挙区は、投票者の過半数を要するから、無難な道を、そして、反対者
の無い政策に熱中する。
大衆の欲求に迎合することが政治と誤解してはいないか。
政治家にとって金銭の問題は、致命傷となりかねない。
政治献金が利権構造の温床であるからといって、献金を禁止した。
その見返りとして、実費の通信交通費を四倍月額百万円にし、その上、
莫大な公費即ち、「政党助成金」を各議員数に応じて、政党へ注入した。
かつての政治献金以上の公費を惜し気もなく注入した。
政治家は、有権者から卑しまれている。
政治家の活動資金が、国民の税金であるから、当然の如く、その使途を
五万円とか、一万円までの領収書を整えよと論ずることは、国民もまた
政治家を信用せず、卑しめていることを悲しく思う。
高級官僚の無責任と天下りの弊は、社会保険庁の年金の実体が露呈
されるにつれ、非難の声が世上に充ち満ちている。
これに似た外郭団体は各省庁にも沢山ある。
官僚を指導出来ない政治家の無力が主因である事は言うまでもない。
とりわけ怠惰な官僚は、官公労働組合と、労使一体となって組織を老朽、
腐敗に追い込んで、今日の非難の的となっている。そのことは、
かつての国鉄労使の姿を思い起こせば明瞭である。
優秀な官僚が、その省庁のトップに登り詰めるまでの、雄々しき努力は
否定しない。しかし、その後の天下り先での余生こそ、彼等にとっては、
「これからが俺達の人生だ」と言った根性で、組織を労使で食い潰すような
振舞は、眼に余る。
検察に睨まれたら逃げることが出来ない。
こんな噂は政界では事ある毎に流されている。
悲鳴に似た発言を繰り返すのは、元内閣官房長官村岡兼造氏である。
同様に、元国会議員の村上正邦氏は受託収賄容疑で糾弾されている。
検察の暴走は、ロッキード事件から始まったと、元国会議員平野貞夫氏は
論じている。
ロッキード社のコーチャンへの嘱託尋問調査書には「証拠能力がない」と、
最高裁は判断を下し無罪となった。
これは田中角栄氏の憤死から一年二カ月後であった。
法の番人である検察が、法を破ったことになった。
正義の味方が退治する悪人より大きな罪を犯したことになってしまった。
昭和二十九年の造船疑獄以来、検察は、時の政治権力に抗し難かった。
しかし、彼等の誇りは、「検察こそ国家なり」という自負が在ったから、
せめて、時の大物で評判の良くない政治家を逮捕することによって、
また、マスメディアに迎合して自分達の威力を示そう。
その為には法を超えてでもという、焦りさえ持っている。
たとえ有罪にこぎつけられなくても、大物に一太刀浴びせて大衆からの
拍手を。
民主政治下に在る国家とは、国内の問題のみならず、外交、防衛、そ
して通商と、様々の分野での活動が期待されている。
司法の世界は純真でなければならない。
そのことは結果として世間知らずの人達とも評される。
それなのに、この複雑な内外の諸案件に、有、無の判決を求められる。
これ等の事件について私は、何れが是であり、何れが非であるか、
即ち有罪、無罪を論ずるつもりはない。問題は、民主主義政治は、
権力者である者や、あるいはその任に堪えない人達が、その
地位に就いている危うさである。
権力とは「かりの力」と呼ぶ。それを政治家も、高級官僚も、検察官、
司法官も、自分の実力と過信せず、ひたすら、神や仏の前で合掌する
が如く、広く深く学び、修行の道に勤しむ心を持って欲しいと願うのみで
ある。その心掛けの欠如が、今日の日本社会の混乱を招いたと自省して
欲しい。日本の権力者の鏡が、日本社会の姿と読む必要がある。
塚本三郎;