日本はどのように成立したか?
ようちゃん、お勧めブログ記事。↓
朝鮮戦争は 日本と南北朝鮮が戦った,=その結果韓国とと北朝鮮に分離
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▼▼日本はどのように成立したか?
(外交と安全保障をクロフネが考えてみた)
今日は、以前お約束したとおり、日本という国がどのように成立したかを
推理しつつ、韓国で根強く信仰されている「皇室の祖先は百済人」という
説を論破していきたい。
さて、日本がどのように成立したかについてのまとまった歴史資料では、
やはり古事記と日本書紀の右に出るものはない。
これらの書物には、日本の建国神話として”神武東征”の話がのっている。
九州を出発した神武天皇が東に進み、三重県の熊野に上陸、そのまま
北上して奈良にはいって即位、初代神武天皇となったという話である。
いつだったか「”神武東征”の話は大げさで、事実ではないだろう」という
コメントを下さった方がいた。 古事記や日本書紀あるいは漢書のような
正史は、ある王朝が国を治める正統性を内外に示すために書かれるも
のだから、その王朝にとって都合の良いことしか書かれないという
可能性がある。 ”神武東征”の話はコメントを下さった方が言うように、
本当ではないのかもしれない。
だが私は、東征神話が一字一句事実を正確に記録したものではないに
しても、それに似た事件が本当にあって、そうした史実をある程度反映
したかたちで、東征神話が形成されたと考えている。
そう考えるもう一つの根拠は、弥生時代中期末から後期はじめ(1世紀の
前半ぐらい)にかけて、畿内に出現する高地性集落の存在である。
弥生人は水田耕作をしていたので、普通集落は田に水を引くのに便利な
低地につくられる。
ところがある時期に、水を引くのに不便な丘や小山の上に集落が築かれ
はじめた。それを高地性集落と呼ぶ。 高地性集落は、外敵から身を守る
当時の砦(とりで)と考えられている。
つまり、この1世紀の前半あたりに山陽から畿内の各国は、戦乱に備え
砦を築かなければならなかったということだ。
(高地性集落は弥生後期末にもつくられている)
中国の歴史書にあるように、この時期の日本はおそらく百以上の国に分か
れており、ひとつの国の大きさは、現在の市町村が何個か集まった程度の
広さだったと思われる。
また弥生中期末の、畿内の高地性集落には、瀬戸内方面の土器が
ぱったり入らなくなったものもあるという。
つまり畿内と瀬戸内との関係が悪化し、交流が途絶えた可能性がある。
私は、紀元前後ごろ瀬戸内海か瀬戸内海に面する平野から畿内各地の
国を攻めた勢力があったのではないかと仮説を立てている。
以上の点から、日本がどのように成立したか推理すると、 九州の
南東部(今の宮崎か大分あたり)の国を何らかの異変がおそった。
それは火山の噴火だったかもしれないし戦争だったかもしれない。
そしてある国の領主は危機を脱するために一族と領民それに食料や
家財道具を船に積んで、新天地を探すあての無い旅に出た。
その領主をここでは仮に神武天皇とお呼びしておく。
(当時は天皇という称号はもちろん無かった) ”海の民”となった神武天皇
の一行は、瀬戸内海を東に進み居住と耕作に適した土地を探したが、
すでに人が住んで国をつくっているところばかりで、各地で戦になって
しまった。
そしてとうとう瀬戸内海の終点、大阪湾にたどり着き、神武天皇の一行は
上陸を決意する。 ところが、そこはナガスネビコという有力な王が支配
する国であった。 神武天皇はナガスネビコの軍勢と戦ったが敗れ、
上陸はかなわなかった。しかもこの戦いで神武天皇は最愛の兄を
失ってしまう。 残った兵をまとめた神武天皇は大阪湾を南下、紀伊
水道を通って三重県熊野にたどり着いた。
そこで、大阪方面への通り道があるという情報つかみ、軍勢を立て直して
熊野・吉野の原生林を分け入り、奈良盆地に出た。
思いもよらず背後をつかれたナガスネビコは、神武天皇の軍勢の侵入を
許し、神武天皇と一族・領民は奈良盆地に新しい国を建てた。
それから八人の天皇(欠史八代)が統治するうちにその国は実力を蓄え、
地域最有力の国の一つとなった。
そして仮に崇神天皇とお呼びしておくが、その方が天下統一を決意し
各地に軍勢を派遣、吉備や出雲をはじめとする諸国を従え、皇室のもとに
各地の有力豪族が集うかたちで全国が統一されていった。
全国統一といっても、西は九州中部(熊本宮崎あたり)から東は東海・北陸
あたりまでだったのではないか。
それでは、東北・北海道や九州南部は無人の空白地帯だったのかというと
そうではなく、東北以北には蝦夷(エミシ)、九州南部には隼人(ハヤト)と
呼ばれる、言語・文化の違う人たちがいた。
こういう具合に日本という国は成立していったのではないだろうか、と
いうのがクロフネの仮説である。
ただ、日本書紀にあるように初代天皇が奈良盆地に新しい国を建設した
のが紀元前660年であるというのは、今のところ事実であるとは言い難い。
高地性集落の出現時期からみて、紀元前後ごろがひとつの候補となるが、
実際にあったことだったとしても、いつかはわからない。
また、崇神天皇が全国統一に乗り出した時期としては、倭国大乱が
あったとされる2世紀中ごろがひとつの候補で、それが完成したのは、
最古の巨大前方後円墳があらわれはじめる3世紀中ごろと私は推理して
いる。
それでは次のテーマ、韓国で根強く信仰されている「皇室の祖先は
百済人」という話は本当だろうか?
そういう話が在日を含む韓国・朝鮮系の人々に強く信じられているために、
「皇室の祖先は朝鮮半島人なのだから最終的には俺たちのモノだ」という
潜在意識が彼らにあるように私は思えてしかたがない。
だから毎日の在日系記者が、他国の皇室に向かってまるで自分の
所有物であるかのように無礼千万な物言いをするのではないだろうか。
そう言えばうろ覚えだが、辛ナンタラという女性が「皇室を半島に返せ!」
と叫んでいたような記憶がある。(ご存知の方います?)
それでは話の本筋に入ろう。
百済を建国したのは夫余人で、夫余国・高句麗を建国した民族と
基本的に同じだ。
夫余人はもともと中国東北地方にいたのだが、三国時代末から晋時代の
中華王朝の混乱と衰退に乗じて南下、 高句麗が313年、晋の朝鮮半島
統治機関・楽浪郡を滅ぼし半島内部に侵入すると、その一派はさらに
南下して馬韓とよばれた地域の一部を征服、今でいう忠清道から
京畿道にかけての地域あたりに百済を建てた。
(どういう関係かは知らないが、現在でも忠清南道に扶余という町がある)
朝鮮半島に伝わる歴史書・三国史記では百済の建国を紀元前18年として
いるが、事実ではないだろう。
おそらく中国東北地方にいた時期を含めているか、ライバルで紀元前
1世紀には建国していた高句麗に対抗するために、百済の建国時期を
実際より早くしたものと思われる。
第一、紀元前2世紀から紀元後4世紀まで中華王朝の統治機関・楽浪郡
が朝鮮半島北部から中部あたりを支配していたので、それより以前に
百済がそこに建国していたというのはおかしい話である。
夫余民族に固有のお墓は積石墓と呼ばれるもので、高句麗・百済の王族
のお墓はたいていこれであるが、百済の積石墓が半島中部にできはじ
めるのも4世紀ごろである。
よって夫余人が朝鮮半島に侵入して百済を建てた時期がだいたい4世紀
ごろになるが、先ほど言ったように、皇室のご先祖さまが一応、全国統一
の形を整えたのが3世紀ごろだから時代があわない。
日本が一つの国としてまとまりつつあった3世紀に、百済を建国するはず
の夫余人は、遠く中国東北地方のあたりにいたのである。
このことから、韓国に根強く存在する「百済人が日本を征服して皇室に
なったのだ」という話が到底ありえないことだとわかる。
また、半島南部にあった十数個の小国が分立していた地域・任那
(加羅・加耶とも)の王族が皇室の祖先だという話も韓国にあるが、
当時倭国と呼ばれていた日本は九州中部から東海・北陸あたりまでだった
としても、日本の一つの県よりも小さいような任那の一国が日本を征服
して、皇室の祖先となるのは相当無理がある。 今で言えば、「中米の
小さな国ベリーズの大統領がアメリカ合衆国を征服しホワイトハウスの
主人となった」というぐらい荒唐無稽な話である。
それに、百済にしろ任那にしろ、そこの王族が日本を征服したといった
ことが事実なら大事件で、日本・朝鮮半島・中国に伝わる歴史書に記録と
して残るはずである。 ところがそのような記録は一つも無い。
むしろ日本が大国として4世紀以降、任那諸国や百済・新羅といった
朝鮮半島の国々に対して大きな影響力を持つようになることが、日本・半島
・中国の歴史書・碑文に記されている。
そして日本と高句麗という二大勢力が、間に挟まれた百済・新羅・任那
諸国を自らの勢力圏にすべく争うようになるのである。
以上、日本という国がどのようの成立したかクロフネなりに推理してみた。
これは前回でも言ったが、なにぶん古い話なので今のところ「これが
確実な日本建国の歴史だ」というものは無い。
日本書紀や古事記を読んだり、日本各地の考古学調査の結果を記した
本も参考にして、日本がどのように成立したか自分なりに推理してみる
のも楽しいと思う。 当初は日本の支配者だった皇室も、徐々に象徴的な
存在となっていた。
あたかも明治以前から立憲君主制のように「君臨すれども統治せず」に
なっていたのである。
ところが、かえってそのことが日本の政治を安定させ、世界でまれに
見るほど長い歴史を誇る皇室を持つ国となった。
もし世俗の欲得にまみれた人間が日本のトップについていたら、そうは
ならなかったことだろう。
残念ながらそのことの有り難さに気づいている日本人はまだまだ少ない。