歴史をわい曲する韓国の暴力的民族主義(依存症の独り言) | 日本のお姉さん

歴史をわい曲する韓国の暴力的民族主義(依存症の独り言)

▼歴史をわい曲する韓国の暴力的民族主義(依存症の独り言)
昨日、日本による台湾統治は“侵略”でも“植民地支配”でもなく、「未開の台湾を近代化した」ものだったと書いた。
これは朝鮮半島についても同じことが言える。

以下の記事を読んでほしい。李栄薫(イ・ヨンフン)ソウル大学経済学部教授のインタビューを抜粋したものである。
ソウル大学と言えば、韓国の最高学府である。
韓国の知識人にも、こういう人物はいるのだ。

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「韓国人の歴史意識は観念的かつ道徳的であり、見解の異なる者との対立を自ら望む傾向にある。また政治指導者らは、大韓民国が何かの間違いで建国された国だと考えているようだ。金大中(キム・デジュン)政権が第2建国委員会を発足させたことや、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が韓国近現代史を“正義が敗北し、機会主義がはびこった”時代と規定したことだけを見てもそれは明らかだ。こうした間違った歴史意識は社会や国家を分裂させ、韓国の先進国入りを難しくしている」

「いつからか文章を書く際に自分で検閲をするようになった。だが、真の検閲者は韓国の暴力的民族主義だ。これにやられた人は、謝罪や引退、または逃亡に追い込まれるほかない」

「昨年初めに出版された『解放前後史の再認識』の編集にかかわりながら、

韓国社会の中産層がこれまでの50年間、民族や民衆、階級などといった

日常生活とは何の関係もない歴史からどれだけ苦しめられたのかを痛感

した。そこで、こうした状況を何とかしたいと思い、自由と信頼、法治の文明

精神に基づいて書かれた新たな歴史を示そうと考えたことがきっかけになった」

「韓国人は自ら伝統を否定し、批判した経験がない。韓国の伝統を批判した日帝が敗亡し、それにより伝統自体が美化され、産業化の始まりとともに民族主義的に利用された。性理学は、人間を道徳的存在と見なし、社会を道徳原理が支配する場と見なしている。これは、西洋的意味での実用主義や経験主義、多元化された思考とはかけ離れている。ここ数年間、韓国社会が深刻な摩擦と対立を経験したのも、余りに観念的かつ道徳的な性理学的思考からもたらされたものではないかと思う」

「朝鮮王朝は19世紀には既に事実上解体されていた。人口の増加により火田民(焼き畑農業を行う農民)が増えたため山林は荒廃し、少し雨が降っただけでも土砂が田畑に押し寄せ、農業生産力は減少した。18世紀中ごろに比べ、農業生産力は19世紀末にはほぼ3分の1の水準にまで衰退した。こうした農業生産力の衰退の影響で1850年代以降にコメ価格が暴騰し、それが政治的・社会的混乱へとつながり、それに対し朝鮮王朝は何ら有効な対策を打ち出すことができなかった」

「1982 年、金海郡庁で土地調査事業当時に作成された文書が大量に発見された。そこで、この資料を活用した研究を行ったところ、総督府は国有地を巡る紛争を公正に扱っていたことが分かった。全国484万町歩(1町歩は約0.99ヘクタール)の国有地のうち、12万7000町歩だけが国有地として残ったが、その大部分は朝鮮人農民らに有利な条件で払い下げられていた。食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない」

「韓国の学界には厳格なジャッジがいないためだ。先進社会では学界を支配する厳格な審査グループがあり、主張の妥当性について判定を下している。後進社会にはこうした審査を行うグループが存在しないため、何が正しく何が間違っているのかについて、大衆はもちろん、研究者さえも知ることができない状況に陥っている」

「土地や食糧の収奪、虐殺など、この作品(小説「アリラン」)が描いた内容は事実とかけ離れている。自分も学校の図書館でこの本を借りて読んだことがあるが、本には学生らがあちこちに書き込んだメモが残されていた。例えば、日本人の巡査が土地調査事業を妨害したという理由で、朝鮮人農民を裁判にもかけずに処刑する場面では、“ああ、こんなことがあってよいのか…”と怒りを示していた。このように商業化された民族主義が横行し、被害意識だけが膨れ上がった結果、(植民地支配を実際に体験した)高齢者よりも若い世代で反日感情が強くなった。これは、商業化された民族主義と間違った近現代史教科書に基づく公教育のせいだ」

「建国とともにこの地に初めて自由民主主義国家が樹立され、個人の財産権や経済活動の自由を保障する自由市場経済体制が導入された。これは、韓国史の大転換と呼ぶべき出来事だ。だが、若年層が大韓民国の建国を否定的に考えるのは、われわれが近代に無賃乗車した側面が強く、自由民主主義社会を実現するための闘争をほとんどせず、市場経済を受け入れる際の代価を支払うこともなかったためだ」

「李光洙(イ・グァンス)や崔南善(チェ・ナムソン)のようなイデオロギー型の親日協力者らは建国の過程で排除されている。建国に参加した人々は、官僚、教師、会社員、銀行員などのテクノクラートであり、近代国家を建設しようとすれば、近代が要求する知識・技術体系を習得した人々が必要になる。(彼らを親日派と見なすのではなく)植民地体制下の近代を通じ、こうした近代国家の建設に必要な人的資源が供給されたと見るべきだ」

「“われわれの力で解放を勝ち取れず、親日派を清算できなかったことにより歴史が歪曲(わいきょく)された”というイデオロギーが左派により広められているが、自らの力だけで植民地から解放された国がどこにあるというのだろうか。また、左派は“北朝鮮は親日派を清算した”と主張するが、本当にそうだろうか。天皇制イデオロギーに基づく日本軍国主義を継承した国家がまさに北朝鮮の首領体制ではないだろうか」

「木村光彦教授の著書『北朝鮮の軍事工業化』を読んで知ったことだが、金日成(キム・イルソン)主席が南侵を決行する上で、日帝が建設した軍事工業施設が一役買っていたそうだ。800人にも及ぶ日本人技術者らが韓国戦争(朝鮮戦争)の直前まで北朝鮮に抑留され、工業生産の復旧に当たっていた。北朝鮮経済が1960年代まで韓国に先んじていたのも、日帝が建設した生産基盤のおかげだ。金日成主席の北朝鮮は、精神・物質の両面で日本帝国主義の申し子ということができる」

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「真の検閲者は韓国の暴力的民族主義」と見抜きながら、こういう発言を韓国最大の新聞・朝鮮日報に載せる。
李栄薫教授の勇気に敬意を表したい。

「韓国人は自ら伝統を否定し、批判した経験がない。韓国の伝統を批判した日帝が敗亡し、それにより伝統自体が美化され、産業化の始まりとともに民族主義的に利用された」

まさにそのとおりである。

日本に併合される前の韓国は極めて貧しく、政治的には清(中国)と属邦関係にあった。そして朝鮮王朝は、既に統治権力としての権威を失墜していた。しかも、制度的には奴隷制の残る前近代的な身分制社会だった。
李教授も「朝鮮王朝は19世紀には既に事実上解体されていた」「18世紀中ごろに比べ、農業生産力は19世紀末にはほぼ3分の1の水準にまで衰退した」と語っている。
つまり当時の韓国は、政治的、経済的、社会制度的制約から、自力で近代国家へと脱皮できるような状況ではなかったのである。

李完用や一進会が、日清戦争や日露戦争という歴史の激動を直視する中で、日本との併合による韓国・朝鮮の近代化を志向したのはむしろ当然、ある意味では歴史の必然だった。
ところが今の韓国は、李教授が指摘するように、当時の「韓国の遅れた伝統」を美化し、「遅れた伝統」を批判した日本(日帝)を悪者にすることによって自らの歴史を合理化しているのである。
1世紀も経過しているのに、今になって李完用などを「親日派」「売国奴」として弾劾し、その子孫から財産を没収するなどという、およそ民主主義国家では考えられないことが行われるのも、「韓国人は自ら伝統を否定し、批判した経験がない」からである。

「総督府は国有地を巡る紛争を公正に扱っていたことが分かった」
「その大部分は朝鮮人農民らに有利な条件で払い下げられていた」
「食糧を日本に搬出したのも市場を通じた商行為に基づくものであり、強奪したわけではない」
にもかかわらず
「日本人の巡査が土地調査事業を妨害したという理由で、朝鮮人農民を裁判にもかけずに処刑する」などという「ねつ造本」(小説「アリラン」)が350万部も売れる。李教授はこの本を「憤怒の念と狂気で満たされた作品」と批判しているが、一般の韓国人はこの批判に耳を貸さないだろう。

これも、韓国が「厳格なジャッジ」がいない「後進社会」だからであり、「暴力的民族主義」が自由な言論を圧殺するからである。
その結果、「(植民地支配を実際に体験した)高齢者よりも若い世代で反日感情が強くなった」のだ。

ヨルリン・ウリ党などの左派は「われわれの力で解放を勝ち取れず、親日派を清算できなかったことにより歴史が歪曲(わいきょく)された」と主張しているようだが、歪曲しているのは左派だろう。
「建国に参加した人々は、官僚、教師、会社員、銀行員などのテクノクラートであり、近代国家を建設しようとすれば、近代が要求する知識・技術体系を習得した人々が必要になる。(彼らを親日派と見なすのではなく)植民地体制下の近代を通じ、こうした近代国家の建設に必要な人的資源が供給されたと見るべき」という李教授の主張はまさしく正論であり、朝鮮戦争を戦った韓国軍の幹部もほとんどが旧日本軍の軍人だった。
ところが「近代に無賃乗車」し、「市場経済を受け入れる際の代価を支払うこともなかった」という自覚もないまま今の繁栄を享受している連中に限って「親日派を清算できなかったことにより歴史が歪曲(わいきょく)された」と主張する。

「天皇制イデオロギーに基づく日本軍国主義を継承した国家がまさに北朝鮮の首領体制ではないだろうか」という提起には同意できないが、李教授が展開する主張は概ね正しいと思う。

「自由と信頼、法治の文明精神」に基づくと李教授のような認識になる。が、今の韓国では、李教授のような人は「謝罪や引退、または逃亡に追い込まれるほかない」。韓国が真の民主主義国家になれるかどうかは「反日」を克服できるかどうかにかかっている。しかし、李教授に対する韓国世論の反応を見ていると、それは極めてむつかしいと言わざるをえない。

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李教授は2004年9月にも、韓国のキー局であるMBCの討論番組で以下のような発言をしている。
「挺身隊(“従軍慰安婦”を韓国ではこう呼ぶ)は商業的目的を持った売春業」
「韓国戦争(朝鮮戦争)当時の韓国人による慰安所や米軍部隊近くのテキサス村に対する(韓国人の)反省と省察がない」
「朝鮮総督府が強制的に慰安婦を動員したと、どの学者が主張しているのか」
「日本は挺身隊を管理した責任があるが、韓国民間人の問題も取り上げるべきだ」

つまり李教授は、朝鮮戦争当時、韓国人自身が慰安婦を募集し慰安所を開設していたではないか、第二次大戦中の“従軍慰安婦”も同じ構図だったのではないか、と主張しているのである。
また李教授は、「朝鮮総督府が強制的に慰安婦を動員したと、どの学者が主張しているのか」とまで述べている。これは、韓国の学者の間では“従軍慰安婦”は朝鮮戦争当時の米軍向けの慰安婦と同じで、「商業的目的を持った売春業」であったと認識されていることを示している。
にもかかわらず、表に出てくるのは「日本は韓国のうら若き女性を強制連行し、性奴隷として酷使した」という怨嗟のこもったわが国に対する非難一色なのである。

まさに「真の検閲者」である「韓国の暴力的民族主義」が事実をねつ造し、歴史を歪曲しているということだ。

李教授はかつて、「韓国の歪曲された教科書で学んだせいか、反日感情の根がかなり深くなっている」「私たちが植民地時代について知っている韓国人の集団的記憶は多くの場合、作られたもので、教育されたものだ」と語ったことがある。
「歪曲された教育」が「歪曲された民族意識」を生み出し、国家や社会までも歪曲してしまう。
われわれも歪曲された教育、歪曲されたメディアの報道に汚染されないよう、常に注意しなければならない。

それにしても李教授が「謝罪や引退、または逃亡に追い込まれ」ていないことに驚くとともに、そこにかすかな希望を見出す。
李教授には、今後ともくじけることなく頑張ってほしいと思う。

なお、「ここ数年間、韓国社会が深刻な摩擦と対立を経験したのも、余りに観念的かつ道徳的な性理学的思考からもたらされたものではないかと思う」という李教授の指摘に強い注意を払いたい。
「余りに観念的かつ道徳的な性理学的思考」とは、硬直した原理主義的思考のことだ。
韓国で言えば「反日」あるいは「反米」思想のことである。
「反日」「反米」の前では一切の論理的、あるいは実証的思考が拒絶される。

ここで気になるのが、わが国における民族的自覚を促す人たちの論調である。これと同じことがわが国でも起こっていないか???
例えば天皇制に関する論議、米国との関係に関する論議、あるいは中国人、韓国・朝鮮人に関する論議。
ここにおいて「硬直した原理主義的思考」が顔を覗かせていないだろうか???

天皇は男系継承が“絶対”であってそれ以外は許さない、これは「余りに観念的かつ道徳的な性理学的思考」ではないのか???
今の日米同盟を捉えて「日本は米国の属国」と貶す(けなす)のは、あまりにも現実から遊離した非難ではないのか???
中国人あるいは韓国・朝鮮人というだけで“悪”と決め付ける、これも「暴力的民族主義」ではないのか???

私は「天皇は男系継承があるべき姿だ」と思っている。が、それが“絶対”とは思っていない。
米国との関係で、わが日本国が“従”の立場にあるのは間違いない。が、東アジアの“力の均衡”を考えれば米軍のプレゼンスを無視するわけにはいかない。
中国人あるいは韓国・朝鮮人に犯罪者が多いのは事実である。が、だからと言って中国人あるいは韓国・朝鮮人というだけで差別するのは間違いだと思っている。

物事に“絶対”はない。
“絶対”があるのは宗教であり共産主義である。もっと言えばカルトである。
人間は常に柔軟でなければならない。精神は自由でなければならない。そして物事はすべてが相対的である。
“絶対”が支配する社会―それこそ人類の不幸である。

「思想、良心、信仰の自由」は、いかなる社会においても保障されなければならない。
それを制約できるのは、社会及び国民の平和と安寧を脅かす危険性があるときだけに限られる。
これが民主主義であり、われら日本国民は戦後60年間を経てそのことを醸成してきた。
われわれは、ここから後退してはならない!!!