渡嘉敷島の「集団自決」のウソ(国民年金の花柳な生活さん) | 日本のお姉さん

渡嘉敷島の「集団自決」のウソ(国民年金の花柳な生活さん)

ようちゃん、お勧めブログ記事。↓

国民年金の花柳な生活さんの集団自決の嘘を書きます、先日の続編

■2007/06/14 (木) 空想と現実

 初めてワイキキの浜を訪れた人の感想は大抵「思ったよりも狭かった」である。名所旧跡にはそういう場所が多い。

 私が忘れられないのは二見ヶ浦の夫婦岩を見た時だ。日本を代表する景勝地であり、日本国の象徴とも言える土地の最も有名なスポットが、余りにも小さく、余りにもみすぼらしいのでガッカリした記憶が残っている。それまで写真で見て想像していた風景は雄大で荘厳なものだった。しかし実際は狭い通路を観光客がウロウロし、近くではサザエのつぼ焼きを売っているといった環境なのである。
 「名所」と呼ばれるものにはこういう所が多い。演劇や歌の中によく出て来る法善寺横町の「水掛不動」も実際お参りすればその狭小さに驚くであろう。

 渡嘉敷島の「集団自決」があったとされる場所について、曽野綾子さんは次の様に書いている。
『私は自分が案内された自決場のことを思い出した。あの谷に三百数十人が一時に入りこむことは不可能に近い。死んだのが三百数十人なのだから生き残った人たちをいれたら数百人があの谷にいたことになるのだが・・・・今よりもっと木が茂っていたとしたら、小学校の校庭に集合するように整然と集まって自決命令を受けることなど、あの狭い谷の状況では無理である』

 名所旧跡ではないが人々は勝手にその場所を想像して、勝手に思い込んでしまうのだ。現場を見れば有り得ない事も空想の世界では簡単に実現してしまう。

 沖縄戦で屡出て来る「壕」とはどんなものであろうか。本土の我々が垣間見るのは摩文仁の丘や姫百合の塔の整備され観光化した壕のみである。渡嘉敷島の守備隊本部があった所も狭い窪地であったらしい。

 停戦協定の後、山を降りた守備隊長の赤松大尉はでっぷり肥った身体で、「女」を従えていたと実しやかに伝えられているが、実際の赤松元大尉は痩せぎすであった。
 
 守備隊が奪ったとされる食糧もその様な事実はなく、寧ろ戦闘が始まる前に軍倉庫の米を住民と山分けしているのだ。沖縄では米を籾のまま保存する習慣なので内地から派遣された守備軍は面食らったらしい。牛は生きたままの水牛である。民間では処理が難しいので軍が取ったといわれる。

 実地検分するだけで何が正しく何が間違っているか凡その見当は付く。次は当事者に会って話を聞き疑問点を問質していけば良い。
 要はそれをやるか、やらないかである。

■2007/06/13 (水) 「鉄の暴風」の背景

 「沖縄ノート」に戻る前に先日取り上げた朝日新聞「定義集」{書き直された文章を書き直す}に触れておきたい。この記事は高校教科書の改訂に危機感を持った朝日新聞と大江氏が改めて「沖縄ノート」の信憑性を強調したものである

 この期に及んでも尚自己の正当性を主張し《両島で430人を超える「集団自決」の死者があり、島民が集まって行動を起こす日、守備隊長二人が、これまで軍の命令した事は取り消す、「自決」をしてはならない、と言う新しい命令を出すこともなかった、という事実は動かせません》と言っている。

 出してもいない命令をどうして取り消さなければならないのか。私の様に捻くれておらず、新聞から知識を得るだけの正直な読者は大先生の言葉に納得してしまうかもしれない。
 何回でも言うが大江氏の誤りは、自分の脚を使って調査をしないで、他人の集めた情報を聞くだけの横着な取材方法にあるのだ。

 「定義集」で氏は情報提供者の中から、著名な2人の沖縄人の名を挙げている。その一人、牧港篤三氏は沖縄新報記者として沖縄戦を取材し、敵軍が首里城に迫って来るまで、壕の中で新聞を発行し続けた人である。戦後、沖縄タイムスを創刊。昭和25年太田良博氏との共著「鉄の暴風」を発行した。この有名な戦記は沖縄戦を語る時欠かせぬバイブル的存在である。

 実際に戦闘に参加した体験は重みがあるが、「集団自決」に関する限り「牧港氏は慶良間列島にはいなかったのである」 曽野氏流に言えば《一市民として、私はそれ程の確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかったからである》という事になる。

 大江氏が名を挙げたもう1名の知識人、新川明氏は「異族と天皇の国家」などを著し、沖縄にとって日本は何なのかという大江氏と同じテーマを持つ。
 大江氏のずるい所はこれらの著名な知識人の名を借りて自説の権威付けを図り、同時に最終責任は情報源に押し付けている所であろう

 曽野氏は「鉄の暴風」の共著者太田良博氏にも直接会って取材しているが、当時の沖縄は交通事情が悪く現地に行く事が出来ないので、2人の島民に那覇まで来て貰って証言を得たと言う。しかし2人とも渡嘉敷島の目撃者ではない。又、太田氏はこの戦記は米軍を良く、日本軍を悪く言う当時の世評を反映していたとも述べている。

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自決するように言ったのは、現地の日本兵で

それが日本軍の命令ではなかったのだろう。

当時の兵隊は、自決する方がアメリカの捕虜になって

苦しむよりもマシだと思いこんでいたのではないか。

自決手段として手榴弾を渡された村の年寄りや女性たちは、

手榴弾が足りなくて、ひとつの手榴弾で3人が同時に死のうとして

中途半端な傷を負い、苦しみながら死んだ人もいるそうだ。

姉を死なせ、自分たちはどうせ死ぬなら敵に突っ込んで

死のうと思って、米軍キャンプに向かったら、村に来て

手榴弾を持ってきた兵隊もキャンプに降伏しに

向かっていたので、「ダマされた!」と思ったそうだ。


その時、子供だった人は大人になってイエス・キリストを

信じて牧師になっている。

日本軍としては、集団自決を命令はしていないが、当時の

常識として、戦えない年寄りや、女性や子供は自決するのが

当たり前になっていたのではないかと思う。


430人も集団自決したというのは、数字がデマだろう。