インドネシア独立を支えた大和魂 (毒吐き@てっく) | 日本のお姉さん

インドネシア独立を支えた大和魂 (毒吐き@てっく)

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▼インドネシア独立を支えた大和魂 (毒吐き@てっく)
かつてインドネシア独立の為に植民地宗主国のオランダと戦った日本兵、

藤山秀雄さんに捧ぐ

インドネシア残留日本兵が死去 対蘭独立戦争を戦う(キャッシュ)

昭和16年に大東亜戦争が始まり、日本は南進し、まずシンガポールが2

月15日に陥落した
ついでマレー半島のペナンを占領大日本帝国は、東亜の人々を白人の

圧政から解放するというのを目的として行動していた
チャンドラ・ボースの独立運動を支援したので有名な藤原機関が現地

調略に尽力した

次はインドネシアに侵攻するから、住民は協力せよとラジオで放送した
3月1日、今村中将率いる第16軍が、インドネシアのジャワ島に上陸
オランダ軍は抵抗したものの、たった2週間で撤退した
近衛師団は、住民の大歓迎をうけて進駐、今村師団は、ジャカルタで

軍政を敷き師団司令部を置いた
※日の丸の旗を打ち振り、日本を歓迎する当時の模様が散見できる映像

http://www.youtube.com/watch?v=6QvyLkdl1_s

今村司令官による布告第1号

一、日本人とインドネシア人は同祖同族である
一、日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
一、同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する


オランダの植民地であったインドネシアの人々は驚いた.

それまで、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の

関係でしかなかった.日本は違った.

現地に入るやいなや、現地の人々との共存共栄を唱えた.

今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかった日本が

最初にやったのは、オランダ軍に拘束されていた独立運動指導者の

開放だった
それが後の大統領スカルノであり、ハッタ博士であった

日本はスカルノを優遇し、潤沢な資金を与えて、独立運動を援助した

それまでオランダは徹底した愚民政策をとり、インドネシア人をなかば

奴隷のように使っていたオランダは、一部の貴族富裕階級の師弟のみを

留学させて、統治の協力者とさせ、一般の教育を怠ったため、ほとんどの

国民は文盲だった

日本軍は、オランダ語を公用語から外し、全国の学校でインドネシア語を

教えて、国語の統一を図った

また、オランダは、貿易品として煙草やムの栽培だけを行なわせ、決して

米を作らせなかった

対して、日本は米作を奨励して、食料の自給を図った.

さらに、日本軍はインドネシアの独立を図るため、インドネシア人による軍事

力の強化を応援し、ナショナリズム高揚のため、義勇軍を募集した
現地の若者の中に、愛国心が一挙に高まり、志願者が殺到した.ジャワに

3万5千、スマトラに8千人の義勇兵が集まった
青年道場を作って日本中野学校出身の教官により、厳しい訓練が行なわれ

たこれらの動きが、ムルデカ(インドネシア独立)の発端となっていく

インドネシアの中学校の教科書より抜粋
日本の占領は、後に大きな影響を及ぼすような利点を残した。

第一に、オランダ語と英語が禁止されたので、インドネシア語が成長し、

使用が広まった。日本軍政の3年半に培われたインドネシア語は驚異的

発展をとげた。

第二に、日本は青年達に軍事教練を課して、竹槍、木銃によるものだった

とはいえ、きびしい規律を教え込み、勇敢に戦うことや耐え忍ぶことを

訓練した。

第三に、職場からオランダ人がすべていなくなり、日本はインドネシア人に

高い地位を与えて、われわれに高い能力や大きい責任を要求する、

重要な仕事をまかせた。



インドネシアのペタ(PETA) : 祖国防衛義勇軍の様子(動画)

http://www.youtube.com/watch?v=dHRyiPjc5E8&NR=1


話は日本の敗戦後に移る.インドネシアの独立を約束した大日本帝国は

敗れた.そして、日本軍によってその地を追われていたイギリス、

フランス、オランダが軍隊をもって東南アジア諸国に再上陸を始める

現地の人々は、誰もがこう思った東亜の理想は破れ、夢と潰えたのだ、

としかし・・・そこには、大和魂を持ったサムライ達がいた8月17日、

終戦のわずか2日後、インドネシアの民衆の前で二人の男が演説をした

男達は、かつて日本軍によってオランダ占領軍から救いだされた、

スカルノとハッタだった

二人はオランダ軍の再上陸を目前にして、宣言文を高らかに読み上げた

我々インドネシア人民は、ここにインドネシアの独立を宣言する

権力及びその他の移行に関する事項全ては迅速かつ簡略に遂行される

ジャカルタ  17th,8,'05
インドネシア人民を代表して
スカルノ-ハッタ


ちなみに、この05年というのは、「皇紀」を表している、昭和20年は

「皇紀2605年」にあたる

この時、スカルノとハッタの傍らには、4人の日本人もいた
海軍少将前田精氏
新聞記者吉住留五郎氏
陸軍司令官通訳三好俊吉郎氏
海軍嘱託西嶋茂忠氏

そして、50人ほどの若きインドネシア人達がいた.そして、スカルノとハッタに

率いられ、インドネシア独立の戦いに立ち上がったのは、
日本軍によって創設されたペタ(PETA) : 祖国防衛義勇軍だった

彼らを統率し、最前線に立ったのは、2000人の元大日本帝国軍人だった

ペタ(PETA) : 祖国防衛義勇軍の歌

アジア、すでに敵に向かい、蜂起せり 
己を捨てて全力を尽くす
連合国を粉砕せんと 玉散ることもいとわず
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

古きアジア 不幸に苦しむ
烈しき圧制に 幾世紀も忍ぶ
大日本 雄々しく立てり アジアを救い 我らを守る
進め 進め 義勇軍 アジアとインドネシアの英雄 清き東洋に幸あれ

この歌は、今も歌い継がれている


インドネシア独立戦争が始まった.インドネシアのみならず、東南アジア

各国で、独立の戦いが始まったベトナムは、フランスに対してホーチミンが、

ビルマはイギリスに対してBIA(ビルマ独立義勇軍-日本人によって創設・

訓練された)10万人を率いたウォン・サンが、インドでも、マレーシアでも、

カンボジア、ラオスも続いた

彼らはもはや白人の奴隷に甘んじることはなかった

誇り高き日本人の戦いを目の当たりにした彼らは西欧に対する有色人種の

劣等感を捨て去っていた. 

日本が敗れ去ったとき、自らの手で武器を取り、民族の誇りを胸に、

自らの手で自由と独立を勝ち取るための「自分達の戦い」を始めた


話はインドネシアに戻る. 

独立を目指すインドネシアにとっては日本敗戦後の戦いは、まさに死闘

だった
日本軍による3年半の軍事訓練を受けたとはいえ、近代的兵器で武装した

イギリス、オランダなどの連合軍に抗するのは困難を極めた

そう簡単に勝てるわけがない

敗れた日本軍の兵士たちはこの状況を見て、立ち上がった

独立を約束しながら果たせなかったという責任感もあった多くの人が

現地に残り、インドネシアの民衆の先頭に立って戦い、その半数以上が

彼の地の土となった

このインドネシア独立戦争は連合国を相手に4年間も続き、死者80万人

という犠牲を払った

そして民族の尊厳と独立に命を捧げた日本兵は、インドネシア独立の

英雄として、ジャカルタ郊外のカリバタにある国立英雄墓地に丁重に

祀られている

このインドネシアで戦った日本兵の方々も、あっしにとっては誇るべき

英霊の方々です
みんなにとってもそうであることを祈りつつインドネシア独立に命を捧げた

元日本兵の方々そして、藤山秀雄さんのご冥福をお祈り申し上げます
 

南の祖国に生きて―インドネシア残留日本兵とその子供たち (-)
上坂 冬子 (著)

独立戦争の兵士を顕彰するインドネシアの英雄墓地には元日本兵も

葬られていた―日本の敗戦後、運命のいたずらでインドネシアに留まった

残留日本兵たち。その戦後の苦難の歩みと、日本に留学して

インドネシア経済界で活躍する彼らの子供たちの現在を描く同時代ルポ。
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インドネシアは、チャイナにおもねって

日本が国連の常任理事国になることに反対した。

納得できない。独立した時に元日本兵が命をささげて助けたことなど、

今の若いインドネシア人は覚えていないと思う。でも、一般の

インドネシア人は日本に対していい感情を持っている。

でも、研修生は、どうかな、、、、。日本が好きなまま国に帰ってくれると

いいけど。by日本のお姉さん