教育を投資として考えてみよう!
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難しい話なので、興味がある方だけ読んでください。
▼【論文】末は博士かホームレスか(永井俊哉)
もしもあなたが日本の大学院の博士課程に進学すれば、周囲からこうささやかれるだろう。なぜならば、たとえ博士号を取得できたとしても、ホームレスにしかなれないぐらいに、今後、余剰博士の問題は深刻になるからだ。「末は博士か大臣か」と言われた時代は終わった。余剰博士問題はなぜ起きるのか、その根本的な原因を考えながら、問題の解決策を探ろう。(永井俊哉ドットコム論文編より転載)
1. 大学院重点化で量産された博士
余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている」[文部科学省:大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ] と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。
大学院生の数は、この10年で倍近くにまで増え、その結果、大学院の入学試験は大幅に易しくなり、修士論文の水準は、10年前の卒業論文の水準以下になった。このため、技術系社員を修士課程の修了者から採用している企業は、質の低下に頭を抱えている [日本経済新聞:大学院肥大化のツケ, 2005/02/25;2005/02/26] 。
理系の修士課程修了者は、就職できるだけまだましである。大学院重点化の弊害は、博士課程で顕著である。文部科学省の『学校基本調査報告書』(平成14年度)によると、理系大学院博士課程修了者の内、大学教員等になれた者は、12.6%で、何らかの形で就職できたのは、62.7%である。
博士号取得者の就職率が低いのは、民間企業が、「博士は、社会経験が乏しくて、視野も狭く、プライドばかり高くて、役に立たない」と考えているからだ。実学色の強い工学系分野で比較すると、米国の博士課程修了者の民間営利企業への就職割合が約59%であるのに対して、日本のそれは約26%で、大きな差がある[文部科学省:博士号取得者の就業構造に関する日米比較の試み]。
博士号を取れなかった退学者の就職は、もちろん、これよりももっとひどいはずである。また、文系の場合、博士号をとることなく、博士課程を修了するのが一般的だが、民間にあまり需要がないこともあって、就職状況は理系よりも悪い。2003年の博士全体の就職率は54.4%で、この10年間で約10%低下している [読売新聞 2004/07/18] 。
政府は、余剰博士の救済策として「ポストドクター等1万人支援計画」を進め、年間1万人の博士に、公的機関が一時的に職を与えたり、数年間にわたって研究費や生活費を助成したりしている。ポストドクターの数は、2004年度で12500人で、「社会保険の加入状況から推定すると、常勤研究者並みの待遇のポスドクは半数程度しかいない」[読売新聞 2005/05/02] 。しかも、ポストドクターの中には、任期終了後、就職できずに、路頭に迷う人が少なくない。
余剰博士の問題は、今後ますます深刻になっていく。今後、少子化の影響を受けて、大学や短大が次々に廃校に追いやられ、研究職は減り続けていくであろう。しかるに、博士の大量生産はこれまで通り行われる。ますます減り続けるイスをめぐって、ますます多くの博士が競争することになるだろう。しかも、政府も、財政難のため、ポストドクターにばらまく金を増やすわけにはいかない。
かつては、就職できない博士の受け皿となった塾や予備校も、少子化のために倒産が相次ぎ、しかも、最近では、社会経験を積んだ講師の方が人気があるからということで、博士を採らなくなってきている。長年禁欲的に研究に励み、奨学金という借金を背負い、教授の奴隷としてこき使われたあげくに、就職できずに破産し、ホームレスとなって、最後は自殺か野垂れ死にか … これが博士課程進学者の悲しい末路である。
読者の中には、競争が激しくなった方が、優秀な人材が研究職に就くのだから、日本の大学や研究機関の水準を上げるという点では好ましいのではないかと反論する人もいるだろう。しかし、アカデミックポストの人選は、必ずしも実力本位で行われているわけではなく、教授の主観的な好みで行われることが多いので、水準向上は期待できない[i]。むしろ、教授の金と人事の権限が強くなればなるほど、若手研究者たちは、教授の奴隷とならざるをえなくなり、自由で独創的な研究がしにくくなるのだから、逆効果とすら言える。
[i] 日本の大学院がどういうところか知らない人は、
[大学院教育 その恐るべき実態] あるいは [
悪徳慶応義塾大学を告発する] などの、元院生による内部告発の
サイトを御覧いただきたい。
2. なぜ大学院重点化が行われるのか
ゆとり教育批判で有名な西村和雄は「大学院の重点化は、小・中・高校の
ゆとり教育と並ぶ文部科学省の失政だ」[日本経済新聞:大学院肥大化の
ツケ, 2005/02/25] と言うが、私は、大学院重点化と
ゆとり教育の目的は同じであると考えている。
両者は、少子化で減りつつある公教育の需要を増やすための政策である
と考えられる。
すなわち、就学者の絶対数が減っても、教育の質を落とせば、それだけ
長く学校にいなければならないから、公教育は収入を減らさなくてすむ
という計算があったと思われる。
では、大卒が高卒レベルになり、修士が大卒レベルになり、博士が修士
レベルになれば、以前は文系の大卒を採用していた企業は、修士を採用
するようになり、理系の修士を採用していた企業は、博士を採用するよう
になるだろうか。私は、多分そうならないだろうと思う。
教育の質が低下したということは、企業からすれば、人材のコストが割高
になったということである。修学年限が長くなればなるほど、機会費用を
含めた教育コストは増大するから、被雇用者はそれだけ高い給与を
求める。もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば、日本の
企業は、国際競争力を犠牲にしてでも日本の労働者を雇い続ける
だろうが、実際には、市場がグローバル化しているのだから、日本企業は、
より安くて有能な人材を海外に求めるであろうし、現にそうなりつつある。
私は、「もしも日本の労働者が労働市場を独占できるならば」と仮定の話を
したが、大学院の修了生に市場を独占させ、大学院の需要を確実に
確保することは、できないことではない。
医学部・歯学部・獣医学部は、他の学部では修士に相当する学位をとら
なければ、国家試験が受験できない。
そして、国家試験に合格しなければ、国内で医療活動をすることができ
ない。薬学部も2006年から6年制課程が設置され、国家試験受験資格も
6年の課程を必要とするようになる。
医学部では、一人前の医者になろうと思えば、医学博士が必要である。
医学部に関しては、今後とも「末は博士かホームレスか」という状況に
はならない。医学博士には、金と名誉が保証されている。
だから、医学部は非常に人気がある。そして、医学部と同様に、大学院と
資格を結びつけることで、甘い汁を吸いたいと考えた学部があった。
法学部がそうである。
3. 法科大学院が作られた本当の理由
2004年4月から、法科大学院という法曹のプロフェッショナルを育成する専門職大学院が創設された。当初、法科大学院修了者の7割から8割が新司法試験に合格すると言われ、人気を集めたが、その後、合格率が2割から3割になることが判明し、二年目は志願者が激減した。新司法試験は、3回までしか受験のチャンスがない。合格できない多くの法務博士が多額の借金を背負ったまま路頭に迷い、それがホームレスの博士を増やすことになるだろう。
法科大学院は、どうして作られたのだろうか。法科大学院の構想は、表向きは司法制度改革の一環として、提案されたのだが、この提案を最初に出したのが、法曹の現場ではなくて、1998年10月の「21世紀の大学像と今後の改革方策について」という文部省の大学審議会の答申であったことが、この構想の性格を雄弁に物語っている。
法科大学院のお手本はアメリカのロースクールである。アメリカの大学には法学部がなく、法曹(弁護士・裁判官・検察官など)を目指す人は、通常大学卒業後に法科大学院で3年間の教育を受け、修士レベルの学位を得た後、司法試験をパスして法曹資格を取得する。
これに対して、日本では、司法試験への受験資格はなく、試験に合格して司法研修を修了すれば、大学を出ていなくても、法曹資格が与えられる。しかし、司法試験は非常に難しいので、大学法学部での授業を履修しているだけではまず合格しないため、受験生の多くは司法試験のための予備校に通っている。そして、法科大学院の本当の狙いは、法科大学院を修了すれば、司法試験の合格が容易になるようにして、民間の司法試験予備校から教育需要を奪おうというところにある。
もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。
現状はどうなのか。日経新聞の記事から引用しよう。
「新司法試験の出題科目以外は授業中、耳栓をして自習しています」。西日本にある国立大の法科大学院が先月開いた懇親会で、学生の言葉に教授たちは驚いた。「合格することで頭がいっぱい。必要ない授業は、内職したり、途中で退出したり。まるで学級崩壊だ」。教授はため息をつく。
[日本経済新聞:大学院肥大化のツケ, 2005/02/27]
学生たちは、司法試験合格に必死なのである。試験と関係のない話を聞きたくないのは当然である。もしも本当に、学生たちの試験志向の態度を改め、プロセス重視の教育を可能にしようとするならば、司法試験を廃止し、法曹の選抜を、法科大学院の教授の主観的評価に委ねなければならなくなるが、これは弊害が大きい。
こうしたプロセス重視の教育論は、高校受験での内申書重視や大学受験での推薦入試導入の際になされた議論とそっくりである。1993年に脱偏差値を標榜する文部省が業者テストの排除を行って以来、内申評価が客観的評価から主観的評価に変質し、今日話題となっている学力崩壊の一つの原因になっている。プロセス重視の名のもとに、法曹の選抜が、法科大学院の教授の主観的評価によって行われるならば、同様な知識軽視が進むであろう。しかし、プロセス重視の選抜には、学力崩壊よりももっと由々しき問題がある。
4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる
プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。同じことが、法曹でも起きるだろう。従来の司法試験は、結果のみを判定したが、司法研修所では、プロセス重視の教育評価が行われていた。司法試験合格後、合格者は、1年半司法研修所で研修を受けるが、そのプロセスにおいて、任官志望者の選別が行われる。近年の長引く不況と合格者増の影響で、任官志望者数は増える傾向にある。ところが、選別の基準は不明瞭で、国家権力に従順な人物が選ばれ、反権力的な人が排除されていると言われている。
これに対して、弁護士には反骨精神のある反権力主義者が少なくないのは、プロセス不問で、学力だけで選抜されるからだ。法科大学院の課程で弁護士が選抜されるようになれば、教授に媚を売る茶坊主型の弁護士が増えることだろう。ちょうど病院が大学ごとに系列化し、医局が若い勤務医の人事を支配するように、法律事務所が法科大学院ごとに系列化し、ボス教授が弁護士の人事を支配するようになるだろう。
既存の大学における学位の認定や人事など、プロセス重視の選抜では、有能な人材ほど排除される傾向にある。
学位というものは、大学の入学試験や資格試験とは全く異なります。これは試験を行う者が現場を見ないで試験をやって、採点して何点取れば合格というものではありません。つまり、客観性が低く、学位を出せる成績かどうか判断する教官の主観に作用されることが大きいのです。優秀な成績を上げた、頑張った、努力したというのは必ずしも良い結果には結びつきません。いくら多くの業績を残したとしても、担当の教授が認めないと言えば不合格なのです。逆に、殆ど仕事をしていなくても、助手や技官の仕事等と併せて論文にまとめてしまい、楽に学位を取得する者も多数います。この様な状況の中で、学位が欲しい学生と成績を判断する教官との間に大きな力の差が生まれます。
そうすれば、学生はどうしなければならないでしょうか。お気付きになったと思いますが、学位を取りたいと思うならば、担当の教官との人間関係を損ねないのは絶対条件です。たとえ無茶な要求をされたとしても、どうしても学位が欲しいのなら、我慢して命令に従わなければなりません。
[大学院教育 その恐るべき実態]
学問的に無能な教授ほど、研究に専念する有能な部下よりも、自分のために雑用をやってくれる無能な部下をかわいがる。そして、無能な部下は、出世すると同じことを繰り返す。厳しい市場競争に晒されている企業のトップが、周囲をイエスマンで固めると淘汰されるが、大学は規制と補助金で守られているから、腐ってもなかなかつぶれない。そして問題の根源は、ここにある。
5. 教育と研究に市場原理を導入せよ
これまでの議論をまとめよう。公教育は、ゆとりの教育によって教育の質を下げ、大学院重点化により修業期間を増やし、少子化に伴う需要の減少に歯止めをかけようとした。もちろん、大学院重点化の表向きの理念は、高度に複雑になった社会に対応できる質の高い人材の供給ということなのだろうが、学位が高くなっただけで、能力は高くない人材の押し売りをすることは、大して性能が向上していないソフトを「アップグレード版」と称して高値で売りつけることと同様に、売り手が市場を独占していなければできないことである。
そこで大学人たちは、大学院を出なければ、国家試験が受験できないように、制度を変えることで、教育市場を独占しようとした。法科大学院を作るときも、当初、法科大学院を修了しなければ、司法試験が受験できないようにする予定だったが、法科大学院に行かなくても受験できる抜け穴を作ったため、独占に失敗し、いまやその存続が危機に瀕している。
私は、法科大学院の優遇制度がなくなることを望んでいる。医師国家試験も、かつての司法試験と同様に、学歴とは無関係に受験できるようにするべきだ。その代わり、筆記試験のみならず、実技試験をも盛り込んで、知識だけでなく、技能的にも優れた医師が選抜されるようにすればよい。そして、医師国家試験のための教育は、市場原理の機能する営利企業に任せればよい。そうすれば、今よりも早く、かつ低コストで医師が育つようになる。一方で、入り口の敷居を低くしつつ、他方で、問題の多い医師の免許を取り消して、出口も大きくした方が、入り口も出口も小さい現在の制度よりも、日本の医療サービスの質は向上するだろう。
私たちは生産者中心の論理を消費者中心の論理へと変える必要がある。法学部であれ、医学部であれ、どこであれ、優秀な人材を短期間かつ低コストで効率よく育成するには、政府が教育産業から撤退するべきだ。政府が公教育という殿様商売を続けていると、社会のニーズと合致しない割高な粗悪品を量産することになる。政府は学位認定と資格認定を前提条件なしで行い、教育機関はすべて市場原理の機能する民間企業に委ねるべきである。もしも日本の教育機関の効率が良くなれば、海外からの留学生も増えるから、少子化が進んでも、日本の教育産業は衰退することはない。
読者の中には、教育を営利企業に任せるのはかまわないが、非営利の学術研究まで市場経済に委ねるわけにはいかないと反論する向きもあるだろう。確かに市場経済に委ねるわけにはいかないが、それでも市場原理を導入することは可能である。
学術研究に資金を出すとき、どのプロジェクトにどの程度出すかが問題となる。官僚には、先見の明がないので、何が有望な研究かを文部科学省の官僚に決めさせるわけにはいかない。また、若手研究者への資金の配分をボス教授の主観的裁量に委ねると、若手研究者がボス教授の奴隷になるので好ましくない。
だから、政府は、資金を有望な研究のための予算として出すのではなくて、優れた過去の業績への報奨金として支出すればよい。過去の業績の優劣の度合いは、被引用数に基づいて、客観的に数量化可能であるから、機械的に配分できる。ただし、報奨金は、研究者ではなくて、研究者に研究資金を提供した投資家に支払われる。もちろん、研究者が自分の金で研究を行ったならば、本人が受け取ることになる。
こうした投資家に、非営利の財団だけでなく、営利の投資会社もなれる。提供した研究資金以上の報奨金が入れば、その差額が利益となる。その利益は、有望な研究プロジェクトを見つけた仕事に対する報酬である。ここからも分かるように、この制度は、政府の仕事を民間に委ねることを意味している。官僚とは異なって、民間の投資家は、投資に失敗すれば、損失を被る。だから、いい加減な判断はできない。
この制度の下で、資金が特定の研究者に集中することはない。実績のある研究者と契約を結ぶことは、競争が激しいので、条件が悪くなり、ローリスク・ローリターンになる。実績のない研究者の場合は、わずかな研究資金で契約を結ぶことができるから、ハイリスク・ハイリターンとなる。この点、一般の投資と変わるところはない。
私の提案は、ベンチャービジネスへのアメリカ流の投資方法を学術研究にも応用することにある。日本とは異なって、アメリカのベンチャービジネスの経営者は、事業に失敗しても、すべての負債を抱えて破産するということはない。また、アメリカの大学院生は、奨学金という名の借金を背負って破産することはない。
投資家と研究者は、オープンな横の関係にあり、教授と若手研究者のように、クローズドな縦の関係にないので、研究者は自由に研究ができる。現行の教授は研究職というよりも管理職なのだが、投資や経営といった仕事を素人の老研究者にさせるよりも、専門家に任せたほうが、分業による効率化が期待できる。
自分の研究を若手に押し付け、ファーストオーサーとして若手の研究成果を横取りする教授の存在は有害である。上の世代による下の世代の搾取は、私が「非対称的贈与システム」と名付けたオートポイエーシスで、一度作るとなかなか廃止できなくなるのだが、これを廃止しないと自由な研究はできない。
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ようちゃんのコメント。↓
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「東大生はバカになったか」文藝春秋, 2004/03/12・立花 隆著
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以上がお勧め本です.教育の現状を見つめ、しっかりとした子供の
教育方針を検討する上で参考になります