戦後の赤狩り | 日本のお姉さん

戦後の赤狩り

レッドパージ
 渡部亮次郎

6月6日はレッド・パージの日である。1950(昭和25)年のこと。

<レッドパージ red purge 共産党員とその同調者を公職・企業などか
ら追放すること>

と広辞苑はとりあげ「日本では1949~50年、GHQの指令により、大規模に
行われた追放をいう」と説明している。現在の世の中では考えられない
事態だった。追放された人たちは翌日からどうやって生きただろうか。

1950年の朝鮮戦争勃発(6月25日)前後の時期に、アメリカ占領軍の指示と
支援のもとで、政府や企業が実施した日本共産党員とその支持者に対す
る一方的解雇のことである。赤は共産党の色、パージは追放。

これに先立つ1949年には行政機関職員定員法による〈行政整理〉や民間
産業の〈首切り・合理化〉による〈企業整備〉が下山事件,三鷹事件,松
川事件などが相つぐなかで強行されたが、この間、約3万人の事実上のレ
ッドパージが行われた。

また49年から50年にかけて総司令部民間情報教育局顧問イールズが全国
を回り〈赤色教員追放〉を演説し(イールズ声明)、小・中・高校の教職員
2000人が解雇された。その後の日教組教育を受けた人はこの事実を受
け入れれないだろう。

ただし大学では、学生を中心とする反対闘争によって、一部を除きレッ
ドパージは阻止された。

まず50年5月3日,占領軍最高司令官マッカーサーは共産党を非難する声
明を発表、6月6日には吉田茂首相に書簡を送り共産党中央委員24名(うち
国会議員7名)の公職追放を指令した。

翌7日にも同党中央機関紙《アカハタ》編集委員17名を公職追放した。こ
の指令には,占領当初の軍国主義者の公職追放措置が適用された。

月25日に朝鮮戦争が勃発すると、翌日に日本共産党機関紙《アカハタ》
停刊が指令され、さらに7月24日に総司令部民政局が新聞社代表に指示し
て、28日から新聞・通信・放送関係でレッドパージが始まり,8月5日まで
に50社で704人が解雇された。私はその後の何人かと面会している。

次いで8月26日には電気産業で2137人が解雇されたが、電産労組の反共民
同派が組合員再登録の特別指令を出して,共産党員を組合から排除する
ことと会社のレッドパージが同時に進行した。

さらに9月から10月にかけて、映画、日通、石炭、私鉄、造船、鉄鋼、化
学、機器など全産業に広がった。また9月1日、〈共産主義者等の公職か
らの排除に関する件〉が閣議決定され、国鉄、電通、農林、郵政、通産
などの政府機関でも強行された。

こうした中で日本経営者団体連盟は10月2日、〈赤色分子排除処理要綱〉
を各企業経営者に提示した。こうして民間企業のレッドパージは537社で
1万0972人(労働省調べ、1950年12月10日現在)、政府機関では1171人(
事院調べ、1950年11月15日現在)となった。

このレッドパージは、朝鮮戦争の基地としての日本の治安維持の必要か
ら占領軍権力により超憲法的に実施
されたが、当時、日本共産党は分裂
状態にあった。

従って有効な反対闘争を組織できず、労働組合から排除されて労働運動
への影響力を決定的に弱め、産別会議も指導力を失い弱体化させられた。
(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス参考)

<労働組合も反対の意思表示をしただけで、マッカーサーの前では具体
的な運動はほとんどできず、以後の労働運動は大きな打撃を受けた


アメリカでも、1950年代にマッカーシズムによる「赤狩り」がおこなわ
れた。

原爆の父とよばれたオッペンハイマーが水爆の開発に反対して公職追放
され、戦争に反対した喜劇俳優で映画監督のチャップリンがイギリスか
らの再入国を拒否されるなど、多くの学者・文化人がその犠牲となった。


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All rights reserved.参考
渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針  第827号

           平成19(2007)年06月06日(水)

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戦後の日本には、共産党が多かったんだな。

マッカーサーがレッド・バージをしなかったら、日本は共産国に

なっていたかもしれないね。