(心に青雲)さんブログから日本人の姓(3)
▼苗字の仕掛けに見る日本の素顔(3)「心に青雲」より
《3》「八つ」の民
北条氏は平家なので、「八つ」系である。その連中が住まわされたところが、「はち」の付く土地で、「八甲田山」「八王子」などがそういうことになるし、苗字の場合は「八田」「八島」なんかがそうだろう。「はち」を「鉢」や「蜂」の当て字にして、「蜂須賀」とか「蜂谷」という土地や苗字が八つ系=平家系なのである。源平の戦場となった平家の根拠地、四国の「屋島」も「や」がつく。
北条政子を葬った場所が、今バラ園で有名な「谷津(やつ)」なのも、当然「八」に関連する。
八は「や」とも発音するので、店の屋号として「尾張屋」や「三河屋」などとして(現代では必ずではないが)「屋」がつくのは、この「八」からくる。由来は信長からで、彼も名古屋近辺の賤民にされた「八つ=平家」だったから、近畿一帯を抑えたときに商人たちに「ヤ号」を付けさせたのだ。その信長も、近江八田別所(被差別地区)の出なので旧姓は「八田」である。そこから尾張の織田家に仕え、勝幡城の城番にしてもらい、織田の姓を賜ったのだ。だから、武将の家に生まれ、幼いころは気違い沙汰の奇行をして家老を心配させた、なんてのは創り話もいいところだ。
名古屋市の「市章」は、○に八の字である。下記の名古屋市のサイトに出ているので、ご覧いただきたい。
http://www.city.nagoya.jp/kankou/profile/nagoya00000012.html
これによると、尾張徳川家の合印をそのまま採用したとかきれい事が書いてあるが、真相は、名古屋地区が「八」の族=平家系の別所つまり差別地区だったからである。江戸時代に参勤交代で行き来する大名行列は、名古屋は通れず、伊勢湾を船で渡らされたのは、名古屋が徳川親藩のゆえというより、「八」の拠点だから忌避されたのである。マルハチというヤ号の会社や店が名古屋には多い。マルハ(旧大洋漁業)も、オーナーは中部で「ナ」だから「あかさたな系」で、しかも水産関係なのだから、ぴったり合う。
ついでながら、名古屋市にある天白区は、名古屋が「八=平家=赤」の在所であるから、四つの騎馬系=源氏系が暮らしやすいからと仲間に入れてもらうために、天白川で禊ぎをさせられたのが由来である。本当は「転白」の意味で、白の源氏系が転じて赤の平家系に入ることであった。天白川も本来は転白川である。
北海道の漁師を「ヤン衆」と呼ぶのも、やはり平家(海人族)系だからである。このほか八の系統は地方によっては、祇園の「祇」とか「宮(みや)」とも蔑称されていた。大工でも賎民の大工を「宮大工」といったから、宮田、宮本、宮川というような苗字は平家系なのだろう。ヤクザ、ヤア公も、当然ながら賤民とされた連中から派生しているから、そうなる。
また、平家系は農耕民だから、当然、田畑に関わる。それゆえ「田」の字のつく人も平家系である。「田宮」「田所」あるいは「高田」「浜田」などがそれである。また平家系は海洋部族だったから、漁労民でもある。彼らは遠くペルシャからアレキサンダー大王の東征によって追われてアジアの端(インドシナ半島など)に逃げ、さらに黒潮に乗って日本に流れついたものである。だからペルシャ・ササン朝では海または海の神のことを「YAMA」と言ったので、それが日本まできて、(八切止夫によれば)意地悪く逆にされ、漢字の「山」の字を当てられた。ヤマトタケルは海洋民族だということになる。それで「山本」「山下」などの苗字はみんな海洋民族=平家系の末裔となる。
のりなど、海産物を扱う商店なのに「山本山」「山形屋」「山本海苔」「ヤマニ」など「山」が多く、旧海軍でも「山本五十六」「山本権兵衛」と「山」が多いのは偶然ではないのだ。
広域暴力団山口組はやはり「山」がつくが、神戸の沖仲仕組合が発祥である。ちゃんと海に関わる生業をしていた。大正4年に港湾荷役人の組織としてボスであった山口春吉から始まったものである。
武将が合戦のときに掲げる「馬印」は、支那系が坊主の衣装である墨染めの黒、四の源氏が白、八の平家は赤と金という民族カラーに分けた。だから武将は同族の平家なり源氏なりを討たないよう、「馬印」の色で表示した。
徳川政権は、四と八を交互に住まわせ、互いに反目しあうよう、見張るよう差配した。千住小塚原の刑場は四つの源氏系、大井鈴が森の刑場には八つの平家系とし、縄張りを決めていた。馬喰は四とし、駕篭かき、川越人足、渡し船頭、橋番は八と、職業でも住み分けさせた。
《3》「八つ」の民
北条氏は平家なので、「八つ」系である。その連中が住まわされたところが、「はち」の付く土地で、「八甲田山」「八王子」などがそういうことになるし、苗字の場合は「八田」「八島」なんかがそうだろう。「はち」を「鉢」や「蜂」の当て字にして、「蜂須賀」とか「蜂谷」という土地や苗字が八つ系=平家系なのである。源平の戦場となった平家の根拠地、四国の「屋島」も「や」がつく。
北条政子を葬った場所が、今バラ園で有名な「谷津(やつ)」なのも、当然「八」に関連する。
八は「や」とも発音するので、店の屋号として「尾張屋」や「三河屋」などとして(現代では必ずではないが)「屋」がつくのは、この「八」からくる。由来は信長からで、彼も名古屋近辺の賤民にされた「八つ=平家」だったから、近畿一帯を抑えたときに商人たちに「ヤ号」を付けさせたのだ。その信長も、近江八田別所(被差別地区)の出なので旧姓は「八田」である。そこから尾張の織田家に仕え、勝幡城の城番にしてもらい、織田の姓を賜ったのだ。だから、武将の家に生まれ、幼いころは気違い沙汰の奇行をして家老を心配させた、なんてのは創り話もいいところだ。
名古屋市の「市章」は、○に八の字である。下記の名古屋市のサイトに出ているので、ご覧いただきたい。
http://
これによると、尾張徳川家の合印をそのまま採用したとかきれい事が書いてあるが、真相は、名古屋地区が「八」の族=平家系の別所つまり差別地区だったからである。江戸時代に参勤交代で行き来する大名行列は、名古屋は通れず、伊勢湾を船で渡らされたのは、名古屋が徳川親藩のゆえというより、「八」の拠点だから忌避されたのである。マルハチというヤ号の会社や店が名古屋には多い。マルハ(旧大洋漁業)も、オーナーは中部で「ナ」だから「あかさたな系」で、しかも水産関係なのだから、ぴったり合う。
ついでながら、名古屋市にある天白区は、名古屋が「八=平家=赤」の在所であるから、四つの騎馬系=源氏系が暮らしやすいからと仲間に入れてもらうために、天白川で禊ぎをさせられたのが由来である。本当は「転白」の意味で、白の源氏系が転じて赤の平家系に入ることであった。天白川も本来は転白川である。
北海道の漁師を「ヤン衆」と呼ぶのも、やはり平家(海人族)系だからである。このほか八の系統は地方によっては、祇園の「祇」とか「宮(みや)」とも蔑称されていた。大工でも賎民の大工を「宮大工」といったから、宮田、宮本、宮川というような苗字は平家系なのだろう。ヤクザ、ヤア公も、当然ながら賤民とされた連中から派生しているから、そうなる。
また、平家系は農耕民だから、当然、田畑に関わる。それゆえ「田」の字のつく人も平家系である。「田宮」「田所」あるいは「高田」「浜田」などがそれである。また平家系は海洋部族だったから、漁労民でもある。彼らは遠くペルシャからアレキサンダー大王の東征によって追われてアジアの端(インドシナ半島など)に逃げ、さらに黒潮に乗って日本に流れついたものである。だからペルシャ・ササン朝では海または海の神のことを「YAMA」と言ったので、それが日本まできて、(八切止夫によれば)意地悪く逆にされ、漢字の「山」の字を当てられた。ヤマトタケルは海洋民族だということになる。それで「山本」「山下」などの苗字はみんな海洋民族=平家系の末裔となる。
のりなど、海産物を扱う商店なのに「山本山」「山形屋」「山本海苔」「ヤマニ」など「山」が多く、旧海軍でも「山本五十六」「山本権兵衛」と「山」が多いのは偶然ではないのだ。
広域暴力団山口組はやはり「山」がつくが、神戸の沖仲仕組合が発祥である。ちゃんと海に関わる生業をしていた。大正4年に港湾荷役人の組織としてボスであった山口春吉から始まったものである。
武将が合戦のときに掲げる「馬印」は、支那系が坊主の衣装である墨染めの黒、四の源氏が白、八の平家は赤と金という民族カラーに分けた。だから武将は同族の平家なり源氏なりを討たないよう、「馬印」の色で表示した。
徳川政権は、四と八を交互に住まわせ、互いに反目しあうよう、見張るよう差配した。千住小塚原の刑場は四つの源氏系、大井鈴が森の刑場には八つの平家系とし、縄張りを決めていた。馬喰は四とし、駕篭かき、川越人足、渡し船頭、橋番は八と、職業でも住み分けさせた。