読んでおきたいブログ記事「四」の民
ようちゃんが、教えてくれた記事です。↓
▼苗字の仕掛けにみる日本の素顔(1)(心に青雲)
《1》八切止夫「姓の方則」
みなさんは履歴書を書くときに、どうして「本籍」を書くのだろうと疑問に思ったことはありませんか? 現住所は履歴書に必要だが、本籍なんか書かなくても、採用には関係ない、とは思いませんか? ところが、絶対に書かされる。これはどうしてだろうか、というのが今回のテーマ。
出版社の小学館と集英社はオーナーが同じ大賀一族で、たしか小学館の子会社から集英社は大きくなって、肩を並べるまでになったはずである。小学館の関連会社、というか下請会社(編集プロダクション)には妙な習慣があって、会社名に小学館の頭文字から「し」「しょう」「小」または「S」をとってネーミングする。集英社もやはり「し」をもらっている。有名なところでは祥伝社も「しょう」をもらっている。
例えば日立やトヨタといった大企業が関連会社に日立なんとか…と付けるのとは、ちょっと違う。親会社の名前の頭の「音」を頂戴した名前をつけるのは、要するに親会社に忠誠を誓うほどの意味がある。「仲間にしていただいています」あるいは「臣下の礼をとっています」という印がこれだ。
この奇習はどこからきたか。
サムライ社会でもこれはあった。山内一豊が土佐に入国すると、長宗我部の残党による「浦戸一揆」を鎮圧し、残党らを「郷士」として武士の一段低い身分にした。幕末になって、この郷士のなかから坂本龍馬や中岡慎太郎が出たわけだが、彼らの苗字が、坂本の“さ”、中岡の“な”というように、藩主山内家の“や”にあわせているのである。どこが? かといえば、家臣は「あかさたなはまやらわ」の50音横列に苗字を統一させられた。本来、坂本龍馬は「陰姓」といって、先祖から伝わる苗字「梅谷」だったが、「坂本」という「さ」を頭にもってくる苗字を名乗らされたのである。
岡山の藩主「池田家」ならば、「い」の横列をとって、家臣はみんな「いきしちにひみいり」の音を頭にいただく苗字をつけた。
明治以降、明治5年の壬申戸籍作成のときに、陰姓を持っている者はそれに戻すことが許されたのである。もし明治以後も龍馬が生きていたら、「梅谷龍馬」としたはずである。
在日朝鮮人の場合も、「金田、金本、金井、金原…」という苗字を「かね」と読ませる場合は、在日だとわかるようになっている。だから「金原」を「きんばら」と読む人は日本人で、「かねはら」と読ませれば在日(帰化)とわかるのである。
こういうことは、誰が始めたかはわからないが、大昔からあった。たぶん藤原政権が、日本にいる種族を分別すために始めたことだろうが、原住民同士でも姓で同じ種族かそうでないかをわかるようにしたと思われる。なにしろ日本列島は人種の吹きだまりで、太古から北方系、南方系、支那系、インド系、アラブ系、アイヌ系など雑多の人種が漂流ないし侵略できていた。同じアジア系なので、アメリカとちがって肌の色では区別がつきにくい。しかし種族が違えば戦争だから、狭い日本列島のなかで仲間かそうでないかの判別が重要になる。そこで、「あかさたな系」「いきしちに系」「うくすつぬ系」など苗字でわかるようにしたのだろう。
この“法則”を発見したのが作家・八切止夫であった。「八切姓の方則」と呼ぶ。彼によれば、「あかさたな系」は古代海人族(南方系)、「いきしちに系」が韓国系、「うくすつぬ系」が支那系、「おこそとの系」は沿海州蒙古系となっているそうだ。「えけせてね」は、藤原氏が反抗する者どもを差別するためにつけたと八切止夫は書いていたと思うが、例えば「江戸、江藤、蝦夷、恵那、江田」といった苗字は、藤原政権の追及迫害を逃れた人が隠れた(追いつめられた)土地からきたのであり、「エの民」と呼ばれたようである。
鎌倉の東慶寺は「縁切り寺」として有名である。北条政子が女性解放のために設けたもので、女がここに駆け込めば、大名だろうと手出しはできなくなる掟であった。江戸時代には上州(群馬)新田郡に設けられた満徳寺が縁切り寺だった。寺の山門には「あかさたな」「いきしちに」の額が掲げられていて、もし同列の者ならば駆け込んでも拒絶されたそうである。つまり例えば「伊藤」という姓の夫から、「木村」という苗字の女が逃げてきても、同じ「いきしちに」の列の者はダメとなるのだ。「安藤」という夫から、「上田」という女が逃れたいのなら、「あ列」と「う列」なので、離婚成立となる。
これは同族は大事にする、争わないとする掟(同堂同火の禁)があったからだろう。だから渡世人は、他の組に行くと、「お控えなすって。手前生国と発しますは…」と名乗って、同族かどうかを確認しあったのだ。なぜ「生国」かといえば、この姓別が種族見分けるためであり、元は居住地を権力者によって限定されたからである。だから「手前は、上州なんとか別所の者で」と言うだけで種族がわかり、一宿一飯の恩義に預かれる次第となった。われわれがビジネスでやたら名刺を配る習慣も、もしかしたら、この伝統を受け継いでいるからかもしれない。また履歴書に、本来どうでもいいような「本籍」を書かされるのも、その名残ではないか。しかし今や本籍地は自由に変更できるので、お上のほうもこの区分けを重視しなくなった背景があるのであろう。これもまたGHQの指令か…。
また今も「よそ者」という言い方が残る。これは権力者によって居住限定された庶民が、その居住地で同族か否かを判別し、警戒したからであろう。八切止夫が引用しているが、浪曲「佐渡情話」に「惚れちゃいけない他国の者に、末は烏の泣き別れ」とあるように、よそ者とは悲恋に終わるのである。
ところで、われわれには苗字があるが、これはよほどの事情がないかぎり戸籍上絶対に変えられない。養子縁組や婚姻により相手の姓を名乗る以外に、好きに変更はさせてもらえない。そうお上が決めているからである。自分の苗字が嫌だから、もっと恰好良い苗字にしたいと願ってもダメである。これはどうしてなのか、といえば、まさにわが民草が強いられてきた、この50音横列の種族区別の歴史を踏襲しているからである。今はまずそんなことを気にする人はいないけれど…。
戦前は内務省警保局には、苗字一覧表が地域別に揃っていたと、八切止夫は書いている。お上が統括の必要上、その苗字一覧が役立ったのだろう。今は、そんなことはみんな忘れて、自由に縁組みできるようになって、同族だのなんだと言わなくなったのはまことにめでたい。
だが、こうなったのは、明治ご一新でお雇い外国人ルードウィヒ・リース(「シルクロードを食い物にする者ども(5月14日)」で取り上げた男)が、日本に歴史学を最初に教えたのだが、彼が「日本は島国なんだから、単一民族だ」と勝手に断定し、その説をアホな東大文学部の教授どもが押し頂いて踏襲し、さらにそれを大陸進出を図る明治政府と軍部が採用し、ナショナリズムを形成するために利用したためである。つまり支那(清)、朝鮮、ロシアと戦争するために、国家統一をしなければならなかったから、何がなんでも“日本人”に仕立てる必要があったからである。それを学校教育で徹底させた。だから「あの人は“あかさなた系”だから…」なんていって、職業差別したり、結婚できなくなったりする悲劇はなくなったのだが、おかげで本当の歴史がわけがわからなくなった。仏教寺院がどれほど残酷非道な仕打ちを庶民にしてきたかも、うやむやにされてしまった。
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ようちゃんの意見。↓
★明治期になって士農工商身分が廃止され、4民平等になり. それまで姓 が無かった農、工 商 などが 姓を新しく つけて戸籍を作った. 商人には商売で屋号が姓代わりに使用されてたし、商品名なども姓の代用にしていた.百姓も庄屋には屋号が有り、姓の代わりになっていた.
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(2)「四」の民
苗字ではないが、西洋人の場合で私が知っているのは、女性の名前には多くは「a」を付ける習慣がある。昔、「ポールとポーラ」という恋人どうしを歌った歌があったが、どっちが女性かといえば「ポーラ」である。最後が「a」で終わるからだ。「ダイアナ」「マリア」のように「あ」列で終わる。
それはともかく、日本の苗字の“仕掛け”にはまだある。
それは「四つ」と「八つ」のいわば“分類”である。四つとは、ウマの4つ足からきたもので、ウマを扱う種族である北方系の源氏(蘇我氏=高麗系)の系列の人間を指す。八つは南方マレー半島方面から渡来した平家系の農耕・漁業を主に行う種族である。四つと八つが、日本の人口の約85%を占めるいわば原住民系で賤民にされた。残りが支配者であった支那系(貴族、官僚、坊主)と、その配下になって賤民にされた四つと八つを、弾圧する担当にしてもらって「良民」になった百済系(南朝鮮系)になる。支那政権の手下になった百済人は良民にしてもらったので、ここから百済系以外のものを賤民にして、バカにした「くだらない」という言葉ができた。決して京都から江戸へ「くだる」物産にちなんだ言葉ではないのだ。
四つも八つも、支那支配体制に反抗していたから、彼らが持ち込んだ仏教にもなかなか転宗しなかった。それゆえ、支那人の周辺民族をケモノや虫扱いの名称で呼ぶあのセンスのまま、源氏、平家の者らを「4」だの「8」だのと徹底的に蔑んで、人扱いしないこうした呼称にしたのである。
人の苗字で区別していたとは、言っても信じない人はいるだろうが、これは国家とは何かを考えれば、当然行われる“人民”に対する措置である。国家権力にとって何が一番怖いかといえば、“人民”の叛乱であり、他共同体(国家)との戦争である、これに負ければ権力者の生命がない。だから厳しい統括を行う。それも定法であるが、民は分割して統治せよ、なのだ。分断してイガミあわせる。人民のエネルギーを殺ぎ、彼らを監視するには一番よい方法だ。それはまた、権力者に観念的二重化(その立場になってみる)すれば、顔形では見分けが付かない民を見分けるために苗字に細工をしたと、わかることである。
四つは非農耕民なので、ウマを飼う役目を支配者側から押しつけられたので、「飼戸(ししど)」とか「シコ」とも呼ばれ、そのなかから使い捨ての兵士として“徴用”された者を「しこの御盾(醜の御盾)」と言った。「今日よりは かえりみなくて大君の 醜の御楯といでたつわれは」という万葉集の歌になっている、アレである。先の大戦中に盛んに引用され、「天皇のために死んでこい」と煽りたてられた歌である。この「しこの御盾」を天皇(大君)に対してへりくだって言う表現だとしている向きもあるが間違いで、単に「奴隷として戦場に行かされる」というほどの意味である。
四つは、現在の新宿区にある四谷は、馬喰の町(賤民の町)だったからである。江戸では四つの民は、新宿から四谷にかけて住まわされ、同時に内藤新宿一帯は宿場があり、大正初期までは遊郭があってそれなりに栄えた町であった。「宿場」とは宿(やど)がある場所の意味ではなくて、「しゅく(夙)」であって、源氏系の人間をそう呼んだので、そのシュクが集まっているから「しゅく場」なのである。現在も新宿2丁目がそうした遊興街になっている。吉原も四つ「よ」の関連の町で遊郭があったところで、今も売春街で名高い。
江戸落語で長屋の貧民の男を「おい、与太郎や」などと呼ぶが、これも「ヨ太郎」であって、四の者の意である。
4は中国語では「スウ」である。「1234」を「イ、アル、サン、スウ」と言うが、4の「スウ」をとって、昔は遊郭の女を「四つ」の女だから男ども(とくに兵隊)は「スウちゃん」と読んだ。今は立派な女優になった田中好子を、キャンディーズ時代に「スウちゃん」と呼んでいたけれど、本人は由来を知っていたのかどうか…。
四は、「よん」だけでなく「し」とも読むので、その「し」から「白」とも呼んだ。平家である北条政子の政策で、鎌倉時代は平家=北条の天下となったので、打倒した源氏系を賎業に落とす仕打ちをした。そのなかで源氏系の女にはもっぱら売春をさせたために、それを「白拍子」といい、今も残るが、娼婦や水商売の女の名前を「源氏名」と呼ばせるのは、北条政子の指令が由来である。娼婦をやらせるのは、源氏系の女に限らせたのである。だから江戸なら四谷、新宿、吉原、品川、京都なら島原といった「よ」や「し」の付く土地を遊郭に指定した(された)のである。
源氏の武将は、頼朝、義経、義家、頼家というように「よ」を頭に付けるのもそうだろう。
それに源氏系は北方、つまり北から来たから「きた」の音を使って「喜多」という苗字で表したりした。「北野」「北島」「北川」のように北の民であることがわかるようになっている。
プロ野球選手の背番号でも「4」は日本人選手につけないし、街中の駐車場にも「4」のエリアを飛ばし、病院でも4号室はなく、4階すらないところがある。これだけ4を忌むのは「死」を連想させるからとなっているが、もともとは源氏系=賤民(賎業)というイメージを避けるためではなかろうか。
源氏は、清和天皇から出たとなっているが、これはウソで、清和天皇の世にすでに源氏は登用されていた。八切止夫によれば、江戸時代に幕府が大名、旗本に系図の提出を命じ、そんなものない彼らは困ってニセ系図づくり屋の沢田源内に依頼し、源内が全部「姓は(わ)源氏」としてしまったところから、これが誤って「清和源氏」というインチキが罷り通ってしまったとのことである。ケイズ屋とは、警察の隠語では盗品故物売買業者をさす。由来がインチキ系図だったところからである。
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勉強になりました。by日本のお姉さん