【古森義久】 李登輝さん、ようこそ
深川に 芭蕉を慕ひ来 夏の夢…
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/
2007/06/02 04:44
台湾の前総統の李登輝氏が日本にやってきました。
いつもながら中国政府に妨害されながらも、民主主義の価値を説く李氏は日本ではリラックスした表情をみせ、「奥の細道」の行脚を楽しみたい、などと語っています。
日本側でも中国におもねって李登輝氏訪日に反対する勢力もすっかり勢いを失い、歓迎の空気が濃いようです。
なお李登輝氏のアメリカでの活動については、以下のメディアで詳細に報じました。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/i/09/
李登輝氏は私にとって、日本をみる目、世界をみる目を同時に大きく広げてくれた恩師のような存在です。
ちょうど10年前の1997年12月、現職の台湾総統だった李氏を記者としてインタビューしたのが、初めての顔合わせでした。その年の6月から7月にかけて、私は産経新聞の報道陣の一員として香港返還を報道するため、1カ月以上を香港で過ごしました。この体験が報道対象としての中華圏への初めての接触でした。
香港では実に多数の人と会い、話を聞きました。その結果はもちろん日々、産経に報道したわけですが、全体を総括して「『日中友好』という幻想」という長い論文を総合雑誌の『VOICE』に書きました。するとしばらくして、「台湾の李登輝総統があなたの論文を読んで、おもしろいと言っており、筆者と話をしてみたいともらしている」というメッセージが第三者を介して届きました。
台湾の総統との単独での会見とは願ってもないと、すぐにワシントンから台北に飛んで、産経新聞に報道するために、李総統にインタビューした、というわけです。
私がそれまで中華圏や台湾の実態に無知だったせいでしょう。李登輝氏との会見は魂が揺さぶられるような衝撃でした。
外国の事実上の国家元首である人物が自分よりも練達の日本語を話す。というよりも日本語を自分自身の言葉として使っている。しかも日本の精神や伝統や価値観をポジティブに語る。日本の台湾統治はよかったと明言する。これまで想像もしなかったことばかりだったのです。以後、「李登輝さんに一度、会ったら、もうダメだ」と私は友人らに反語の意味をこめて、話すようになりました。
自分が日本人である(地球人である前に)という意識を持ち、日本という国や社会について自己の帰属を前提としてまじめに考え、しかも民主主義という普遍的な価値観にも思いをはせる現代の日本人(平均的な日本人といえましょう)にとっては、李登輝氏という人物に一度でも会って、話をしたら、もうそのものすごい魅力の虜になってしまう。そして日本人であることを前向きに、誇りさえ含めて、感じさせられるようになる。忘れていた日本への意識が復活してくる。そんな意味なのです。そんな効果をショッキングな形で感じさせられた、ということなのです。
彼の日本への意識は「私は22歳まで日本人でした」という言葉に集約されているように思えました。
とにかくこうして私は4時間も李登輝総統と話をしたのです。
これもシニカルに考えれば、政治家としての李登輝氏の日本の世論やマスコミへの対策という意味あいもあったことでしょう。しかし個人としての私は久々に感動という思いを味わいました。
このときの一問一答の一部を以下に紹介します。
古森 総統は日本の教育を受け、京都大学農学部に学んで、学徒出陣までしたことは広く知られていますが、日本の教育のご自分への影響をどうみますか。
李総統 植民地支配そのものの悪は別としても、私は多くを学びました。日本人の生活の規律や礼儀から受けた影響は大きかった。日本の統治時代の台湾には汚職がなかった。法律があり、行政があり、秩序があった。この事実は否定できません。この点では尊敬しました。
(中略)
古森 台湾にはまだまだ総統をはじめ日本語を話す世代、日本の文化や伝統を形こそ変えても捨てていない人たちが確実に存在する一方、その世代が少なくなっていくのをみると、現代の日本人としてはうれしいような、悲しいような、なんとも複雑な思いに襲われます。
李総統 台湾で日本精神といえば、いまでも約束を守り、礼節を重んじる、というような前向きの意味にとられることが多いですからね。日本のよいところが台湾に残っているのです。在米台湾人の呉念真という監督が作った『父さん』という映画は国際的な賞をとりましたが、この作品は台湾の中の日本の遺産をも描いており、ぜひ日本の方たちに伝えたい内容です。
(以下、略)
李登輝氏が戦争中は日本軍の将校として高射砲部隊に配属され、来襲する米軍機を撃っていたことも、すでに知られている話でしょう。李氏の兄は日本海軍の将校としてマニラで戦死しています。李氏が靖国神社参拝を望む最大の理由は実兄の霊に弔意を表したいことだといいます。
もう一つ、李登輝氏と台湾、そして日本について私が書いた記事を以下に載せます。
こうした李登輝氏の日本来訪を改めて歓迎し、その滞在をゆっくりと楽しんでいただきたいと思います。
【緯度経度】台湾から 古森義久 日本への心情の答えは?
2004年03月28日 産経新聞 東京朝刊 国際面
台湾にきていつも考えさせられることの一つは日本である。日米両国のアジア政策にとって重大な意味を持つ台湾の総統選挙の報道のためにワシントンから台北に着いての初日、地元の関係者ほんの数人と話しただけでも、この地が日本にとって全世界でも類例のない特別な意義を有することを改めて痛感する。
台湾を知る人には何をいまさらと思われるだろうが、陳水扁政権の中枢につながる当事者たちであっても連絡を取れば、歯切れの良い日本語で答えが返ってくる。世界の他のどの国、どの地域でこんな現象があるだろうか。
台湾には周知のように李登輝前総統に代表される日本語世代がなお健在である。かつて日本国民として日本の教育を受けた世代が高齢になったとはいえ、各界でまだ影響力を保っている。その人たちの日本への深く熱い思いは日本人としてうれしくも、ついとまどうほどである。
総統選挙後の混乱が続くなかで昼食に招いてくれた台湾総合研究院の羅吉●理事長は政治情勢を説明しながらも、旧制山口高校(現山口大学)に学んだ自分の日本とのきずなにさりげなく触れた。日本の教育で自分の学識や精神の基礎が形成されたという趣旨を当然のように語りながら、台湾にとっては今後も日本との連帯が非常に重要だと強調するのだ。
羅氏が山口高校の一年先輩だと紹介した蔡東華氏は台湾の映画製作の発展に大きく寄与した人物だという。「京都大学を出て勤めた日本の映画会社での経験が台湾で十二分に活用できました」と語る蔡氏は自分の人生が日本との関与なしには考えられなかったと述べる一方、「でも日本びいき過ぎると思われないように自分は親日ではなく知日なのだと自称しています」と笑う。
しかし、いまや少なくなるこうした日本語世代だけと話して台湾社会の日本観を総括はできない。そう感じて民進党の国際部長の蕭美琴氏に会見したときも、日本について聞いてみた。蕭氏は三十二歳の女性立法委員(国会議員)で米国で高等教育を受けた国際派である。
「私の父も祖父母もみな日本には特別の親近感を持っています。私も日本語をいま習っており、日本を訪れるのは大好きです。そういう個人レベルでの思いとは別に、台湾にとっては日本は安全保障の利害や民主主義の政治の価値観の共有という観点からもきわめて重要です。わが民進党のウェブサイトはおそらく世界中の政党でも唯一、日本語サイトを設けていますが、これも日本重視の表れです」
蕭氏のこうした言葉は台湾の若い世代にも古い日本語世代とはまた異なる日本への温かい思いがあることを物語るといえよう。と同時に安全保障や外交の面でも、少なくとも与党の民進党には日本の支援や協力を重視する政策が顕著であることが明示される。陳水扁政権の総統府国策顧問として日本在住の長い黄昭堂氏や金美齢氏が登用されているのもそのへんの事情の反映だろう。
今度の選挙では台湾の住民が自分たちを中国人ではなく台湾人とみなす「台湾意識」の高まりが印象づけられたが、その台湾意識は日本への親近感と多分に重なりあっている。日本の統治を経験した台湾本来の住民の間に日本への親しみが伝統的に強いからだろう。この種の親しみは政策面では「日本との安保上の協力」への期待となり、個人の次元では李登輝氏がよく説く「日本精神」への敬意となって、訪れる日本人に告げられる。
だがそこでこちらが面はゆいようなうれしさを覚えながらもつい当惑してしまうのは、日本側がその期待に応えられるのかといぶかるからだ。
安保面では日本本土の自衛以外には一切、実効ある防衛の措置には手をつけてはならないとする一国平和主義のタガが台湾との安保上の連携はもちろん協議さえも禁じてしまう。日本外務省のチャイナスクール主導の“媚中外交”が実際の政策をとにかく台湾を軽視し、無視する方向へと動かそうとする。
そして、何よりも李登輝氏らが人間としての清く正しい言動の規範とする「日本精神」なるものが、いまの日本とどう重なるのか。そうした精神がいまの日本にそもそもあるのか。こういう形での台湾側の日本への心情はもはや切ない片思いではないのか。いやいや、そうであってはならない。
台湾にくるといつも日本についてのこんな思いに激しく襲われるのである。
『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe
(Big5漢文)
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テレサ・テンの親は蒋介石と一緒に大陸から台湾に逃げてきた
チュウゴク人なのだそうだ。
テレビで、テレサ・テンの人生を木村佳乃が演じる番組をみた。
台湾の人が、「あいつら、大陸から来たくせに
偉そうにしやがって。」と、悪口を言っているのを、テレサ・テンが
聞いてしまう場面があった。
やっぱり、元からいた台湾人には、大陸から逃げてきたチュゴク人は、
嫌な存在だったのだと思った。
テレサ・テンは、うっかりしていて、偽造パスポートで日本に入ろうとした。
台湾人は、台湾のパスポートでは、外国に出た際、出入国の
手続きが面倒な国もあるので、偽のインドネシアのパスポートを
作ってもらったそうだ。そんなところも、チュゴク人らしかったのだなと
思った。テレサ・テンの声は、魅力的だ。
あの人は、確かにすばらしい歌手だった。
チュゴクの古い民謡を歌わせたら、意味も分からず、始めて聞いた曲でも
なつかしいような気持ちになる。テレサ・テンの歌は心がこもっている。
台湾やチュゴクやアジアの華僑の間で、テレサ・テンはすでに大歌手に
なっていたのに、なんで日本に来たのかなと思っていたが、ポリドールの
社長が声に惚れ込んで、台湾に行って、父親を説得したからなのだった。
母親が政治に関わるのは止めてと、言ったのに、テレサ・テンは、
香港で、天安門で、民主化運動の学生を励ます歌を歌った。
それも、テレサ・テンらしいのだと思う。
テレビの後半は、眠ってしまったので、見ることができなかった。
テレサ・テンは、持病の喘息が悪化していたのに、治療も受けないでいた
ので、発作が起きて気道がふさがり、それが原因で死んでしまった。
天安門事件で大勢の若者が死んだことを、自分のせいでもあるのではと
すごく気にしていたようで、ちょっとウツ状態だったとも聞く。
喘息は、バカにはできない病気で、いつも発作に見舞われていると、
酸素が吸えない状態に慣れてしまって、救急車を呼ぶのが遅れてしまう
場合があるそうだ。喘息の発作が重くなると、気管支拡張剤を使っても、
効き目が現れにくくなるのだそうだ。
友達のお母さんの知り合いの女性は、喘息で救急車を呼んだけれども、
救急車が家に着いたときは、玄関で倒れてすでに亡くなっておられたそうだ。
喘息は、普段から気管の炎症をステロイドを吸入して、押さえておけば
アレルゲンに触れても発作が起きにくくなる。
テレサ・テンは、どうして、ちゃんと喘息の治療をしていなかったのだろう。
アーティストは、繊細な方が多いから、いろいろ辛いことが多過ぎて、
ウツ病になってしまって、投げやりな生き方をしていたのかもしれないな。
誰か、側にいてきめ細やかなお世話をしてあげる必要がある人だったの
だろうな。テレサ・テンと、彼女のお父さんは、いつも大陸が自分の故郷だと
思って生きていたそうだ。国民党が共産党に負けたのは、アメリカが
国民党を助ける気が途中で無くなったからだろう。アメリカは意外と
気まぐれで、いいかげんな国なのかもしれない。アメリカは国民党を助けて
日本と戦ったのなら、最後まで国民党を助けて、シナを共産党にしないのが
スジだと思うが、本で読んだ話しだが、アメリカは後から蒋介石が
タダの独裁者だと分かって、助ける気を急速に無くしたらしい。
そのあたりの歴史は、あまり興味がなくて勉強していないが、
台湾人には、蒋介石は迷惑な人だったらしい。
紹介石の墓や記念館もあまり大切にはしたくないような雰囲気になっている
そうだ。蒋介石は台湾の知識人を大勢虐殺したので、今でも一部の台湾人
にうらまれているそうだ。今でも、台湾には、チュゴクから逃げてきた
チュゴク人と、元から台湾に住んでいた台湾人がいるそうだ。
台湾人の方がずっと人数は多いのだが、メディアや政府はチュゴクから
逃げてきた大陸系チュゴク人が占めていて、教科書も反日教育を教え込む
内容なのだそうだ。それでも、台湾の若い人の中には、日本の歌や芸能人が
大好きな人もいるし、日本の少女マンガがテレビドラマ化されていたりする。
結構マンガに忠実に作ってあって、面白いものがある。