津波の話し
地球の裏側から来た津波
渡部亮次郎
地球の裏側から来た津波とは「チリ地震津波」のこと。今から47年前の
今日(5月24日)だった。1960年のこと。三陸一帯で142人が死んだ。私は
NHK仙台中央放送局報道課所属3級放送記者だった。
津波襲来は文字通り、寝耳に水であった。地震が来たら津波を疑えとは
教えられていたが、地震は無かったはず。起こされて放送局へ駆けつけ
ると当直だった先輩の高野悠(ひさし)記者が叫んでいた。
地球の裏側のチリという国で大地震があり、それによって起きた津波が1
昼夜かけて三陸沿岸を襲ったのである、と。
私は録音機を携帯して単身、宮城県北部沿岸の女川(おながわ)港に派遣
された。途中、塩釜駅を見上げたら、跨線橋の上に漁船が乗っていたの
で目が覚めた。
このチリ地震は 1960年5月22日午後7時19分(日本時間同年5月23日午前4
時11分)、チリの太平洋沖を震源として発生した地震だが、日本を含め
環太平洋全域に津波が襲来したもの。
地震発生から22時間後に最大で6メートルの津波が三陸(東北地方北東部)
海岸沿岸を中心に襲来し、142人が亡くなったり行方不明になった。被害
がとくに大きかった岩手県大船渡市では津波により53人が亡くなった。
47年前のこととあって記憶も怪しいが、宮城県内のある町では、海に水
が無くなったと叫ぶものがあって、バーの客たちとママが慌てて見に行っ
たら、そこへ来た津波に攫われてそれっきりという悲話もあった。
岩手日報(07.05.17)によれば、チリ地震襲来直後を写した写真が岩手県
陸前高田市で発見された。2003年に77歳で亡くなった大和田秀雄さんが写
したもの。
同時に残っていた「自分史」のよると・・・
「1960年5月24日午前3時55分ごろ、津波だという大声に起こされた。地
震も無いのに津波とは不思議に思っていたら突然、津波が襲来。慌てて
階段を駆け上がり屋根に避難した。
潮が引き始めたところでカメラを手に海岸へ。水が無くなった海底。引
き潮が海底の低いところを川のように流れて行く。太平洋に海水が全然
無い。どこまで波が引けたのかその端が見えない・・・」。岩手県だけで62
人が死んだ。
もともとチリでのこの地震は後で調べれば、マグニチュードは8・5(モー
メントマグニチュード9・5)と、有史以来観測された中で最大規模の地震
であった。
まず前震がマグニチュード7.5で始まり、マグニチュード7クラスの地震
が5~6回続いた後に本震がマグニチュード8クラスで発生した。また余震
もマグニチュード7クラスであったために、首都サンティアゴ始め、全土
が壊滅状態になった。
地震による直接的な犠牲者は1743名。負傷者は667人。また、アタカマ海
溝が盛り上がり、海岸沿いの山脈が2・7メートル沈み込むという大規模な
地殻変動も確認された。また有感地震が約1000キロメートルにわたって
観測された。
日本では地震による津波の被害が大きかったわけだが、一方で度重なる
津波被害を受けた田老町(現在の宮古市)では高さ10メートルの巨大防
潮堤が功を奏して人的被害は皆無であった。
この巨大防潮堤は過去最大規模の1896(明治29)年6月15日の明治三陸地震
津波や1933(昭和8)年3月3日の津波の体験から、町民の生活を犠牲にした
指導者の大決断によって築かれたもの。30年後にモノを言った。そこで
少なくとも岩手県沿岸にはチリ地震津波以後、すべてのところに巨大防
潮堤が築かれた。
女川に着いたところで、小さな津波が何回も襲ってきた。なれない手つ
きで録音機を回して、人々の阿鼻叫喚を録音した心算だったが、自分自
身、逃げ回っていたせいで、録音機は空回りしていた。
何日目かに「被災地で集団赤痢発生」のニュースを送ったが、その夜、
私もかかっていることを知った。半生、2度目の罹患であった。
この1ヵ月後、転勤が発令された。なんと岩手であった。其処に4年も居
ることになるとは。
地球の裏側から突然やってきた津波(遠隔地津波)だったから、これに
対する認識が甘かった事が指摘されたため、以後、気象庁は体制を組み
なおした。
海外で発生した海洋型巨大地震に対しても、たとえばハワイの太平洋津
波警報センターと連携を取るなどして津波警報・注意報を出すようになっ
た。参考:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2007・05・23
渡部亮次郎のメイル・マガジン 頂門の一針 第811号
平成19(2007)年05月24日(木)
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1960年のチリ地震津波経験者の友達に聞いた話だが、
5歳の時に、外で遊んでいたら突然水が迫ってきたので
こりゃいかん!と思って、あわてて家に逃げ帰り
ピシャン!と玄関の戸を閉めたとたん、水が家の中に入ってきたのだそうだ。
隣のおじちゃんが、昔のタイプの潜水服を着て、
助けに来てくれたのだそうだ。
もし、逃げていなければ海岸で浪にさらわれて死んでいたそうです。
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この話は、実話です。↓
実話:浜口梧陵の稲むらの火と広村堤防
さて,これらの物語のモデルとみられる実話について紹介する.実話の舞台である和歌山県有田郡広村(現在は周辺と合併して広川町となっている)は,紀伊水道からV字型に入り込んだ湯浅湾の奥に面した半農半漁の村であって,約100年ごとに南海道沖で発生する巨大地震のたびに大津波に襲われ,大きな被害を受けてきた.このため,古く応永年間に,この地を領した畠山氏は広の海岸に邸宅を構えるに当たって,海岸に長さ400間余,高さ海面上1間半,根幅3間以上,頂上幅1間の波よけ石垣を築いた.この石垣は極めて堅固に造られており,その後の津波や高潮にも耐えて現存している.しかし,その高さが十分でないため,大津波の場合にはこの石垣を乗り越えて村を襲い,毎回かなりの死者を出してきた.例えば,1707年(宝永4年)10月4日の宝永地震では,850軒中700軒が流失,192人もの死者が記録されている.したがって,大地震の後に津波がくることは,この地では代々言い伝えられていた.
実話の主人公,浜口儀兵衛(第七代目,梧陵と号した)は,1820年(文政3年6月15日),広村で生まれ, 12歳で地方の豪族浜口家を継いだ.浜口家は,元禄年間から銚子で醤油の醸造業を営み,江戸に店をかまえていたので,彼は,銚子や江戸と郷里とを往来して,家業の発展に努めるとともに,蘭学者三宅艮斎,佐久間象山,勝海舟等から,西洋事情や兵学を学び,郷里の子弟の教育にも力を尽くした(ちなみに,中井常蔵先生も筆者も,彼が郷里の先覚者達と嘉永5年に創設した稽古場耐久社から発展した耐久中学や耐久高校に学んだ者である).以下に述べる安政地震津波の際には,儀兵衛は,物語のような老人ではなく,まだ35歳の壮年であった.その後,維新時には,紀州藩の藩政にも加わり,また,明治4年には,中央政府の駅逓頭(郵政大臣),和歌山県大参事(長官),明治13年には初代和歌山県会議長を務めるなど多くの公職を歴任した.明治17年一切の公職を退き,欧米視察に赴いたが,翌年その途中のニューヨークで客死した.
1854年7月9日(安政元年6月15日)に発生した伊賀上野の地震(M71/4)は,近畿地方の内陸部では最大級の地震で,広村でも強く感じ,村人は野天で一夜を過ごしたほどであった.このため,本年は津波がくるという流言が盛んであったという.12月23日(旧暦11月4日)午前10時ごろ6月よりも激しい地震(安政東海地震)があり,村人は津波をおそれて八幡山などに避難して一夜を過ごした.実際津波はきたが陸上に被害を生ずるほどのものではなかった.翌日は,穏やかな天気であったので,皆安心して家に帰った.ところが,16時頃,前日よりも格段に激しい地震(安政南海地震)が襲い,瓦は飛び,壁は崩れ,塀が倒れるという状況となった.また,巨砲の連発するような響きが聞こえた.このため,梧陵は壮者を励まして村民を立ち退かせるよう努力しているうちに,早くも怒涛のような津波が押し寄せた.逃げ遅れた者を避難させるため暫く踏み留まったのち,彼自身も激浪の中をようやく高台に逃れついた.まもなく日が暮れたので,壮者をうながして引き返し,たいまつを点じ,田の畔に積んであった稲むら(地元では,「すすき」と呼ぶ)に火を放った.この明かりによって,闇夜に路を失っていた多くの人々(梧陵の手記には,男女9名とある)が救われた.ついで,約1400人の避難民の飢えをしのぐため,寺に炊きだしを頼み,隣村から年貢米の借用の交渉を行なうなど,緊急の対応に奔走した.
この地震と津波による広村の被害は,流失158軒,全壊10軒,半壊46軒,浸水破損158軒で村中で害を受けなかった家は1軒もなく,死者は36人に達した.また,多くの田畑も流失した.このため,村は離散の危機に見舞われた.梧陵は,家屋50軒を新築して無料あるいは長期の年賦で貸し与え,農民には農具を,漁民には舟と漁具を買い与えるなど,救済に奔走した.さらに,将来の津波の害から村を護るとともに,職を失った村人に働く場を与えるため,私財を投じて大防波堤を建設する計画を立て,領主の許可を得た.この堤防建設には,荒廃しても重税のかかる田畑を堤防敷地として使用し,廃田免租を図るという目的もあったようである.工事は,津波の翌年安政2年の2月から始まり,同5年12月までのべ人員5万6730人を投じてつづけられた.このための費用は銀94貫344匁を要したという.もとからある波よけの背後に築かれた土盛りの大堤防は,当初,長さ500間の予定であったが,諸般の事情から370間(652m)で止められた.高さは2間半(3~3.4m,海面上約4.5m),根幅11間(17m),天幅4間(2.5~3m)の計画であった(カッコ内は現状).海側の堤脚(石垣との間)には数百株の松樹,内側と堤上には数百株のハゼの木が植樹された.松樹を山から移植する際には,もと生えていた方位に注意深く植えさせたので1本も枯れなかったと伝えられている.
浜口梧陵によって生活を取り戻した村人たちが,感謝の気持ちを表すため浜口大明神の社を建てようとしたことは事実であるが,梧陵は「我等儀神にも仏にも成りたき了見にては決してこれなく,ただこの度の大難救済と村への奉仕は藩公への忠勤ともなることと心得たまでのこと,神社建立のことは藩公へも恐れあり,かくては今後村や村人への世話はでき難くなる」と説得して建設を中止させた.したがって,「生神様」に書かれたような神社は実在しないが,村人は梧陵を大明神様とよんだという.なお,1933年5月には,梧陵ほかの村の先覚者達による津波防災の偉業を顕彰するための「感恩碑」が波よけ石垣の中央部に海に面して建てられた.
梧陵によって築かれた「広村堤防」は1938年に,彼の墓所とともに国の史跡に指定された.
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昭和の南海地震津波の体験
筆者は,1933年に広村で生まれ,先に述べたように,耐久中学校・耐久高校に学び,高校卒業までここで育った.ものごころがついたころから「梧陵さんの土手」と松林は絶好の遊び場であった.毎年,安政地震津波の記念日には,感恩碑の前の広場で先覚者に感謝し,海が平穏であることを祈る「津波まつり」が行なわれ,小学生も参列した.それに先立ち当日は早朝から村人総出で浜口山と呼ぶ小山の中腹から土をとり,おとなは,荷車やもっこで,子供は木綿の風呂敷に入れて堤防まで運び,これを補修するのが慣わしであった.また,安政地震津波の際,村人達が避難した八幡神社のある丘への避難訓練も行なわれた.ただし,これは各自の家からではなく学校から先生に引率されて行なったと記憶している,したがって,大地震の後には津波がくること,その場合は八幡様に逃げること,は地元では子供でもよく教えられていた.
1946年(昭和21年)12月21日の夜明け前の4時20分過ぎ,当時中学1年生であった筆者は激しい震動と木造の家が大きく軋みつづける無気味な物音の中で目覚めた.M8.0の昭和の南海地震を震源域の間近で体験したのである.激しい揺れはいつまでつづくのかと思うくらいつづいたがやがて収まり,停電して暗闇となった家の中はしばらく静まり返っていた.やがて沖のほうからゴーという音が聞こえ始めた(東方に数百m離れた線路を長い貨物列車が通るときの音に似ていたが,方向が正反対の海であった).近所で誰かが「津波だ」と叫ぶのが聞こえた.その声を合図にしたように皆一斉に逃げ始め,かねてから教えられている八幡神社のある高台を目指して,てんでにいろいろな経路をとって必死に走った.筆者は,細い路地をぬけ最短距離で高台を目指したが,後から考えると途中に小川があり危険なコースであった。実際,小川にかかる橋の付近にはすでに津波の海水が地面に流れ始めていた.間一髪でここを走り抜け,無事生き延びられたのは幸運であった.この近くには紡績工場の社宅があり,よそから働きにきていた何人かの方が逃げ遅れて亡くなられた.広村全体の死者は22名であった.「広村堤防」に護られて,堤防の内側の家屋は,一部に床上あるいは床下浸水したが,流失しなかった.筆者の家は海辺から2番目の通りにあったが,浸水もせず,全く無事であった.一方,堤防の外側に新たに建てられた中学校や紡績工場およびその社宅などは,堤防に阻まれ,湾奥に集中し,村の南側を流れる江上川に沿って侵入した津波に襲われ,流失は免れたものの,高く浸水し,急な流れでかなり破損した.中学校のグラウンドと海を隔てる低いコンクリートの堤防は,津波によって破壊・流失し,グラウンドは数十センチメートルの厚さの砂で埋め尽くされた.
「広村堤防」は,浜口梧陵の意図した通り,その建設から約90年後に襲った大津波にも耐えて村の主要部を護ったが,津波への備えのない堤防外に開発された地域ではかなりの被害があったわけである.
なお,このときの津波は地震の約25分後に来襲し,最高は平均海面上4~5mに達した.
最後に,筆者が日頃気になっていることを2点記しておきたい.ひとつは,津波の前には,異常な引き潮があると信じている人が多いことである.その原因には,引き潮で始まった津波を過去に経験した人の言い伝えを信じている場合の他に,「稲むらの火」の中のリアルな引き潮の描写の強い印象から,常にそうなると信じてしまった場合があるのではないかと危惧される.実際には,地震による海底の地殻変動次第で,まず潮が引く場合と,始めから津波が押し寄せてくる場合がある.地震が弱かったり,感じなくても異常な引き潮があれば津波の前触れとして警戒する必要があることは「稲むらの火」の教える通りであるが,逆は真とは限らず,強い地震を感じた場合や津波警報・注意報が出ている場合に,潮が引かないから津波はこないと考えるのは誤りであり,危険であることを強調しておきたい.
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