織田信長と豊臣秀吉 | 日本のお姉さん

織田信長と豊臣秀吉

織田信長は

父・信秀の没後、本家の清須・岩倉両織田家を滅ぼし

尾張を統一した。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元を破り、後に美濃の斎藤氏を

降して岐阜に居城(岐阜城)を移した。
1568年足利義昭とともに上洛し義昭を将軍に擁しましたが、ほどなく

不和になり、天正元年(1573年)義昭を京都から追放し室町幕府を

滅ぼした。
1575年長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、翌年に近江に安土城

築いて移った。
1580年に石山本願寺を攻め降し畿内を平定します。
1582年に甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし、続いて中国・四国制圧を

期して上洛中に本能寺で明智光秀 の謀反に遭い自害した。

(本能寺の変)

http://www.geocities.jp/bane2161/toyotomihideyosi.html

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豊臣秀吉

尾張国愛智郡中村生まれ。
百姓・弥右衛門の子。
尾張を出て、松下之綱に仕えた後、織田信長に仕える。
はじめは木下藤吉郎と名乗る。
信長入京後は京都の民政に当たり、天正元年(1573年)、

北近江の長浜城主となる。
この頃から羽柴姓を用いる。
天正4年(1577年)10月から中国攻めに従事。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変に接し、毛利輝元と急ぎ和睦して、

山崎の戦で明智光秀を倒す。
天正11年(1583年)4月、柴田勝家を賤ヶ岳しずがたけの戦で破り、

信長の後継者の地位を固め、大坂城を本拠地とした。
天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦を経て徳川家康を臣従させる。
天正13年(1585年)、関白に、翌年には太政大臣となり、豊臣姓を受ける。
天正18年(1590年)、四国・九州に続き関東・奥羽を服従させ、全国を統一。
文禄元年(1592年)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)

したが、朝鮮水軍の抵抗に苦戦するなか、慶長3年(1598年)8月に

死去する。62歳。

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フランシスコ・ザビエルは、

1549年8月15日に鹿児島に上陸して、

9月に薩摩の領主にあって、1550年の11月に山口で、大内義隆にあって

1551年1月に京に行って、足利幕府に会おうとしたが

京が荒れていて、幕府に持っていくプレゼントもなかったので

1551年3月にまた平戸に戻って、山口で大内義隆にあっている。

その後は、他の宣教師に日本をまかせてインドのゴアに行き、そこから

チャイナに行ってそこで客死した。2年ぐらいしか日本にいなかったのだ。

有名なフランシスコ・ザビエルの肖像画は、高槻の摂津富田の民家で

発見されている。


織田信長は1573年に足利幕府を倒して、安土城を建てた

その頃には、宣教師が日本に入って20年もたっていたから、

安土城には、外国の影響が、少しあったらしい。

(テレビで、織田信長の安土城のCGを観たが、日本の有名な建築家が

作ったそうだ。吹き抜けで、トップに豪華な絵が描かれた部屋が

あった。)



豊臣秀吉は、本能寺の変では、毛利輝元と和睦して、

明智光秀を倒す。
豊臣秀吉は、1583年には力をつけていて、

大坂城を建てて本拠地にした。

1590年、四国・九州に続き関東・奥羽を服従させ、全国を統一。
その後、なぜ、明を征服しようとしたのだろうか。

武士は、一生戦うのが当たり前だったのだろうか。


徳川家康は、結構残忍な人だったようだ。

穴吊りというのは、汚物の入った穴に逆さまに

吊るす刑だったそうだ。拷問の残忍さは、シナ人もびっくり。

手足を縛って牛や馬にひかせて

引きちぎるというのは、白戸三平のマンガで見たことがあるけど、

竹鋸引きというのは残酷すぎる。↓

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(以下は引用)

幕府は、最初こそキリシタンを次々と殉教させていったが、崇拝の対象となる栄光の殉教者を作ることを良しとせず、拷問により棄教を迫ることに方針を切り替えた。これによりさらなる悲劇が生まれていくこととなる。一例を『沈黙』で有名なフェレイラ神父の棄教で紹介しよう。

1609年日本に到着したフェレイラは、他の宣教師と同じように熱心に布教活動を行った。1614年の宣教師追放の折には、日本に残り宣教活動を継続する事になった。その後フェレイラは日本準管区長として、潜伏司祭達の柱として活躍する。そんな彼も1633年ついに捕らえられることとなった。キリシタン教界は彼が殉教するものと信じて疑わなかった。

彼は、元天正遣欧使節の中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処される。穴吊りは、この時代最も過酷な拷問と言われた。その内容は、1メートルほどの穴の中に逆さに吊す、というものであったが、そのやり方は残酷極まりない。吊す際、体をぐるぐる巻きにして内蔵が下がらないようにする、頭に血が集まるので、こめかみに小さな穴を開け血を抜く、などそう簡単に死なないようにし、穴の中に汚物を入れ、地上で騒がしい音を立て、精神を苛んだ。

5時間に及ぶ拷問の末、フェレイラは転んだ。
その棄教の時、吐いた言葉は「南無阿弥陀仏」であったという話がある。

幕府は家康の祖法を守るため、仏教中心の思想統制を行っていた。キリスト教否定のために仏教を用いるのが幕府のやり方であった。穴吊りで意識が朦朧とした者に刑吏が「念仏を唱えよ」と迫るのである。これが棄教した転びキリシタンに、どれほどの精神的苦痛を与えたかは計り知れない。

転んだフェレイラを待っていたのは、さらなる生き地獄であった。江戸の小日向にある宗門改方・井上筑後守政重の下屋敷(通称切支丹屋敷)で通詞として余生を送ることとなった。
沢野忠庵という日本名をつけられ、日本人の妻を強制的に与えられた。そして屋敷に送られてくる捕らえられたキリシタンに棄教をすすめ、宣教師との通訳を務めた。
彼は1650年長崎で死亡、戒名をつけられ仏教徒として葬られた。
ちなみに同じ時同じ拷問を受けた中浦ジュリアンは、穴吊りに屈せず殉教している。

棄教を迫るための拷問は、どれも凄惨を極めるものであった。
火あぶり、、雲仙地獄責め、竹鋸引きなど、残酷な方法が採られた。

火あぶりは、柱にくくりつけ、周囲に薪を置いて火をつける。苦しみを長引かせ、信仰を捨てさせるため、薪は柱から離してとろ火で焼いた。背教したければ逃げ出せるよう、くくる縄は弱く縛ってあったという。
他にも両手両足を引っ張って、回転させながらあぶることもあった。その際、口から煙が出たという。
また簑踊りという火刑は、手足を縛り簑を着せ、火をつける、と言うものであった。苦しみもだえる様が踊っているように見えることから、この名が付いたのである。

雲仙地獄責めというのは、雲仙の硫黄沸き立つ熱湯を、柄杓に入れて少しずつかける、という熱湯責めであり、気絶したり死にそうになったら手当てして同じ拷問を繰り返したという。

竹鋸引きというのは、路傍の柱にキリシタンを括りつけ、首に刀傷を付けておく。そばに竹鋸を置いておき、通行人にそれを引かせた。竹鋸のため切れが悪く、苦しみが長引いた。ホントに人間のやることか、とか思ってしまう。

他にも、木馬責め、切・支・丹の焼印押し、硫黄と灰を鼻に押しあて口を閉じさせる、前回書いた穴吊り、など苦しみが長くなかなか死なないような拷問が数多く採用された。
これらの拷問を考え出したのは、島原領主松倉重政、唐津領主寺沢広高、長崎奉行竹中重義らであった。彼らの非人道的な拷問はキリシタンに、過酷な重税による圧政は農民達に、それぞれ反感を買わせ、それが島原の乱へと繋がっていくのであった。

殺すだけなら斬首で十分、見せしめのためなら磔で十分である。このような残酷な拷問が行われたのは、キリシタン達の心を砕き殉教の栄光を味わわせない事、凄惨な拷問を見せ他のキリシタンを棄教させることがねらいであった。
またキリシタン宗は邪教であるから、どんな残酷な処刑も当然、というキリシタン邪教観を民衆に植え付けようとしたのである。
そして幕藩体制固めのための神仏中心の思想統制と、鎖国の口実作りに、キリシタン禁制は大いに役立ってくれたのである。
そのためキリシタンの処刑は残酷なだけではなく、神州が穢れる、と言う理由から、キリシタンの遺体は焼かれ、その灰は長崎の伊王島の沖まで持っていって捨てたという。

幕府はキリシタンへの弾圧を強化する一方、段々鎖国体制を固めていく。
日本人の海外渡航・出入国禁止、海外船の入港制限、外国人の日本国内移動禁止、混血児追放、などが段階的に押し進められていった。
1639年のポルトガル船来航全面禁止で鎖国体制は完成する。この事態を打破しようとやって来たポルトガルの使者船に対し、乗組員を処刑、船を焼却したことから、その体制の厳しさがわかる。
日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば攻撃も辞さなかった。

(引用終わり)詳しくはこちらで。↓

http://www.collegium.or.jp/~take/christi/rekisi3.html


日本って、昔は恐い国だったんだ。

「日本の周りは監視船が巡回し、外国船渡来に目を光らせ、発見すれば

攻撃も辞さなかった。」というところは、

今の日本政府に、見習わせたいかも。

怪しい北朝鮮の工作船や、怪しいチャイナの

潜水艦や、調査船が来たら攻撃も辞さない態度を見せないと、

平気で何度も日本の領海に入ってきている。

(周りの国を本気で怒らせたら、通常のミサイルや核爆弾で日本が

やられるかもしれないから、手出しができないのかな?)

麻薬を大量に積んで日本の海に入っていた北朝鮮の工作船は、

捕まりそうになったとき、日本側に発砲してきたので日本も撃ったら、

自爆して沈んだ。

それからは、堂々とは来ていないように思う。