ようちゃんの、お茶の話しと、区別と上下関係は必要だという話し。 | 日本のお姉さん

ようちゃんの、お茶の話しと、区別と上下関係は必要だという話し。

区別や階級の段差は必要なのです。


お茶の手前は 真、行、草 (しん、 ぎょう、そう) とある。

書道も 真の書、 行の書、 草の書がある、 草の書は文字を崩して続けて

書きつなげる。

映画、テレビ、芝居では お茶の場面を真、行、草 (しん、 ぎょう、そう) を

分けずに、めちゃくちゃにして撮影している。


真の手前 ・・ 書院作りで 一間床の間つき 座敷。花器は唐金物
花は ボタン、芍薬、百合、菊、蘭、梅、まで。
貴人台を用いて、 塗り飾り棚、 炉縁漆塗りを使う。
つまり貴人を接待するための最高儀礼の手前。

(献茶式など 神社仏閣、御殿、式場)

草の手前。 2畳、3畳、4,5畳の小間 木地のまま炉ぶちでよい。
花器、竹篭、竹筒 土器、瓶、酒器  山野草、雑草 掛け軸も
4文字熟語の千字文、 俳句、墨絵、短冊、茶掛け(わび、さび)、

行の手前 6畳、8畳の座敷。 半間床でも 一間床つき、
炉ぶち、木枠、花器、陶器、銅、真鍮、差貼り、鉄器、 花は花屋の花でも、

時期の花。

お茶と書は一体なのです。 

真、行は 文字を崩して書かないし繋げない、一文字ずつ、きちんと書きます。
正式に当たる、真や行の手前には 1間の大きさの床の間がついてる
座敷で、行い、床の間の掛け軸も 漢文の詩、禅語 と決まってる。
行なら 平仮名 を使った 和歌でも良いし、 和歌と水墨画でも良い。

ただし 絵だけは駄目。


草の手前なら わび。さびで、水墨画だけでも良い。
2畳の小間でも良い、床の間無しでも 飾り床、 簡易棚 で見立てをして 

茶かけ、(普通の掛け軸の半分の長さの 掛け軸)


どの 手前でも 香 は必要。

映画、テレビ、芝居製作者は、茶道を知らないのか、 真、行、草の区別が

出来ていない。 


格 (かく) というか 位 が「手前」にも「文字」にもあるのです。
言葉にも、親しい人と目上の人と、 もっと身分の高い人と 3段階の
言葉の使い方の違いがある。


私が気になる事は、 毒はきてっくさんが うまい按配に書いてくれていた。


{子供)と(子ども) (小人) は 意味が違う。
子供の 供は 家来供、 お供 使われる、一段下の意味がある。
子ども ども 餓鬼ども、野郎ども、 盗人ども、 犬畜生ども、 

下賎なものの接尾語。

小人(こども) 大人(おとな)とはっきりと身体的の大小で 区別して

料金など差別が有る事を表してる。

そうなると子供と漢字で書いた方が 一番今の家庭にいる子供には

相応しいと書いていました。5月5日のブログです。

今の世の中で 可笑しいのは 区別が無い事だそうです。


平等では 教育は出来ない。親は子供を躾られない。 師匠は弟子を

指導できない。それに 古典芸能の真髄は学べない。


理不尽な事が当たり前に、秩序としての身分差別、階級社会だったのです

から。世界中何処でも、そうだったのですから。今でもインドはそうです。


家庭で、親と子供が対等、教師と生徒が同じ目線、 友達と共通の感情の

共有など出来る方が異常です。

長くて取りとめが無い感じですが、私が勇気、元気、活気の無い無関心、

無感動が日本の病理だと前に言いましたが、次に欠けてるというか変なのは、

この差別、階級と言う段差の無い ノッペリとした 日常の人間関係。


日常の人間関係が 平坦で 却って、日本語を淋しくさせてるし、感情も

起伏が変化が無くて刺激が無い。 


ケという日常と、晴れという祭りの非日常的な馬鹿騒ぎ、 普段着と他所ゆき

の晴れ着など 区別があった暮らしが今は無い。

 飲酒も祭りの時だけが 毎日の人間が増え、毎日外出着を着てる。

そんな贅沢三昧の暮らしにも 疑問を感じます。

変り映えのしない、連続の日常性を四季の自然が彩って、 人はそれに

寄り添う暮らしをしていたように思う。

四季の花、鳥、風、月 が 毎日刻々と変わッて行くのが本来だった。

今は人間が毎日、服装を変え、毎日何か違う事探して、刺激だけを求める 

あやふやな生き方が主流ですから、 何とも不思議な気がします。

以上、ようちゃんのメールから、一部を紹介したした。
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ここからは、日本のお姉さんの意見です。

    ↓

お茶に真、行、草 (しん、 ぎょう、そう) 

があるとは、知らなかった!テレビや映画でむちゃくちゃな茶道を

見せられても、どこが違うのか分からなかったよ。


先生と子供が平等で、大人と子供が平等なら、躾けることができないと

言うのは、本当にそう。目上の人は敬うのが当たり前だった日本だけど、

アメリカのマネをして、目上の人にもフランクにタメ口を使うのがいいと、

思い込んでしまった。父親が、子供に対して、父親と言うよりもお兄ちゃん

のように権威が無い。奥さまが、あきれて「うちには、大きい子供と

小さい子供がいる。」なんて言うような家族がある。子供が必要なのは、

悪いことをしたら、きちんとしかる親なのではないのか。無理に子供に

辛く当たる必要は無いが、子供は子供の内に躾けておかないと、

自分の怒りや欲望をコントロールできない大人になってしまう。つまり、

犯罪者や自堕落な生活をする大人になってしまう危険性がある。


運動会でも、かけっこで1位、2位、3位を表彰しない小学校が

増えたんだって。平等にするために。

そんなのが平等とは、違うだろう。

運動ができない子、できる子、勉強ができる子、できない子、

五体が揃っている子、五体の揃っていない子、健康な子、健康で無い子、

絵や音楽がとくいな子、絵が音楽がとくいではない子、

いろんな子がいても、みんながそれぞれを認め合う社会になることが、

平等な社会だろう。

いろんな子がいても、みんながかけがえの無い大切な命なのだって、

教えるのが教育だろう。得意な分野をどんどん褒めて伸ばして、

素敵な大人になってもらうための学校だろう。


先生や、親や、目上の人を敬うことは、大事だと思います。

大人も、子供に敬われるような責任ある態度をとる必要がある。

子供のいい見本にならないとね。悪い見本でも、子供はああいう風には

なるまいと、反面教師にするだろうけど、繊細な子供だとぐれてしまう場合

もある。大人は、子供を守り、育てて、教育する責任がある。

だから、大人たちは、子供たちより偉くなくてはならないし、大人は長年

生きていて、子供より経験や知識が豊富なのだから、

子供は大人や教師や師匠を敬わねばならない。

伝統文化や知識はそうやって、大人から子供に受け継がれていく。


インターネットで調べればなんでも知識が得られるようになっても、

大人から子供へ、直接、教えなければならないことがたくさんあるはず。