高槻の高山右近は、キリシタン大名だった。
高槻に行ったら、カトリックの教会に高山右近の銅像があった。
公園にも、キリシタンっぽいレリーフが飾ってあった。
高槻にはキリシタン大名がいたのだ。キリシタン大名にも
いい人と悪い人がいたのだが、高山右近はいい大名だったようだ。
最後には、マニラに流されてそこで客死したそうだ、
犯罪者でもないのに、そんな目にあって、かわいそうだ。
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http://www.hi-ho.ne.jp/luke852/ukon.html
やはり新任のコエリヨが、
秀吉を怒らせたな。
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http://www.hi-ho.ne.jp/luke852/ukon/ukon004.html
(略)
日本イエズス会準管区長に新任したコェリョは天正14年(1586)秀吉に謁見。九州での保護 を願う。秀吉は激励し、歓待した上、城中の隅々まで案内した。このときフロイスが通訳した。フロイスの年報では、秀吉がポルトガル船を依頼したように書かれている が、オルガンチノの書簡では、秀吉の歓待に思い上がって、コェリョとフロイスが、 「九州の全キリシタンが秀吉に味方する、ポルトガル船を世話する、秀吉を九州に招 く。」と申し出たとされている。彼らは政治的勢力を持とうとしていた。それに秀吉 が気づかぬはずがない。秀吉の性格を知っている右近とオルガンチノは危険を察知、 とどめようとしたり、話をそらそうとした。オルガンチノは通訳を申し出たが、コェ リョは自分と同意見のフロイスを通訳にしてしまった。
天正15年(1587)、秀吉は島津征討に出陣。陸は高山右近、海は小西行長のクルスの旗がはためいた。島津は5月8日降伏。6月7日秀吉は箱崎(博多)に凱旋。そのときコェリョはフスタ型小型武装南蛮船で秀吉を出迎え、大砲などの武器を見せ、スペイン艦隊が自分の指揮下にあるごとく誇示した。右近らはその南蛮船を秀吉に差し出すように勧めたが、コエリョは聞かなかった。
秀吉は憤慨した。
かねてから反キリシタンで、秀吉の侍医である施薬院全宗は、このチャンスに秀吉に進言。 キリシタン迫害が始まった。
後に巡察士ヴァリニャーノは、イエズズ会の方針に従わないコェリョの軽挙と独断によって引き起こされた危機であると非難している。
フロイスの日本史では別の原因が記されている。全宗は秀吉から有馬の良家の器量の良い女性を連れてくるように命令されたが、大部分がキリシタンであった住民はそれを拒否した。 それで全宗は怒りキリシタン全滅を公言し、秀吉も激怒したという。いずれにしてもそれらは表面的な理由、もしくはきっかけに過ぎず、秀吉はかねてからキリシタン排除を計画していたと思われる。
(略)
スペイン系のフランシスコ会の宣教師が来日、秀吉への配慮もなく活発な布教活動を行うようになった。
文禄5年(1596)、土佐浦戸にイスパニア船サン・ヘリーペ号が漂着した。 これが日本征服を企てて、フランシスコ会士をスパイとして送り込もうとしたのだということにされ、乗組員が捕らえられた。
(略)
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秀吉は、とことんキリシタンを迫害したのではなく、スペイン系の宣教団が
気に入らなかったので、26人を殺害したのだそうだ。
明の使者が「スペインは、先に宣教師を送って、
そのあと、軍隊を送ってくる。」と言って入れ知恵したからという説もある。
高山右近は、この時は一緒に処刑されなかった。
ポルトガルのザビエル系だったからだそうだ。