東洋のキリシタンと近代史の絡み | 日本のお姉さん

東洋のキリシタンと近代史の絡み

日本では天文12(1543)年に、鹿児島県の種子島に漂着した明の船に乗っ
ていたポルトガル人が、初めて鉄砲を日本に持ち込んだとされている。(スペ
インのイエズス会の記録では1542年)

明の儒生が通訳として、筆談で種子島の領主と会話をし、鉄砲の実演をした。
そのとき島主は、娘二人を奴隷として差し出し、鉄砲2丁と交換したそうだ。

種子島にいた堺の商人と和歌山の僧が鉄砲を本土に持ち帰って、足利将軍

家に献上してから鉄砲が日本で広まることになった。15世紀、明は日本と

貿易をしていなかった。倭寇が私的な貿易を行っていた。火縄式の銃は、

種子島に入る以前から日本に入っていたらしい。

16世紀の日本は戦国時代だった。堺の鉄砲鍛冶が優秀だったおかげで、

あっという間に日本の鉄砲生産は世界一となり、性能も世界一となった。

銃は主にオスマントルコ帝国に輸出されていた。最初は火縄銃だったが、

間もなく銃と火薬を一体化させ、すぐ装填できる銃に改良された。

織田信長は、鉄砲を使ってのしあがった。

フランシスコ・ザビエルは、必ず各地の大名に会って、宣教の許可をもらって
から布教をした。ザビエルは日本の文化や風習に配慮した宣教を行った。

さらにザビエルは、チャイナで宣教をしようとして、ポルトガル船の停留地で
あったマカオ西方の上川島に渡りそこで死んだ。
信長はポルトガルの宣教師で、インドのゴアでフランシスコ・ザビエルに

会って日本に来たルイス・フロレスに好意的で、キリスト教の宣教を黙認した。

その後、スペイン系の宣教師が来日した。フランシスコ会や、フィリピンから
きたドミニコ会など、日本文化を大切にしない宣教法をとる宣教師たちが来日
した。信長は、ポルトガルと南蛮貿易をするために、彼らも商売に利用できる
と考えた。

日本では昔から人買いという職があり、奴隷売買は行われていたが、1540
年代の後半から、一部の戦国大名たちは、火薬と交換に捕虜となった

日本人を奴隷として売り飛ばすようになった。

奴隷売買には宣教師の関与が疑われた。心ある宣教師は、大名達が奴隷

を売りたがるのに驚き呆れ、宣教の害になるので奴隷を売らないようにと

いう手紙を書いている。

天正10(1582)年、遣欧少年使節団がローマへ行った時、使節団の少年た
ちは、各地で日本人が奴隷市場で安い値で売られ、動物のように使われて

いるさまを目にした。ポルトガルやアルゼンチンなど、各地で日本人が奴隷と

なっていた。各地で日本人奴隷の悲惨な状況を目にした少年たちは、同胞を

外国に売る日本人に対して怒りを覚えたと記録にある。

一部の日本人女性は、性の奴隷としてアフリカにも売られていた。色白の美し
い日本女性が、恥ずかしいところを顕わにされて性の奴隷として売られていく
さまを見て、少年たちは嘆いている。

豊臣秀吉は、九州統一直後、博多の耶蘇会リーダーのガスパール・コレヒヨ

になぜポルトガルは宣教にそんなにも熱心で、日本人を買って奴隷として

売るのかと厳しく難詰したらしい。当時マニラとアカプルコも、1560年から

奴隷貿易行路になっていたようで、宣教師が黒人奴隷を連れてきた。

ガスパール・コレヒヨは、元々宣教師ではなかったが、日本で宣教師として働
き、土地を購入したり、戦艦を2隻用意して秀吉に中の様子を見せた。宣教師
たちは、戦艦を秀吉に贈り物とするようにコレヒヨに勧めたが、コレヒヨはそ
うしなかった。

案の定秀吉は、コレヒヨから戦艦を見せられた後直ぐに伴天連[バテレン]

追放令を出している。大名が神社仏閣を壊すことを禁じたり、奴隷の売買を

禁じる命令だった。天正15(1587)年だった。

慶長元(1596)年に、サンニフェリペ号が遭難して四国土佐国に流れ着いた
時、秀吉は部下を派遣して所持品を全て没収したのだが、そのときスペイン人
航海士が、「イスパニアが広大な領土を獲得したのは、キリスト教の布教と宣
教師の手引きによるものだ」と告げた。その言葉にも秀吉に驚き、再度の禁教
令が下された。

秀吉は京、大阪で、フランシスコ会系の24人のキリシタンを捕らえ、2人を
追加し、日本人キリシタン20人、スペイン人4人、メキシコ人1人、ポルト
ガル人1人を長崎で処刑した。

秀吉が明国征服を掲げて朝鮮半島に攻めていったのはこのような時期だった。
朝鮮人を日本に連れてきて、奴隷としてポルトガル商人に売り渡していた日本
人もいた。(宮崎正弘氏によれば、明の人間が秀吉にキリスト教の悪口を

吹き込んだそうだ。秀吉が明を攻めようとしたのは、日本を守るため?)

徳川家康は武器の輸出を禁止した。1600年にオランダ船が漂着し、イギリ
ス人航海士が家康に仕えるようになった。慶長17(1612)年に自称キリシ

タン同士のワイロがらみの領土問題が起こり、家康は二人を処罰し、翌年

からキリシタンを迫害しだす。ーーー1619年京都で52人、1622年長崎で

55人、1623年江戸で55名を処刑。

1637年には、肥前島原と天草で百姓3万人が島原の乱を起こした。

藩主が過酷な税を取り立て、百姓たちが生きていけない状態だったので、

乱後藩主はそれぞれ斬首、自害の刑にされたが、百姓たちにキリシタンが

多かったことから家康は危機感を持ち、1639年には寛永の鎖国令を出した。


明暦5(1657)年「郡崩れ」と呼ばれる迫害で411人が斬財、608人が

検挙された。

大村では万治元(1658)年にも、131人が処刑されている。長崎、その他

の地域では280人が処刑された。

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ペリー来航によって日本は鎖国を解き、1858年、日米修好通商条約、日仏
修好通商条約が交わされ、1864年にフランス人のために長崎に大浦天主堂
が建設された。

2年後、浦上村に隠れキリシタンがいたと分かり、幕府が捕まえて拷問した。
浦上のキリシタンは4度も迫害に遭い、その度に拷問された。プロシア公使、
フランス領事、ポルトガル公使、アメリカ公使、フランス公使らが、大阪城で
将軍慶喜に抗議した。

1868年に迫害は止んだが、慶応4年になると、再度キリスト教が禁止され
た。次の日に英国公使が大隈重信に会って抗議するが、隠れキリシタン114
人が流刑にされ、流刑先で水責め火責めの拷問を受けた。

岩倉使節団が、英国女王にキリシタンへの宗教迫害を責められ、日本が

外国に不平等条約を改正してもらえない理由はキリシタン迫害であったと

気が付いたが、国内では保守派が「日本には日本の宗教がある!」「迫害を

止めても不平等条約は改正されるものか!」と反対し、
一般の日本人にはキリシタンは邪宗だという考えが浸透していたため、国内

の反対にあって簡単に改正できなかった。

明治6(1873)年になって浦上天主堂が建設され、流刑になっていた3394人

のキリシタンも釈放されたが、その内662人は拷問で死んでいた。

1889年には大日本帝国憲法が成立し、信仰の自由が一部制限された。18
90年には天皇が教育勅語で神とされ、日本のプロテスタント系キリスト教会
とカトリック教会は、いろんな教派をまとめて合併し、それぞれ戦争に協力す
るよう国から命令された。

1931年、満州事変が起きた頃には、天皇を拝まないキリスト教会のホーリ
ネス系教団は、迫害されて殺された人もいた。あるキリスト教系女学院の記

録によると、皇居に向かって礼をするように強制されたが、天皇の写真に

向かって礼拝するようには強制されなかったようだ。

朝鮮半島では、天皇の写真に礼拝しないクリスチャンは、殺されたり酷い

拷問を受けた。支那では、1860年から1870年まで、キリスト教の宣教師と
クリスチャンになった支那人が、一般の支那人から迫害されて殺されたりしな
がらも細々と宣教活動をしていたが、1911年の辛亥革命の後、中華民国に
なってからアメリカ人の若い宣教師たちが大勢支那に入った。

1915年に日本が支那に21ヶ条の不平等条約を認めさせたが、日本は宣教
師や外国人には何もしなかったので、彼らは支那や満州で1945年まで布教
活動を続けた。宣教師たちは、支那人や満人の日本軍に関する不満の手紙

を、1千通もリットン調査団に渡すなどして満人の味方をした。

南京攻防戦では、宣教師は支那の訴えをアメリカ政府に伝えたが、実際に

目撃した事例は一回しかなかった、と東京裁判では正直に証言している。

蒋介石は、妻がアメリカ留学の経験があるクリスチャンだったので、妻の影響
で自分もクリスチャンになったと公言してアメリカの歓心をかったが、台湾で
大勢の知識人を殺した事実からすると、ポーズだけだったようだ。

蒋介石の妻は、あちこちの教会で講演して、日本は天皇を神として拝む蛮人

の国であり、支那は日本に侵略されたかわいそうな国なので、アメリカは支那

を助けるべきだというイメージを植え付けるのに成功した。

実際には、満州はロシアが実効支配していた土地であり、清国は自由に入る

こともできなかった地域で、日露戦争でロシアに勝った日本が正式にロシア

から南満州鉄道の権利を譲り受けた地域である。

また、支那の領土は万里の長城の南側だけであり、北側の満州は支那の

土地ではなかったのだ。

しかし、支那は多くの軍閥が割拠して争っている状況だったので、平和な場所
は外国が管理している租界か満州しかなく、大勢の支那人が満洲に移住して

きた。

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蒋介石は、数多くの合成写真を作らせ、写真によって日本が極悪非道な国で

あるとのイメージをアメリカ人の心に植え付けた。線路の上で泣いている支那

の子供の写真は多くのアメリカ人の心を打ったが、別の写真では支那人が

子供をわざわざ運んで線路に置いている様子が写っている。ヤラセ写真

だったのだ。

上海で日本人居留民を襲ったのは支那人である。飛行機で外国人居住区を

爆撃したのも支那軍であるが、日本軍のせいにされた。ーーー満州で何が

起こっても西洋やアメリカが気にしないので、蒋介石は常日頃から、上海で

日本を攻撃しないとダメだと語っていた。

上海では日本人が殺されため、今でいえば日本の警察では守りきれず、

大勢の日本人被害者を出した後で、ついに日本は軍を送ることになった。

日本軍は上海から蒋介石軍を追い払い、先鋒部隊は当時の支那の首都の

南京へ向かい占領した。

南京市内に入る目前の丘では、大勢の日本軍兵士が支那軍に殺された。

南京の城壁の外側の穴の中には、大勢の支那兵が縛られていた。

敵前逃亡しないようにと味方から縛られたのだ。この穴の中で死んだ支那兵

を日本軍が埋葬した事が支那によって悪くアメリカに伝えられた。

戦闘に敗れてから、一般人の服を着て一般人に紛れ込んでいた支那兵が

処刑された。――――軍服を捨てて一般人の服を着て戦う者はゲリラであり、

捕まっても捕虜とはされない。一人で歩いている日本兵は、一般人の服を着た

支那兵に撃たれて殺された。だから、日本軍はゲリラを掃討する必要が

あった。そうしておかなければ、次に来る日本軍の正規兵が殺されるからだ。

それが戦争だ。

しかし、こうした日本の悪口を聞かされて、多くのアメリカ人は支那に同情し
た。アメリカ人にとっては、支那は多くのアメリカ人宣教師を抱える大切な国
だったのだろう。

キリシタン大名の奴隷売買を、すべて宣教師のせいにして、日本は宗教弾圧

をしていないなどと言わないほうがいい。火薬が欲しくて同胞を外国へ売った

のは日本の大名だったのだ。彼らは、自称キリシタンだが、商売の都合上

キリシタンになった大名もいる。その証拠に、後に迫害を恐れてキリシタンを

止めた大名もたくさんいる。)

当時は、奴隷売買が西洋では当たり前だったので、宣教師の中には平気で黒人
奴隷を日本に連れてきたものもいた。商売目的で日本に入った悪い宣教師もい
た。秀吉はそれなりに危機感を感じて行動していたのだが、ーーー江戸時代や
明治になってからも、日本はキリシタンの信仰を弾圧し、拷問を加えて殺して
いたのだ。

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池本幸三/布留川正博/下山晃共著:人文書院
『近代世界と奴隷制―大西洋システムの中で』