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【集中連載】中国経済をみる眼(2)中国経済発展の軌跡(その1)-鷲尾紀吉

 中国経済をマクロの視点と歴史の視点の組み合わせで、日本の対中投資とかかわらせてみることとする。第二次大戦後における中国経済の発展には大きく三つの節目があり、それぞれの節目で中国経済は大きく変わってきていることがわかる。

 第一の節目は、1978年12月の改革開放政策の決定である。この改革・開放政策は、四つの現代化(農業・工業・国防・科学技術の現代化)を国家目標とし、市場経済の導入と対外経済開放を行おうとするものであるが、1949年の中国革命に匹敵し、その後の中国の歩みを決定づける国家政策の大転換であった。

 しかし、この政策決定は、突如降って沸いたようにでてきたものではなかった。1962年6月、トウ小平が「白猫でも黄猫でも、鼠を捕る猫が良い猫だ」(これは、一般に「白猫黒猫論」として知られている)と現実路線を提唱したところ、こうした言動は資本主義的姿勢であるとしてトウ小平は失脚し、その後、毛沢東が「紅衛兵」を動員し文化大革命が始まった。1976年、毛沢東が死去すると文革派が一掃され、トウ小平が復権し政権を握ったことを受けて、改革開放政策が打ち出されたのであるが、その発想自体は、前述の通りこの決定の15年以上の前に萌芽がみられるのである。

 対中投資の面から改革開放政策の特徴をみると、経済特区が設置されたことである。対外開放といっても、それは中国全土に及ぶものではなく、経済特区というある特定の地区に限定し、その地区を中心に市場経済化を図るという漸進的な外資開放政策が採用されたのである。しかし、限定的な開放とはいえ、外資系企業の拠点設置による雇用創出と生産力増強、輸出拡大は中国経済に大きなパワーをもたらし、その後の全面的な市場経済化への礎を築いたことは確かであるといえる。

 第二の節目は、1992年10月、社会主義市場経済の確立が採択されたことである。これにより中国の市場経済化が一挙に進むこととなった。これが採択される前に、トウ小平は1992年1月18日-2月21日、武漢、深セン、珠海、上海などを視察し、改革開放を加速すべき談話を発表している。いわゆる南巡講話といわれるものである。

 そこで彼は、資本主義か社会主義かを問うことは有害なことであると説いている。西洋の経済学の論理に従えば、社会主義(計画経済)と市場経済は相反する概念であることから、一部の学者はこの点に疑問を呈し、この体制はやがて崩壊するという論拠となっている。しかし、対中投資側からすると、本格的な市場経済体制への移行であると安心感を与え、対中投資が加速されることになる。

 日本の対中投資においても円高の進行、コスト競争力の強化、市場の拡大などの要請から投資件数、投資額とも増加の一途をたどった。特に日本の対中投資で特徴的なことは、中小企業の占める割合が多いということであり、これは中国側の受入体制と中小企業側のコスト低減、あるいは下請企業にみられるような親企業追随型投資行動がその要因と考えられる。この一種の中国投資ブームは、1990年代後半まで続いた。(続)(執筆者:鷲尾紀吉・中央学院大学大学院商学研究科商学部教授)
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