ふるまいよしこさんによると、温家宝総理の論文は現実的だったとか。
中国ウォッチャーたちをさらに「尋常ではないぞ」と感じさせたのは、26日に
発表された、温家宝総理による『社会主義の初級段階の歴史的任務と我国の
対外政策に関するいくつかの問題』という論文であった。
まず、中国の要人は学者でない限り、個人名で論文を発表した例はこれまで
ほぼない。彼らの政策的訓話や方針は、常になにかの場でそれら要人が語り、
国営通信社の専従記者の手でまとめられて、「◎◎氏はこう語った」と発表
されるものがほとんどだ。さらに「温家宝」と署名された論文の中身はまた、
「ところどころに温家宝氏個人のスタイルが現れている」(明報・2月27日)と評
されている。
「深く我国の国情とそのおかれた歴史
的段階を認識することは、我われの
党による科学的理論の提起、正確な
路線方針精神の制定における基本的
根拠であり、さまざまな事業の大切な
前提である」から始まるこの論文は、確かに読んでみると、これまでの
中国の伝統ともいえる、「フレー、フレー、中国!」的な色彩がほぼそぎ落とされて
いる。
「我国は現在、そして今後もまた長期に
渡って社会主義の初級段階にある…(略)…
しかし、初級段階だからといって、
生産力の遅れだけを論じるのではなく、
社会主義制度の不完全性と未熟さも
論じなければならない。トウ小平同志
は、社会主義の本質は生産力の開放
であり、生産力の発展であり、剥奪を
消滅させ、両極化を消失させ、
最終的に共同の富に達することにある
と指摘した」(「温家宝:社会主義の初級段階の歴史的任務と我国
の対外政策に関するいくつかの問題」新華ネット・2月26日)
この論文ではこのようにトウ小平氏には触れているが、同氏が説いた「先富論」に
は一切触れていない。そしてこう続く。
「生産力の長く大きな発展がなければ、
最終的に社会主義の本質が求める
社会の公平さと正義は実現できない。
生産力の発展に応じて逐次社会の
公平さと正義を推進しなければ、ます
ます十分に社会全体の積極性と想像
力を引き出すことは不可能であり、
さらには生産力の大発展を恒久的に
実現することはできない」(同上)
現在、社会の多くの場で噴き出している貧富の差、そしてその格差から来る
多くの理不尽、矛盾を念頭に置いた言葉だといえよう。たとえば、家族に
会いたくて里帰りしたのにその行き帰りにへとへとになって、家族への念や
習慣を無理やり変えていかなければならない呉さんのような人たちがいる
一方で、オンラインで4割引のチケットを買って旅行に出ることができる人たち
も存在しているのだ。
「近代以降、中国は立ち遅れた。
門戸を閉じた鎖国、列強の侵略が
中国に発展の機会を失わせた。
中華人民共和国が建国してから、
我国の社会主義建設は大きな成果を
見た。しかし、我われの大きな過ち、
特に
『文化大革命』という10年の大災難は、
われわれにまたも大きな発展の
チャンスを失わせた。
チャンスは得がたく、あっという間に
過ぎ去ってしまう。しっかりとつかまな
ければならないものなのだ。
改革開放から28年、中国経済が急速
な伸びを続けてきたことは奇跡である。
今後、中国にさらにこのようなチャンス
はあるのだろうか、そしてそれはどれ
くらい続くのだろうか?
チャンスはある。どれくらい続くかは、
ある程度、我われ自身の内外政策と
対応能力にかかっている」(同上)
わたしはここを読んで、かなり実務的な内容だと感じた。中国にとって鎖国、
侵略の歴史、そして文革は近代から現代中国に続く大きなネックである。
温氏はここで、その後の経済成長を大げさに賛美することによってそれらを
「歴史の彼方へ蹴飛ばす」のではなく、過去「問題があった」こと、「チャンス
は逃げていく」ことを現時点の視点として語っている。
「独立自主の平和外交政策とは主に、国家の独立、主権、統一、そして領土の
保全を守り、物事それ自体の理非曲直に基づいて、国際問題に自主的、
独立した判断を下し、自身の立場と政策を決定し、意識形態と社会制度に
よって線引きをせず、自分の価値観を他人に
押し付けず、いかなる国や国家集団と盟約を結ばず、
他国の内部事務に干渉せず、またいかなる国に
よる我国の内政への干渉も許さず、覇権主義と強権政治に反対し、また自身も
永遠に覇を唱えないことである」(同上)
これらは中国ウォッチャーにとってさほど珍しい言葉ではない。
ただ、それはこれまで恒例の視察やスピーチの場で小出しにちょこちょこと
触れられ、先に述べた形で報道されてはいるものの、こんなふうに要人の
署名による「文字」にまとめられたものはなかった。
つまり、このように温家宝氏の名前で書かれ、公的に発表された論文は、ある
意味正式な施政方針にあたり、「公約」的な強制力を持つことになる。
もちろん、これを一笑に付す人もいるだろう。ただ、全体に流れる実務的な
語調は、これまでわたしが散々目にしてきた中国の公的発表文に比べて、
いわゆる「ベタ」な、分かりやすい表現に満ちている。
さらに注目したのは、「強国」だの「大国」だのという言葉が文中、「10数億の
人口を抱える大国」という表現以外、一切使われていないことだった。中国で
はここ数年、メディアではこれをキーワードに自国を語るのが大流行りだが、
現実社会の貧富の差、そして不合理さを目にしている我われ外国人は、珍妙
というか奇妙な気分にさせられる。そんな浮ついたイメージを振りまいていな
い点でも、温氏の論文は新鮮なのだ。
これが発表されたその日に、海を隔てた日本では「日本は20年くらいの間に
中国の何番目かの省になるかもしれない」と語った人間がいた。
中国語と日本語のウェブサイトを飛び回って後続の解説や評論を読んでいる
うちに強く感じたのは、よく言われるように日本では学術面での研究がまったく
政治、外交に生かされていない、という点だった。
日本の学術界における中国研究は非常に進んでいる、と中国人も認めて
いる。なのに、なぜ政治の世界はまだまだ冷戦思想にあるのだろう。これは
日本人全体が考えていくべきだろう。
*文中、「トウ小平」氏の「トウ」は「登」におおざと。
ふるまいよしこ
フリーランスライター。北九州大学外国語学部中国学科卒。1987年から香港
在住。
近年は香港と北京を往復しつつ、文化、芸術、庶民生活などの角度から浮か
び上がる中国社会の側面をリポートしている。著書に『香港玉手箱』(石風社)。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883440397/jmm05-22
個人サイト:
http://members.goo.ne.jp/home/wanzee