2・28大虐殺事件
【論説】台湾二.二八大虐殺事件
時局心話會代表 山本善心
2004年10月、民主党の衆議院議員らと訪台した際、228和平祈念公
園に招かれた。当日は陳水扁総統夫人も出席され、盛大な記念式典が開
催された。ここで、我々は二.二八事件の真相に迫る機会を得て、この数万
人規模の虐殺事件を詳しく知ることとなった。
228和平祈念公園の名称は、陳総統の市長時代に改称されたものであ
る。記念碑の除幕式は1995年の2月28日に行われた。当時の李登輝総
統は「政府が犯した過ちに責任を負い、不快謝罪の気持ちを表す」と表明。
しかし李氏は加害者ではなく、内省人という被害者側の立場にあった。
弊誌の表紙を飾る筆者の写真はこの228和平祈念公園を背景にしたも
のだ。今日の台湾の繁栄と平和が、これら台湾先人の尊い犠牲のうえに築
かれたとの思いを強くする所以である。なぜこの事件が起こったのか、この
問題を国際犯罪の視点から捉えてみたい。
事件はなぜ起きたのか
1947年2月27日、事件は台北市内の繁華街に位置する「天馬茶房」とい
う喫茶店の前で起こった。林江邁という中年の女性が、家計を支えるためヤ
ミ煙草を屋台で販売。そこへ市中の取り締まりに来た国民党の取締官6名
が現れ、ヤミ煙草のみならず売上金まで没収しようとした。
女性は取締官たちに「これはうちの生活費だから取らないで…、お願い、
返して…返して」と必死の思いで哀願する。しかし戦後中国から来た外省人
とおぼしき取締官は「うるさい、黙れ」と追いすがる彼女の頭を数回殴打。女
性は顔面血だらけとなり、もうろうとしながらも「返して、お願い」と執拗に追
いすがるのだった。
この非情な光景を見ていた市民が、怒り狂って罵声を浴びせる。さらに民
衆の怒りは収まらず、石を投げつけるものまで現れ、取締官は恐れおののき
拳銃を乱射した。その一発が陳文渓という見物人に命中し、即死。怒り心頭
の民衆は警察署を包囲、外省人に対する抗議・無差別攻撃・暴動が台湾全
土に広がりを見せた。
指揮官・陳儀の決断
翌28日、群衆は台湾行政機構(国民党政権本部)を包囲し、台湾行政長
官公署で犯人の処罰を要求。ところが長官公署は群衆の声を聞くどころか
いきなり発砲を繰り返し、さらに数十人の死傷者を出した。
台湾行政長官兼警備総司令である国民党の陳儀は、台湾人との対話姿
勢を示した。3月1日、台北のインテリや知識人が集まり「二.二八事件処理
委員会」を作る。彼らは陳儀に対し、貪官汚吏の処罪、自治の実施、行政・
司法・人事などに台湾人の登用を要求。さらに台湾人たちは放送局を占拠
して「台湾人よ立ち上がれ!」と全国放送で国民に呼びかけた。
本来ならば台湾総責任者である陳儀は、台湾人の感情が鎮まるのを待っ
て冷静に解決するのが賢明と思われた。しかし民衆との調停に応じる姿勢を
見せつつ、結局は南京の蒋介石に派兵を求める。3月8日、蒋介石は陳儀の
要請に応じて、上海から21師団、福州から憲兵第四団を派遣し、10日には
台湾全土に戒厳令が敷かれた。
全土に拡がる虐殺
台湾行政のトップである陳儀は、国民党政権の増援部隊が到着するまで、
台湾人側の要求を呑むようなそぶりを見せる。しかし台湾に上陸した21師団
の師団長・柯遠芬をはじめ、憲兵団長の張慕陶らは台湾人の徹底的な殺戮
を命じた。
台湾全土、特に台北、高雄、嘉義、基隆では凄惨な虐殺が行われる。
1962年の人口調査では、
当時12万人前後の台湾人の行方
不明が発表された。
行政院報告や二.二八事件責任帰属研究では、
約2万5千人前後が妥当な死亡人数
ではないかと報告している。
大陸から派遣された増援部隊の殺害方法には、目を覆うものだ。全く無関
係な市民が巻き添えにされ、死体は手首と足首に針金を通し数珠繋ぎで射
撃され、基隆港に投げ捨てられた。
中には目玉がくり抜かれ、手足が切断されるなどの無惨な死体も路上に
散らばっていた。
国民党の恐怖政治
15日間近い鎮圧・惨殺に続く最大の暴挙は、
国民党当局が知識人を中心とする
有能な人材を選び出し、逮捕状もなく
裁判にもかけず一方的に処刑した
ことだ。知識人たちの研究成果の多くは国民党に接収された。
これは国民党による歴史に残る虐殺事件であり、国際犯罪である。陳儀は
普段から優柔不断と言われていたが、このような大騒動になるとは本人も思
わなかったであろう。問題解決の判断と決断を誤り、結果的に多くの台湾人
を虐殺した陳儀の罪は重い。彼は後に、共産党の内通者という罪で蒋介石に
処刑された。
この後中国から追われた蒋介石総統が38年間台湾を恐怖統治。以後台
湾人は中国人を恐れ、従順な奴隷として生きることを強いられた。台湾人は
今でも国民党系のメディアや利権構造に支配されている。「日本統治時代の
台湾はのどかで平和だった」と述懐する親日家が多いのも、こうした時代と
の比較によるものではなかろうか。
戦争と一般犯罪の区別
戦争と一般犯罪とは全く異なる問題であり、これを混同すると歴史の本質
が見えない。戦争とは国際的な力学の問題であり、負ければ全てが負け損
となる。日本は広島や長崎に核爆弾を落とされ、数十万人の生命が失われ
たが、いかなる悲惨な結果であれ、戦争中の出来事に文句は言えないのが
ルールだ。
つまりどんなに悲惨であり残酷であっても、戦争中のことは犯罪ではない。
しかし二.二八事件は、戦争状況でないのに強者が特定の弱者を一方的に
殺戮した、許し難き一般犯罪である。
たとえば従軍慰安婦の場合、全く根拠のない河野談話や韓国側のいうよ
うな、軍による一般婦女子の強制連行があれば、一般犯罪として日本政府
が処罰されるべきだ。しかしこれらは根も葉もない作り話であることが明瞭
になった。
世界的な虐殺事件
筆者は、二.二八事件は世界三大犯罪の一つだと思う。一つはヒトラー治
下で起こったユダヤ人大量虐殺である。当時のドイツ軍は戦争状態の敵国
人でもないユダヤ人をガス室で大量虐殺した。それだけでなくポーランド人
を駆り集め、低開発地に強制的に押し込め奴隷労働者として酷使したのだ。
これらは戦争とは全く関係ない、別個の一般犯罪である。それゆえドイツは
ユダヤ人に対し、謝罪と賠償を行ってきた。
二つめは65万人の日本人捕虜のシベリア抑留だ。これはソ連がジュネー
ブの捕虜交換条約を全く無視したもので、国際法違反に当たる一般犯罪で
あった。しかしソ連は日本に謝罪もせず賠償金すら払っていない。一方、米
国は日系アメリカ人を恐怖と人種的差別で抑圧したとして謝罪し、多額の賠
償金を支払っている。
日本は中国や韓国に対して一般犯罪を行っていないので、毛沢東も賠償
請求をしなかった。国際条約を遵守した戦争中の出来事だったからである。
これらの事例を見れば、台湾で行われた二.二八事件がいかに残虐な事件
であったかご理解いただけると思う。
二・二八は歴史の鑑
二.二八事件は本省人にとって台湾民主化運動の柱であり、金字塔とい
えよう。多くの先人の犠牲のうえに、今日の台湾民主化がなされたものだ。
尊い生命の犠牲があればこそいつまでも人々の胸に残り、民主化を求める
大きな力となっていく。
国民党の蒋介石政権が犯した一般犯罪は、台湾人にとって最大の武器
である。日米台は「民主主義と自由、人権」という価値観を共有する関係に
ある。こうした先人達が残した財産を無駄にすることなく、この事件を世界に
公開する努力を怠ってはならない。
蒋介石もそれ以降の外省人政権も、大量虐殺に対し謝罪も賠償もしてい
ない。外省人たちは未だに罪悪感はおろか後悔の気配すら見せていない。
本省人たちが、いまだに長期的戒厳令時代の恐怖から抜け切れていないの
は臆病だ。この責任は卑屈な台湾人にあることを肝に銘じるべきではなかろ
うか。この事件こそ歴史の鑑にすべきだと断じたい。
『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html
『日本之声』 http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe
(Big5漢文)
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台湾の大切な知識人が3万人も殺されたなんて、チュゴク人って
むちゃくちゃする人種だな。チュゴク人は、自国の知識人も
文化大革命で大分殺した。
なんてことをするんだ。大体知識人や芸術家は清国の生き残りだった
ようだが、ようするに、漢人が昔の勢力である清国の文化を抹殺した図
なのだろうか。共産党しか信じるなという意味なんでしょうね。
殺した知識人や芸術家は、みんなで料理して食べたそうだ。
チュゴク人って、野蛮だったのね。