テレビで、上戸彩が演じる李香蘭のドラマを観た!
山口淑子さんが、昔、満洲で、李香蘭(リーシャンラン)という有名な歌手だった
らしいと言うのは知っていたが、テレビで彼女の生い立ちを見ると、すごく苦労
しているのでビックリした。
チャイニーズとして芸能活動をしていたので、戦後、国民党に捕まって裏切り
者として死刑になるかどうかというところまでいったとは、、、。
大変な人生だったようだ。
上戸彩が、当時の髪型で、美しいチャイナドレスをとっかえひっかえして、うまく
演じていたが、パンダの着ぐるみの次に、李香蘭の格好が似合っていた。
小さくて可憐な李香蘭の雰囲気がよくでていたのではないだろうか。
と、言っても写真でしか李香蘭を見た事がないのですが、、、。
李香蘭は、満洲国のお姫様で日本人の養子として育った川島芳子とも、親交
があったというのも、初めて知った。
川島芳子は、男の格好で自分のことを「ぼく」と呼んでいた。
満洲のために働いたのに、用が済んだら相手にされなくなって、相当荒れて
いたようだ。演技のヘタな女優が演じていたが、そのウソくさい演技も川島
芳子のすさんだ心を表すのにぴったりで、わざとあんな変な笑い方をしていた
ならすごいなと思った。あれでは川島芳子は精神錯乱の一歩手前という感じ
だ。戦闘に参加した祭に受けた古傷が痛んで、麻薬なしには普通の生活が
できなかったようだ。
李香蘭の親は、満洲の撫順で、一生懸命チャイナと日本の友好のために
頑張ったのだが、その努力も報われず、戦争に負けたとたん、財産も現金も
タンスもベットも着物もすべてロシアの力を借りて満州を占領した共産党に
没収されてしまった。
チャイニーズにひどい扱いを受けていた両親は、失意のどん底にいた。
戦争に勝ったら、すぐに日本人の財産を没収するのはあんまりな話だ。
これが戦争というものなのか。
アメリカ軍も、日本に勝ってから、日本人の金持ちの家を没収して、軍の施設
にしたり、金持ちの家を平民に与えたらしい。(良く知らないが、華族の家は
大抵没収されたらしい。)
川島芳子は、裏切り者として銃殺刑にされた。
「今度生まれてくる時は猿がいい。人間なんて、、、。」と川島芳子はつぶやいた
そうだ。
李香蘭の両親は、李香蘭が銃殺刑になると新聞で読んで、自暴自棄になる
が李香蘭の幼じみのロシア人女性が、機転を利かせて李香蘭が日本人の
子供であるという証明になる戸籍謄本を、李香蘭の親から受け取って上海で
幽閉されている李香蘭に届けた。
その戸籍謄本のおかげで李香欄は裏切り者という疑いが晴れて、無事に日本
に帰ることができた。
そのかわり、日本人の服装でこっそり帰国するようにと国民党に言われたので、
中国から引き揚げる日、李香蘭は、身元がわからないように化粧も落とし、
もんぺ姿で乗船する行列に並んだ。
ところが、女性出入国管理官より李香蘭と見破られ、乗船を目の前に再度
収容所に連れ戻されてしまった。それから9ヶ月間の収容所での軟禁の後、
今度こそ出国できることになり、李香蘭は乗船するや否や怖くて船内のトイレ
に潜んでいたそうだ。テレビでは、一度、乗船できずにまた軟禁されたことは
カットされていた。
トイレに隠れている李香蘭の耳に懐かしい歌が聞こえてきた。
自分の歌う「夜来香」が船内のラジオ放送から、流れてきたのだった。
その歌に励まされるかのように、思わず李香蘭は隠れていた場所から看板
に出た。
岸を離れようとする船を見送る人々の中に、見覚えのある面々がいた。
軟禁された時に、李香蘭を遠くから見守ってくれたチャイナの人々だった。
彼らが李香蘭に手を振っていたのだった。
船は岸壁を離れて、ゆっくりとバンドの外に出た。
李香蘭は、遠ざかる上海の摩天楼を眺め、「寂しいわ、、。」とつぶやいた。
チャイナで生まれ、チャイナで育った李香蘭にとっては、そこは故郷でも
あった。「さようなら。わたしの上海。」
船の上の李香蘭は、自分の第二の故郷に別れを告げた。
日本についてからは、山口淑子としての生活が始まった。
両親は、日本についてから離婚してしまった。
「満洲に夢も幸せも置いてきた。」と父親は言い、母親と別れてしまった。
そんな風に、夢破れて満州から帰国後、人が変わったようになってしまった
日本人は多かったのではないだろうか。
山口淑子は、ニューヨークで、彫刻家イサム・ノグチと知り合って、結婚したが
後に離婚。
1958年に日本人外交官の大鷹弘(国連大使・加瀬俊一の秘書官、
三等書記官 )と再婚し、大鷹淑子(おおたか・よしこ)となり、20年間演じた
映画女優から引退。
1969年に山口淑子の名で、フジテレビのワイドショー「3時のあなた」の
司会を務め、海外取材も始める。
1974年に、自由民主党から参議院議員に立候補し当選。
環境庁 政務次官・参院北方問題特別委員長・参院外務委員・自民党婦人
局長などを1992年まで歴任した。
50歳を過ぎてから、命の恩人である幼じみのロシア人女性を訪ねるが、彼女
の両親も兄弟も全員死んでいるということがわかった。
兄弟の一人は、日本軍に捕らえられ、医学の実験台として殺されたということ
も、、、。それでも、山口淑子の幼じみである彼女は、それを隠して、李香蘭の
命を助けるために戸籍謄本を上海に届けたのだった。
彼女は山口淑子を抱きしめた。そして、「淑子ちゃん。わたしは日本が憎い。憎かったけれども、ずっとあなた
の天使でいようと決めたのよ。」と言いながら涙をこぼした。
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日本が満洲に出たのは、ロシアとの戦いに勝ったからであり、弱いアジアは
西洋に植民地にされる時代だったからだ。
おまけに、当時は、日本が貿易ができないように、欧米に資源の輸出を止め
られている時期だった。
貿易ができないようにアメリカには、物によっては400倍の関税を掛けられて
いた。いくら日本が低賃金で物を作っても、関税が高くて売れない。
日本は疲弊(ひへい)していた。東北では、飢饉が起こり、親が娘を売春宿に
売りに出して食べていた時代だ。
そんな事を外国にされていたので、日本としては資源の確保のために、必死
で満洲を開拓したのだが、それをチャイニーズは、侵略だと決め付けて、
日本を憎んだ。
その時の様子が、よくわかるテレビ番組だった。
反日の嵐が吹き荒れて、チャイニーズが抗日運動に身を投じていた。
その結果、友や恋人を日本軍に殺されたチャイニーズがさらに発奮し、
国民党や共産軍に参加していった。
そういう時代だったのだから、日本が侵略したと今さらぎゃあぎゃあ言っても
どうしようもない。
日本も必死だったのだから。
弱いアジアは、植民地化されるし、ロシアは南下しようと、虎視眈々と朝鮮半島
と対馬とカラフトを狙っている時期だった。
ロシアは、日ソ中立条約を破って、満洲に攻め込んできたばかりか、
日本の領土である北方の島々まで占領し、そのまま居座っている。
李香蘭の父親は、一度ロシアの女性の申し出を断っている。
「裏切り者のロシアの人間の助けなど、借りるわけにはいかない!」と、怒って
李香蘭の戸籍謄本を渡すのを拒んでいる。
当時の日本人は現金も取り上げられていたし、自由に移動もできなかったので、
自分たちで戸籍謄本を上海に持っていけなかったのだ。
結局、李香蘭の幼じみのロシア人女性の助けを借りて、花嫁人形の着物の
中に戸籍謄本を隠して、やっとのことで渡すことができたのだった。
幸い、李香蘭が軟禁されていた場所の門番は、李香蘭のファンだったので、
厳しいチェックもなく人形が手元にとどいたのだった。
李香蘭のテレビ番組で、当時の様子が雰囲気だけでも、なんとなく分かって、
良かったと思った。
李香蘭の同級生の共産党員の女が恐かった。李香蘭の両親が、共産党の
事務所にいき、上海に戸籍謄本を持っていきたいから、外出許可証を出して
くれとお願いに行ったとき、そこに幹部に昇格した李香蘭の同級生の共産党
の女がいた。
その女は、一瞬李香蘭の戸籍謄本を破ろうとしたが、それでも破かなかった。
戦争になって、憎しみあったとしても、人間の心を捨てなかった女性が二人
いたおかげで、李香蘭は、殺されずに日本に帰ることができたのだ。
もし、その同級生の女では無く他の女だったら、故意に戸籍謄本を破いて
いたかもしれない。
山口淑子さんは、日中友好条約が交わされた時は、本当に嬉しかったそうだ。
チャイナの共産党も、その当時の気持ちを思い出して、日本と真面目に友好
する気はないのだろうか。反日教育ばかり仕込まれて当時の友好の雰囲気は
全く消えてしまい、チャイナは、憎しみで一杯の別の国になってしまったような
気がする。反日路線で行く別な国になったのなら、日本はチャイナと友好する
ことはできない。いったい、チャイナはどうしたいのだ?
日本の宗教や首相の行動にまで干渉してくる威張った国とは、どうやって
友好できるのか知りたい。チャイナの言うことを「はいはい。」と全て聞いて、
それに従い、資源や島を盗られても黙って耐えることが、友好の条件なのか。
そんな友好など、日本国民はいらない。
対等の立場に立ってこその友好であると思う。
チャイナは、昔のどうしようもない時代の中に自らを沈め、復讐と憎しみの炎
で自らを燃やし続けているが、そんなことで、どうやって国際社会で尊敬
される国になれるというのだろう。
もしもチャイナが、まだ武力によって領土を広げる時代に生きているなら、
チャイナは、本当に日本にとっても、アジアにとっても危険な国だ。
尖閣諸島も台湾も沖縄も、力で盗ろうとしているのなら、チャイナは本当に
昔の日本と同じか、それ以上に悪い国だ。確信犯だからもっと悪い。