1960年兵庫県尼崎市生まれ。関西外国語大卒。昨年に元同僚と結婚し、今年5月には女の子が生まれる予定。ライフワークという映画のほかに、「いつか日本の町おこしにも挑戦したい」と意欲的。
両親とも大の映画好き。その影響で、小学校低学年から「まんがまつり」や怪獣映画を1人で見に行き、たまに親と一緒に「007」などの洋画を鑑賞することも。中学生のころにはいっぱしのマニアで、部活のサッカーを除くとすべて映画一色だったという。「映画雑誌を買ったり、テレビの洋画劇場は必ず見てましたし、聴くのも映画音楽でした」。
高校時代にたまたま米国人の英会話講師と簡単な言葉を交わす機会を得て、いつもスクリーンの向こう側にいた外国人と交流したいとの想いに目覚める。外大に進学するも、年間100本以上を見るような生活は相変わらず。京都の3本立て上映館に「食事も我慢して、電車賃と映画代だけ持って」通い詰めたそうだ。学内最大規模の通訳ガイドクラブに入り、イベント運営やモノ作りの楽しさを実感する一方で、半年間留学したハワイでもシネマ通い。世界中どこにいても映画鑑賞だけはかかさなかった。
■豪州で念願の仕事に
就職活動はせずに、日本1周のバイクの旅に出た帰路、いとこに紹介された某有名ゲーム作家にそのまま弟子入りする。以後、大手出版社での編集、英語塾経営を経て、1990年に英語を学ぶため豪州に留学。ニューイングランド大で都市計画を2年専攻した後、93年にジャパンファウンデーション(国際交流基金)のシドニー事務所に文化センター設立のタイミングで入所した。
「業務内容をあまり知らずに入ったんですけど、映画もイベントもやっているので向いているかもしれないと思いました」
年に1回でも最新作を豪州各都市に巡回させたいと97年に始めた「日本映画祭」は、当初3本からのスタート。映画は日本文化を伝えるのに有益なツールとはいえ、人気作はなかなか回って来ない。情報を調べて本部に依頼しても「全然違うのが送られてくるんです」。
「そのうち政府機関のため、本部があまり予算を出せず、配給会社もいい作品を提供してくれないということが分かってきました」
転機は99年。日本映画学校副校長を務めるドキュメンタリー映画監督の千葉茂樹さんが豪州訪問の際に、文化センターを訪れたことだ。映画祭を大きくしたいと相談すると「一緒にやりませんか」と言われ、2000年に今村昌平監督や女優の倍賞美津子さんを招いて「サザンクロス映画祭」を共催することになった。
入場料を取った同イベント成功により、有料化で資金を作り、上映費とマーケティングに還元することが不可欠と再認識する。03年10月に、国際交流基金が特殊法人から独立行政法人に生まれ変わり、経費削減のため有料化がある程度認められるようになると、チャンスと捉えて本部と交渉。映画祭の有料化と監督などのゲスト招へいに成功した。
10年目の昨年は、日豪交流年ということもあり、
過去2年8本だった作品数を一気に19本まで拡大。7作品のチケットが売り
切れる大盛況になった。
地元の映画祭に日本人監督が招待されていれば会いに行き、翌年の日本
映画祭への出品を依頼するという地道な努力がここに来て報われ始めた。
「とにかく日本映画祭の質を上げたい。民間も取り込み、個人も入場料を
負担して、皆で一緒に作ればこういうものになると証明したかったんですよ」
今後も周囲の協力を得て、映画祭を大きく成長させたいという。「1人でやれる
ことには限りがある。ぜひみなさんにご協力をお願いしたいですね」
(豪州編集部・大畑知則)
http://nna.asia.ne.jp.edgesuite.net/free/interview/kono/kono195.html
おお!頑張っている日本人がいるんだ!お名前が外来風だが、日本人なの
だから、どうでもいい。映画が大好きな人らしい。日本の映画祭の質が上が
ればいいなと考えている人だ。応援したいなあ。