エリザベス・サンダースホームをウィキで調べてみた。 | 日本のお姉さん

エリザベス・サンダースホームをウィキで調べてみた。

エリザベス・サンダースホーム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』

エリザベス・サンダースホームは、神奈川県中郡大磯町大磯の児童擁護施設。第二次世界大戦後の1948年 三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の孫娘である沢田美喜が、連合軍に取り上げられていた岩崎家の旧宅を募金を集めて400万円で買い戻し、そこを利用した戦災孤児のための孤児院として設立された。

ホームは戦後連合軍兵士と日本人女性の間に生まれ、周囲から見捨てられた混血孤児たちのための施設であった。施設の名前は、旧宅を買い戻すに当たって多額の寄付をしてくれた聖公会のある信者の名前から取られたものである。

のちに、孤児院出身の子どもたちが、小学校、中学校に上がる年齢になって、「混血児」への周囲の偏見を心配し、学校生活との折り合いの問題などから、ホームの中に小学校、中学校も設立される。小学校は、1953年 に創立され、沢田美喜の戦死した息子の洗礼名から、聖ステパノ学園小学校と名づけられた。中学校は1959年に併設された。

沢田美喜は、隠れキリシタンの遺物の収集家でもあった。 日本全国から集められた貴重な資料851点のうち、370点あまりが沢田美喜記念館に展示されている。 全国的にみてもこれだけの数の遺物を収蔵している施設は珍しいようだ。 沢田美喜記念館は1階が展示室と受付、2階に礼拝堂といった構成である。

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今でも養護施設はあるみたいですね。

戦後、進駐したアメリカ兵と日本人女性との間に生まれた子供

(このような子供たちは社会から距離を置かれ、育て上げることが非常に

困難だった)を預かり、育て上げる児童養護施設。設立したのは沢田美喜さん。

当時の400万円はめちゃくちゃな額だったそうだ。

でも、沢田美喜さんは、ひるまずに、アメリカ人から募金を集め、孤児院を建設

したのだ。GHQに女ひとりでかけあったりして大変だったようだ。

当時の日本人は、アメリカ人とのハーフなど、汚らわしいという目で見ていたの

で、誰も積極的に支援してくれなかったそうだ。

道ばたに捨てられていたハーフの赤ちゃんを、拾って育てようと頑張ったのは、

クリスチャンの沢田美喜さんだけだったようだ。


社会福祉法人  エリザベスサンダースホーム
児童養護施設 理事長 澤田 信一 氏
          園 長 藤村 美津 氏  

  エリザベスサンダースホームは1947年、神奈川県大磯町に英国聖公会信徒エリザベスサンダース女史の寄付を基金とし設立されました。日本聖公会の伝えるキリスト教精神に基づき、福祉サービスを必要とする者が、心身ともに健やかに育成されるように援助することを目的として、福祉事業及び公益事業が行われています。



沢田美喜さんが汽車に乗っている時に、膝の上に黒人との混血の

赤ちゃんが落ちてきたらしい。

それで、沢田美喜さんは、神さまが哀れな混血児のために働きなさいと

言われていると思ったそうだ。

当時はどぶ川に多くの白人や黒人との混血児の死体が浮いていたそうだ。

当時の売春婦、パンパンが捨てたのもあるだろうが、日本人女性が強姦されて

できてしまった赤ちゃんもいた。

売春婦パンパンは、みんなからさげすんだ目で見られたが、普通の女性が

強姦されるのを防ぐ目的で、日本政府が大急ぎで募集して用意したという

話しも本で読んだことがある。

良家の子女も、戦後仕事が無く、子供を育てるために仕方が無くパンパンに

なった人もいた。みるからに上品そうな女性が、うつむきながら道にたたずむ

姿もあったそうだ。(もちろん、単に好きでパンパンをしていた人もいる。)

戦後に飢えで死んだ人間の数は、戦争で死んだ人の数を上回るらしい。

そこまで貧乏になるほど、戦争を続けた理由はなんだったのだろう。

沢田美喜さんは、35年間で、2000人もの混血児を育て上げたそうだ。
この子ども達は、世界中に養子になって出ていった。
幸せに暮らしているのだと思う。
日本では生きていけなかったというのは本当らしい。

http://www.geocities.jp/garoayo/SawadaMiki