満洲滞在の経験者に聞きました。 | 日本のお姉さん

満洲滞在の経験者に聞きました。

僕は、今、70歳です。小学校3年の夏に終戦を迎えました。その一年前に


母と弟の3人で、満洲から日本に引き上げてきました。姉は先に日本に


返されており、親戚に預けられていました。弟はまだ赤ん坊でした。


当時、僕の家は父親が事業を営んでおり、使用人も何人も使って全てが


順調であるように見えていました。


僕の母親はクリスチャンでよく神さまに祈りよく聖書を読む信仰的な人でした。


日本軍は強かったし、負けを知らなかった。そういう時代ですが


母親は、ロシアは満洲を狙って攻めてくるという考えを祈っている時に神さまに


示されたので日本に帰ると言い出しました。父親が「そんなバカな。」と全く


取り合わなかったのですが、いつもおとなしい母が、その時だけは子供たちを


連れて日本に帰ると言ってガンとして譲りませんでした。


父親もそんな母親に負けて子供たちを帰国させることを許したのでした。


父親と言えば、仕事が順調で日本軍の強さを信頼しきっていたので、そのまま


満洲に残り、終戦後は無一文になって体ひとつで日本に帰ることになりました。


母親は、鉄道で港に向かうために駅に向かいましたが、駅前の道はそれこそ


すし詰め状態で、一部の隙も無いというのはこのことかと思うほどの混雑ぶり


でした。


何百人、何千人もの日本人が、団子状態で駅に向かっていたのです。朝の


満員電車よりも厳しい状態です。手を上げたら最後、手を下に下ろすことも


できないのです。群集が後ろからどんどん押してくるので否が応でも前に


進まざるを得ません。母親は胸に赤ん坊を抱え、片方の手で荷物を持って


いたのですが、人にぐいと体を押されて、赤ん坊を下にとり落としてしまった


のです。


赤ん坊をひらおうとしても、腕一本下に入れることも、体をかがめることも


できず、後ろからぐいぐい自動的に前に押し出されてしまい、赤ん坊は地面


の上で大人の足で踏まれているようで、泣き声すらも聞こえません。


それは一瞬のできごとでしたが、恐ろしく長い時間のようにも思いました。


僕は、もう弟は死んだと覚悟しました。


その時、母親は僕が今まで聞いた事も無いような声をあげて叫んだのです。


「子供が落ちましたー!!踏まれていますー!!」


母親の悲痛な叫び声に、後ろからぐいぐいと押してくる何百人、何千人の群集


が反応し、一緒立ち止まりました。その一瞬の隙に母親は赤ん坊をひろうこと


ができました。赤ん坊の顔は真っ青で、ぐったりしていましたがそのまま汽車に


乗るしかありません。幸い、赤ん坊は奇跡的に助かりました。


あの時、母親が懇親の力をふりしぼって叫ばなければ、赤ん坊は確実に


死んでいたでしょう。


満洲では、日本軍が駅前の一等地に駐屯していました。


満洲のシナ人の教会の大人たちがひそひそ声で、あちこちの家の若い


女の子が消えていっているという話をしているのを僕は聞きました。


日本兵が、若いシナ人の女性を強姦し、犯行の跡が分からないように殺して


いたようです。僕は小学校の低学年でしたが、大人がそんな話をしているのを


聞いて心を痛めていました。日本軍は、規律がとれているようでいながら、


実はそうでもなく、日本兵は、影ではそういうことをしていたのでした。


シナ人の女の子が消えていくのを阻止しようと、シナ人の教会の牧師が代表に


なって、日本軍に抗議をしにいくということになりました。


多くの人が、そんなことをすると殺されるから止めなさいと牧師に忠告しま


したが、牧師は「自分はどうなってもかまわない。」と語り、日本軍の元に


抗議に出かけました。日本軍が駅前から出て行き、これ以上シナ人の女性が


消えていくことが終わるようにしてほしいと、牧師は日本軍に語り、そのまま


帰ってきませんでした。そのシナ人の牧師がどうなったかは、いくら待っても


帰ってこなかったことから容易に想像できます。殺されたのです。


日本軍は、満洲では勝者であり占領者であるから、何でも許されると考えて


いたようです。


日本軍は実際強かったし、シナ人をそのように支配しても当然なのだと誰もが


当たり前のように思っていた時代でした。


それで、日本がアメリカに負けたとき、アメリカも必ず日本軍のように日本


女性を同じ目にあわせると思い、子供ながらに姉の行く末を案じてひどく悲しく


思ったものです。

 

ところがアメリカ軍が来てみれば、いっさい日本女性を襲うということがなく、


非常に紳士的であり、友好的であったので僕は驚きました。

鬼畜米英などと言ってアメリカ人を呼んでいた僕でしたが、戦争が終わって


みると、鬼だったのは日本兵ではなかったのかと思いました。


アメリカ人は戦争に勝っても日本軍のように支配するのではなく、まるで


解放軍のようだと感じました。アメリカ兵ひとりひとりも非常に礼儀正しい


人々であるという良い印象を受けました。


戦時中も戦後もどこの家にも食料などなかったのですが、進駐軍は、各家庭


に大きな豆のかんずめやいろんな食品のかんずめを配ってくれ、大変あり


がたいことだと思いました。


僕らのような子供たちにもジープの上からチューンガムをバアーッと惜しげ


もなくばらまいてくれたし、とにかく彼らは優しかった。


戦争中とは全く違う自由と開放感のある時代が始まりました。


子供時代にそんな戦時中の悲惨な様子と残虐な日本軍を見てきて、戦後の


進駐軍との違いを実際に見た僕らの時代の人間は、アメリカが大好きなの


ですが、それにはそれの理由があるのです。

あのような苦しみの時代は、二度と繰り返してはいけないというのが僕の願い


です。


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これは、わたしが直接70歳の満州から帰国した人から聞いた話しを、なる


べく変えないで書いたものです。


アメリカ兵の中にも悪い人はいましたが、彼の周りにはいなかったという


ことです。それで、この方はアメリカが大好きなのです。


アメリカ兵は東京の路地裏で高校生の女の子を強姦したりしました。


日本の女の子は、そういう事を恥ずかしくて人にしゃべることができず、


こっそりハーフの赤ん坊を産んで道に捨てたそうです。



そういう子供を拾って、育ててアメリカ人に頼んで養子としてひきとってもらう


働きをしたのが、エリザベス サンダースホームです。


クリスチャンの日本人女性が、GHQにとりあげられていた元自宅をアメリカ人


から集めた資金で買い取って、孤児院にしたのでした。だから、アメリカ兵が


100%、お利口さんだったかというと、そんな事はなかったのです。


ただ、日本兵よりは、マシだったかもしれないという程度です。


日本軍だって、規律を守ろうと努力したから、公認の売春婦をつれてあるいた


のです。日本人女性もいましたが、朝鮮半島の売春婦が多かったそうです。


それは日本人女性は、ついお国のために働いている日本兵にサービスして


しまい、その結果体をすぐに壊してしまって帰国しないといけなかったからだ


そうです。日本人の女性の方が、朝鮮半島の女性よりも人気があって、


身がもたなかったのでしょう。本で読んだ話ですが、朝鮮半島の売春婦たち


は、高給取りで、日本軍の部隊長よりも稼いでいたとか。


いつでも、売春を止めて国に帰ってもよかったし、国に帰って立派な家を


建てた女性もたくさんいたそうです。日本兵が満州や南京で、女性を襲って


口封じのために殺したのは、見つかると厳しく軍の規則で裁かれたからです。


戦争になると、そういうたちの悪い人間が、影で好きなことをするということです。


この70歳の人は子供の頃に満州の教会のシナ人の会話を聞いていたので、


こんな事を知っているのです。普通の大人の日本人だったら知らなかった


ことかもしれません。事実は事実として認める必要があります。


その後、本人から「満州」と書いたら怒られるから「元満州」に


変えて欲しいという電話がありました。あとでまとめて変えて欲しい場所を


指示してくるそうです。めんどうくさそうになったら、この記事は消します。


やっぱり、70歳の人は、ちょっとGHQに洗脳されぎみのところがあるの


かもしれない。「元満州」なんて、どうして書かねばならないのだろう?


満州(今の大連あたり)とでも書かないといけないのだろうか。


元(もと)清国とか、書かないといけないのか?


今のチャイナの話しをしているんじゃないから、元(もと)満州なんて書きたく


ない。清国の話しも中華民国の話しも、みな元(もと)と書かねばならないと


いう歴史の法則みたいなのがあるならいいけど、


元満州と入れろと言われるなら、この記事は消します。


そういう風に他人に命令されて自分が書いた記事を変えるのは、嫌なのです。


この話は、なにかのキャンペーンでもなんでもなく、満州で、当時小学校2年生


だった子供が本当に聞いたり、見たりした話しです。


多分、1週間後には、その本人がいろいろ文章を変えろと言ってきますので、


元満州と入れろと言ってきたら、消します。ヨロシク。