不思議なお姉さん
トルコ料理の店で、バイキング料理が出た日に不思議なお姉さんにあった。
たまたま隣の席に座っていた人だ。
濃厚なトマトスープを二杯飲み、バイキングの料理をふた皿分と、いろんな
デザートをひと皿分食べたすごいお姉さんだった。わたしもたくさん食べる方
なのだが、完全に負けていた。そんなに食べるのに太っていないのがすごい。
年は聞いていないが、わたしと変わらないか少し年下のような感じだった。
仕事は駅前のいいところで、10日間の休みをもらって、中近東やアフリカに
行っている人だ。いっしょのテーブルに座った他の女の人は「そんなに長い
休みはもらえないわ、、、。いいなあ。一週間でもダメって言われそう、、、。」
と言っていた。
どうも、そのお姉さんはいい会社に勤めているいわゆるバリバリのキャリア
ウーマンらしい。今は、大きな会社の方が有給を使って大型の旅行ができる
のだ。有給を使っていないと、人事部の人がやってきて、早く有給を使い
切れと命令してくるのだそうだ。おなじく駅前の大会社に勤めている人がそう
言っていた。正月休みにしても、盆休みにしても、中小企業とは比べ物に
ならないほど大型の休みがあるので、その期間に旅行に行く事もできるのだ。
そのお姉さんのしゃべりかたは、自信に満ちていて、はきはきしている。
そしてわたしのことを年下だと勘違いして、まるで会社の年下の女の子に
対するようにしゃべる。多分、会社ではかなり威張れる地位にあるはずだ。
そのお姉さんは、エスニック料理が大好きで、他のトルコ料理のおいしい店
の名前を知っている。同じテーブルに座った女の子たちも「ああ、あそこ、
おいしいですよね!」と言っていた。女の子たちは、わたしが行っている
料理教室の人たちだ。不思議なお姉さんは、いろんな教会やイスラム関係
の会合に行って食べ歩きしているらしい。「プロテスタントより、カトリックの
教会のご飯の方がおいしいわよ。」なんて言っている。
カトリックは、修道院などが、無農薬の野菜で作った料理や添加物無しの
小麦で作ったおいしいパンを出してくれるんだって。
プロテスタントの修道院なんて無いから、カトリックみたいに農場や牧場も
無いし、当然オーガニックのスローフードなんかも出せない。
「私はプロテスタントのクリスチャンだけど、教会で出す料理は添え物で
あって、食べさせるのが主じゃないから、カトリックほどおいしくないと思う
けど、それは仕方が無いですよ~。」と言うと、
「クリスチャンなの?どこの宗派?キリスト教でもいろいろあるのよ。」と言う。
「単立のファンダメンタルな、聖書に忠実な教会に行っているんだけど。」と
言ってみたが、「まあ、いろいろあるのよ。クリスチャンと言っても。」と言って
いる。いろいろ宗派があるのは、わたしも知っているけど、聖書に忠実なら
いいんです。
イエス・キリストが神さまのひとり子だと信じているなら問題無い。
ひとり子という意味は、神さまとは、父と子のような関係の、もうひとりの
神さまという意味なんだけど、そういう風に信じているなら正しい教会だ。
マリヤや聖人を拝むのは間違った教会なのだ。尊敬するだけならいいが、
手を合わせて拝むのは間違っている。人間を拝んだり、像を拝むのは偶像
崇拝(ぐうぞうすうはい)で、それは神さまに対する罪なのだ。
不思議なお姉さんは、そういう事は知っていて、「カトリックの教会の一部は
偶像崇拝をするわね。」なんて同意してくれている。
トルコでは、マリヤの住んでいた家やお墓を見たと言っていた。
聖書の世界そのままの雰囲気で、感動したと言っていた。バチカンのきら
びやかな宮殿より、トルコのマリアの墓のような場所がリアリティがあって
好きだったって。マリヤは、イスラエルからトルコに逃げたのかなあ。
マリヤのその後なんて知らないな。
弟子のヨハネが世話をするように任せられていたから、ヨハネと一緒にいた
はずだけど。昔は、ローマの時代は、結構交通網が発達していたらしい。
今はトルコだけど、昔はローマの一部だったはず。カッパドキアなんて聖書に
名前がバンバン出てくるよ。当時は有名な教会があったんだ。
マリヤがそこに行ったとしても別に違和感はなかったはず。でも本物のマリヤ
の住んでいた家なのか、本物の墓なのかは疑問だ。
イスラエルにあるイエス・キリストの空っぽの墓は本物らしい。
パウロという人の書いた手紙によると、パウロや他のイエス・キリストの弟子
たちはあちこちにイエス・キリストの福音(良いお知らせ)を伝えるために
出かけている。
当時は、あの辺は今のようにいろんな国に分かれていなくて、ほとんどが
ローマの支配していた場所だったから、パスポートなんかなかったはず。
それでも、ローマ市民は特別だったようだ。どこに行ってもローマ市民は裁判
無しに裁かれることは無かったそうだ。大切にされたのだ。
パウロはユダヤ人だったけど、有名な家の出だったので、ローマ市民権を
持っていた。それは当時としては、すごいことだったようだ。
パウロは、本当は反キリストだったのだけれど、途中からイエス・キリストを
信じて伝道者になった人だ。
不思議なお姉さんは、
「中近東に行くとバチカンなんかよりも、もっと聖書の時代の雰囲気が残って
いるわよ!わたし、あの時代に興味があるのよ!」と、まるで聖書を読んだ事
があるようなことを言うのだが、イスラムの友達にもいろんなお食事会に誘わ
れてたくさん食べさせてもらっていると言う。
「そういう所に誘われてると、イスラムになれとか言われない?」と聞くと、そう
いうことは無いという。でも、私のイスラムの友達は、私がクリスチャンだと
知っていながら、会うたびに「なんで、イスラムにならない!?」って、何度も
言う。神さまの話をしだしたら、絶対ケンカになるので、友達と言っても軽い
関係にしかなれない。「神さまの罪を赦す方法は、神さまのひとり子イエス
さまが身代わりに受けたことを信じることだけだと聖書に書いてあるよ。
イスラムみたいに、毎日メッカを向いてひざまづいて拝んだり、断食しないと
罪は赦されないと思うのは間違っているよ。人間の努力では罪は赦され
ないんだよ。神さまのひとり子が、人間の代表として、罪の罰を身代わりに
受けて死んでくれたから、それを信じるだけで罪が赦されるんだよ。」と言って
も、「神さまは、ひとり。二人もいない。」と怒りの表情に変わるんだ。
「人間が作ったたくさんの宗教に対しては、本当の神さまはただひとりって、
説明するけど、聖書には、世界を創られた神さまは「われわれは、人をわれ
われに似るように創ろう。」と書いてあるよ。複数形で書いているんだよ。
神さまと、神さまとは父と子の関係のもうひとりの神さまと、もうひとりの聖霊の
神さまがおられて、みんなで世界を創られたって、聖書に書いてあるんだよ。」
と、言っても聞く耳を持たない。
とにかくイスラムは、まじめに毎日メッカを向いてひざまづくし、断食もする。
カトリックで育った人は、元々偶像礼拝をしているし、カトリックの矛盾を感じて
生きているし、ちゃんと神さまを信じているわけではない。
だから、イスラムに接触すると、まじめさに引かれて入信する場合がある。
でも、プロテスタントで、イスラムに変わった人は知り合いの中ではいない。
元々ちゃんと神さまを信じていないカトリックは、簡単に改宗する。
不思議なお姉さんに、その事を話すと、「そうかもね!偶像を拝んでいるから
ね。」と同意していた。イスラムは、イスラムに入れ入れとしつこく勧めるし、
簡単にイスラムになれるけど、イスラムを止めようとしたら「改宗したら
殺す。」って本気で言うから気をつけてねと教えておいた。
「行きはよいよい、帰りは恐い。」という歌のとおりなのだ。知っている中近東
とアフリカ関係の無料メルマガを出している人も、フランス語やアラブ語が
できるので、よくフランスやアフリカのアラブ人とチャットをするそうだが、
中にはかなりしつこくコーランを教えようとするアラブ人がいるらしい。
しかも、こいつは異教徒の何も知らない汚らわしいヤツという態度で接して
くるのだとか。
たしかにアラブ人は、「異教徒」という言葉をさげすみの心で使う。あれは
「愚かで汚らわしいー異教徒」という意味の差別用語だ。
アラブ人がそう教えてくれた。
バチカンは世界中のカトリッ教会に請求書を送って、金を払わなければ
カトリック教会として承認しないとはっきり意思表示をする。
マリヤを拝まないで、イエス・キリストが十字架にかかったのは、
人間の罪を背負って身代わりに死ぬためだったと、ちゃんと信じているカト
リック教会もあるが、そういう教会でも、バチカンに仲間はずれにされたくない
ようで、ちゃんとバチカンに送金する。カトリックの友達に聞いた話だから
間違いない。バチカン、恐るべし、、、。だからバチカンは金持ちなのだ。
プロテスタントでも、そういう風にサポートしあっている団体もある。それを
宗派と呼ぶ。同じ宗派の教会は、お互いに助け合ったりもするし、干渉し
あったりもする。助け合う事自体は別に悪い事ではない。
ただ、聖書にもあるように、クリスチャンは、ひとりひとり神さまの言うことに
従うべきだし、教会はイエス・キリストの言われることに従うべきなのだ。
教会のトップはイエス・キリストなのだ。
バチカンや宗派のトップの言うことやすることが聖書に従ったことなら良いが、
聖書に無い事を言ったり、聖書で罪だと言われていることをする場合がある。
どこかの宗派に参加していると、いつのまにか団体の意志に従って動いて
いて、聖書から外れてしまう場合がある。
ただ、どこの宗派にも属さない単立の教会だと、牧師がめちゃくちゃしても、
その牧師をクビにする組織が無いという危険性がある。
ある韓国の自称教会は、完全に聖書から外れた異端の集団で、彼らはクリス
チャンでもなんでもないタダの新興宗教なのだが、自称牧師とやらが女の
信者を好き放題に自分の肉欲のために使っても、誰も彼をクビにできなかった
らしい。かえって世間から隠そうとしたらしい。
そういう異端のグループがキリスト教だと自称するのが非常に迷惑だ。
幸い、その自称牧師は捕まって司法によって裁かれた。犯罪者は裁かれて
当前だ。
単立の教会でも、教会が大きくなって仲間の教会ができ、宗派ではないけ
れど仲間の教会同士いろんな交際をするようになると、バチカンと似たような
変な関係になる場合があると思う。グループで仲良くするのが悪いのではなく、
人間同士の関係を神さまとの関係よりも大切にすると、良くないということだ。
もちろん、みんなが聖書に従って生きていたら問題無いのだ。
いろんな宗派があっても、ひとりひとりが、聖書のとおりに神さまを信じていた
ら、みんな同じクリスチャンだ。
わたしは、クリスチャンだと言う人に出会ったら、イエス・キリストを神さまの
ひとり子として信じているかどうかを確認する。天使ですとか、預言者です、
偉人ですなどという人は、絶対にクリスチャンではない。
細かい事はともかく、そこが違う人はクリスチャンでは無い。
キリスト教でもない。自称キリスト教だと言う異端の新興宗教だ。
イエス・キリストを信じないで、教祖を持ち、その教祖に従う団体は異端だ。
インドネシアのイスラムの友人が言うには、コーランにはイサという預言者が
出てきて十字架にかかるが、途中で降りてくるらしい。誰それ?
そのイスラムの友達に聖書の方が、コーランよりずっと先にできていると
言ったら激怒していた。
順番に言うと、旧約聖書ができて、パリサイ人や律法学者が現れて、
イエス・キリストが現れて、クリスチャンができて、新約聖書ができた。
ローマ時代の迫害が終わった頃から、カトリックができて、その後イスラム教
ができた。カトリックの中から塔の中に隠されていた聖書を読んだルターが
反抗して(プロテスト)プロテスタントができて聖書の教えに戻ったと、いうこと
になる。
ユダヤ人は、イエス・キリストがユダヤを周わられていたころから、自分たち
独自の宗教を作っていて、いろんな儀式や決まりごとばかり作っていた。
聖書からも神さまの愛からも離れて形だけの宗教になっていたそうだ。
そういう偽善やただの行事をイエス・キリストは間違っていると非難された。
頭に来た学者や律法学者は、イエス・キリストをローマの総督を脅して
十字架にかけて殺した。預言どおりによみがえったらまずいと思って、墓には
番兵までつけさせたが、番兵は真昼のように輝く閃光に驚いて逃げ帰って
しまった。イエス・キリストの墓は空になり、500人以上の人がよみがえった
イエス・キリストに会って、40日目に天に昇っていく姿を一緒に見送った。
それからというものは、ローマがいくら迫害してもキリスト者は日曜日に集まり
イエス・キリストが聖書の預言の救い主だと伝えだした。
そして迫害を避けて、地下に穴を掘ってイエス・キリストを礼拝したり、外国に
逃げて外国でイエス・キリストを伝えた。
そんな方法で、イギリスやチャイナまでキリストの福音は伝わった。
カトリックは、政治と結託して変な宗教に変わった。
免罪符まで売り出すようになった。若くて美しいおばあさんを魔女だと言って
殺したりした。水に投げ込んで浮いてきたら魔女なのだそうだ。
かなりむちゃくちゃをしたようだ。
カトリックは旧教と呼ばれ、それに抵抗(プロテスト)して聖書の本来の教え
に戻ったプロテスタントは新教と呼ばれている。わたしはプロテスタントだ。
聖書ではアブラハムの子供はイサクだ。エジプト人の奴隷との息子イシュ
マエルは、サラに追い出されて荒野に住んでいて家にはいないはず。
それなのにトルコでは、アブラハムがイシュマエルを神さまに捧げようとした
という話になっている。
不思議なお姉さんいわく、トルコ料理店には、お菓子が食べ放題と、ご飯が
食べ放題の日が二回あって、今日は犠牲祭でご飯が食べ放題なんだと
言っていた。その時は、何の祭りかよくわからなかったけど、後でネットで調
べてわかった。どうやら、わたしはイシュマエルの祭りに参加してしまった
ようだ。無料ではなくて、ちゃんと金を出してバイキング式で食事をしたんだ
けれど、やっぱり変な気分になった。アブラハムの子供はイサクなのに、
アラブ人はイシュマエルが実子だと言いたいわけだね。もちろんイシュマエ
ルもアブラハムの子供なのだけど、神さまはサラがアブラハムのために
産んだイサクに救い主が出ると約束されたのだ。
そういうわけで、イシュマエルの祭りに参加するわけにはいかないな。
隣の席の不思議なお姉さんは「今日のご飯はいつもよりおいしい!」と言って
すごくご機嫌だった。
「いつも何、食べてんの?」と聞くので、「最近はずっと外食だけど、たまに
友達が晩ごはんに呼んでくれる。」と言うと、みんながうらやましがった。
不思議なお姉さんは「クリスチャンだからよ。クリスチャンって、そんなこと、
良くするのよ。」と言った。そうなんですかあ?クリスチャンだから、晩ごはん
に呼んでくれるのか?カトリック教会に行ったり、プロテスタントの教会に
行ったり、イスラム寺院に行ったりしている不思議なお姉さん。
「どこに行っても同じ事、言っているわよ。」と言うけど、それは違うね。
そこまで説明しきれないうちにバイキングの時間が過ぎ、彼女はさっさと
帰っていった。名前を聞くのを忘れたよ。メール番号も聞いていない。
イスラムにはカトリックの影響があるのは明白だ。旧約聖書を丸々使って
いる。ただ、アラブ人のために聖書の肝心な部分を変えてあるのだ。
イエス・キリストを消して、イサクを消している。イシュマエルを前面において
いる。アラブ人、モハメッドを神さまの次に偉い人ということにしている。
日本人で、イエス・キリストを信じる人は「統一j協会」「物見の党=エホバの
証人」「モルモン教」等の異端の新興宗教もカトリックも入れてやっと1%。
イスラム教は、日本でじわじわ増えているらしい。インドネシア人と結婚する
日本人女性が増えているからだ。インドネシア人は日本人がインドネシア人と
結婚する条件として必ずイスラムに改宗することを要求してくる。バリだと
バリヒンズーになる事を要求してくる。日本人は、家が仏教でも神道でもたい
がい本人は無宗教だから、あんまりこだわりなくイスラムになって結婚する。
子供はすべて自動的にイスラム教徒ということになる。離婚しても、いったん
イスラムになるとそこから離れる事はできない。(イスラムでは改宗者は
殺されることになっている。インドネシアでは、実際に殺される人はまれだが、
村八分にはなる。)ユダヤ教もカトリックも新教もイスラムも同じではないの
だと、説明したかった。同じ部分って、創造主の神さまがいると信じている部分
だけじゃん。そんなの悪魔でも信じていることだ。本当の神さまが存在すると
信じるだけでは、いけないんです。
旧約聖書の預言と新約聖書の神さまの約束を信じないといけない。
聖書は、アブラハムとサラの子のイサクから世界の王である救い主が生ま
れると約束しているし、救い主は人間の罪をとりのぞく神さまの犠牲の羊と
呼ばれる方なのだ。旧約聖書の預言は救い主が来るという預言だし、
新約聖書は、イエス・キリストがその救い主だと旧約聖書を使って弟子が
説明し、世界の終わりにイエス・キリストがもう一度来ることについての預言
が書かれた新しい約束の書だ。
弟子が書いたといっても、イエス・キリストが言われたことや、された事を
弟子が記録した手紙をまとめたものなので、結局はイエス・キリストが書いた
ようなものだ。預言は、イエス・キリストの弟子のヨハネがある島で啓示を
受けて書いている。弟子たちの手紙は、全てよみがえったイエス・キリストを
見た人が生きている時代に書かれている。(40年以内に書かれている。)
だから、弟子たちの手紙は、大切に写され、まわし読みされた。
写されてまわし読みされなかった手紙は、当時のクリスチャンが認証しな
かったニセモノだ。
聖書は、イエス・キリストが救い主であり、もう一度、今度はイスラエルを
助けるために、世界の王として来られる方だという預言の書なのだ。
新約聖書はまだ、これから実現する予定の預言で、今はそこまでいってい
ない。新約聖書の預言は旧約聖書にある世界の最後に関する預言とは対
(セット)になっている。
創造主の神さまの存在すら信じていない日本人には、ユダヤ教もキリスト
教もイスラム教も一緒に見えるようだ。
そんな事では、アメリカが嫌いというだけでイスラム教になってしまう日本
人が増えそうで恐いと思った。