日曜日のわたし | 日本のお姉さん

日曜日のわたし

日曜日の朝は教会に行った。昼から家に帰ってパソコンを開いて、晩ごはんを


いっしょに食べる友達のメールをチェックしたら、なんと、3時からって書いて


ある!晩ごはんじゃないんだ!しかも、行くならメールくださいね~。と書いて


ある。メールしてないし!急いで「今から行きます!」とメールの返事を書いて


送った。すると、すぐにメールに気が付いてくれて「2時45分にどこどこで


みんなが集まることになってるから、そこに来てください。」と書いてある。


インターネットで店の地図を探し、電話で「ひとり増えます。」とぬかりなく電話


しておいた。そういうことは、ちゃんとするのだ。


集合場所に行くと、あれ~!20人ぐらいいる!!


知っている人もいるけど、知らない人もいっぱい。


友達は、あちこちで習い事をしているので、非常に知り合いが多い。


おいしいものが好きで、おいしいレストランを知っているので、みんなその子に


付いていきたがるのだ。わたしもだけどね。


その日は、トルコ料理の店だった。その日はバイキング方式で食べ放題なん


だって。ちゃんとお金は払うけどね。その店では年に二回だけお菓子の食べ


放題の日と、ご飯の食べ放題の日があって、今日は、食べ放題の日なん


だって。


「犠牲祭」なんだと。何それ?


とにかく、おいしそうなご飯がいっぱい!1時間半で食べ終わらないといけない


というので、みんなテーブルにつくなりお食事を開始することにした。


わたしの横の人は、一人で先に店に来ていて、すでにお皿にはご飯がてんこ


もりになっていた。そんなに焦らなくても、、、。


食べるのに夢中で、ご飯の名前を覚えられない。


羊の肉のひき肉を握って作ったような一口ハンバーグのような料理が


スパイスが効いておいしかった。一緒に座った席の人は、非常に良く食べ、


良くしゃべる人で、あちこち旅行したり食べ歩きしている人だった。


何でも知っている人で、わたしがひとこと言えば二倍か三倍の知識を語る。


でも、そんな知識はわたしも持っているし、わたしはバリバリのクリスチャン


なので、その件に関しましてはわたしの方が良く知っているんですけど。


あんまりしゃべると、こんな風に見えるのか。


不思議な女の人だった。


無事に1時間半で、ご飯を食べ終わり、レストランを出てさようならをした。


知っている友達たちが、「お姉さんの隣の人って誰?」と聞いてきた。


「知らない。名前聞くの忘れた。」


「え~!!知らない人としゃべってたんですか~?てっきりお友達かと


思った~。」なんて言う。知らない人とでもしゃべるよ~。


なんだか外国人みたいな雰囲気の人だったなあ。


家に帰って「犠牲祭」って何か、インターネットで調べたらなんじゃこりゃ~。


アブラハムがイシュマエルを捧げたときに、神さまが代わりの犠牲を用意して


いてくれたから、それを記念するお祭りだって。


アブラハムは神さまに言われて、ひとり子のイサクを犠牲に捧げようとしたけど


あわやというところで神さまが止められたんだ。


神さまは、アブラハムにひとり子を犠牲に捧げるのは辛いものなんだよと教え


るために、犠牲にしなさいと言われただけなんだ。


それは、アブラハムが神さまがイサクによってアブラハムを多くの民族の先


祖にすると約束した言葉を信じるかどうか、神さまのことをイサクよりも愛する


かを試すためでもあったんだ。


でも、実はそれは神さまの預言の言葉で、神さまは将来、その山でご自分の


ひとり子のイエス・キリストを人類の罪の身代わりの犠牲の羊とするという


予告だったのだ。


アブラハムには、やぶに角をひっかけている雄羊が与えられたんだ。


「主の山には備えがある。」という名前をアブラハムはその場所につけたんだ。


イシュマエルは、アラブ人の先祖で、イサクが大きくなったころにはアブラハム


の家にはいなかったんだ。母親のハガルといっしょに荒野で弓を射る人になり、


ハガルが用意したエジプト人のお嫁さんと結婚したんだ。


それで、もういちど聖書を読んで、神さまがバリバリにイサクを祝福している


箇所を読んだ。神さまはしつこいぐらい、アブラハムにサラの産むイサクに


よって、アブラハムを祝福すると何度も言われている。


イサクの生まれ方も普通じゃない。まるで、マリアに天使が語ったように、


神さまは、イサクが生まれるという約束をくりかえしている。


これも預言だね。アブラハムは100歳、サラは90歳以上だったのに、


イサクが生まれている。これは普通ではない。


マリヤも、ヨセフと婚約中だったけれども、まだ男の人を知らない時に神さま


のお告げがあって、特別な子供を授かることになった。


わたしの会社の女の子は、(もう退職したけど。)マリヤはできちゃった婚だと


大声で騒いでいた。わたしの上司(もう定年退職したけど)は、卵子は、ある


刺激が加わると、卵子だけで人に育つ可能性があるんやで!と、知識を


披露していたけど、(そういう話は読んだことはある。)わたしはその時黙って


いた。どう言えばいいか分からなかったから。その会話に参入して、文句を


言えばよかったかなあ。できちゃった婚とか卵子の神秘性とか、


そんな話に参加したくなかった。心の中で「そんなこと、言うな!」と叫んで


いた。まだ、入社したてで、声が出なかった。今は違うけどね。


そんな話ではなくて、人類の罪の身代わりに裁きを受ける人は、普通の


人間であってはいけないという神さまの理由があるわけ。


男と女から生まれた人間は、生まれつき罪びとだから、他の罪びとの罪の罰を


受ける資格が無いわけ。


自分が生まれつき心に罪がある人間なので、教えなくても人間はウソをつくし、


ケンカもする。神さまか天使でなければ、人間の罪は背負えない。


しかし、天使には人類に対する愛は無い。


人間を愛している神さまが、自分の右の座にいる、父と子の関係の神さまを


人間にしないと、いけなかったんだ。


それを神さまは聖書から言いたいわけ。


だれが、その救い主か分からせるために、神さまはアブラハムを選んで、聖書


を書かせて、預言を用意させたのですよ。


イスラエルはやっぱり、選ばれた民族なのです。


聖書を読むと、アブラハムの子孫から救い主が出るという約束が、イサクが


生まれる前からアブラハムに示されているんです。


どうみても、イサクはイエス・キリストの「型」だし、イシュマエルはアラブ人の


先祖だ。神さまは、アラブ人にも優しいんだなと思った。神さまはイシュマエル


にも多くの子孫を与えると約束しておられる。アブラハムの子供だから。


預言どおり、イシュマエルの子孫はみんなに嫌われながらも、砂漠で誰の手


も借りずに生きているよね。誰にでも弓を射る(テロをしかける)荒々しい人々


だよね。イシュマエルを見ると、アラブ人そのものだ。

それで、その日はアラブ人は聖書を曲げて、いつのまにかイサクをいない


ことにしてアブラハムがイシュマエルを捧げようとしたことにしちゃっていると


いうことを知った。明らかにここが違う!!貴重な一日だった。


来年は、トルコ料理の店の食べ放題には参加しないでしょう。


だって、、、お金を払って「犠牲祭」に参加したような変な気分がするんだもの。


普段の日に、レストランのお客さんとして食べに行くから、、、ネ。


ご飯の名前も覚えたいし、、、。