漢字をいじる国 | 日本のお姉さん

漢字をいじる国

「漢字百話」白川静 著 中公新書 


国字政策についての内閣告示が出されてから、すでに三十年になる。

今では多数の刊行物がその告示に従っており、国字問題はいちおう安定した

成果をみせているようである。


いずれは固有名詞なども、すべて規格化されてゆくことであろう。

配達区の便宜によって古来の地名が無雑作に改変されてゆくように、情報の

機械化のために、文字も、したがってことばも改められる。


選択の自由があって、そのなかですべての領域の活動がなされるのではない。

選択の余地のない、最低限度のものが強制されているのである。

おそらくことばの生活、文字の使用が行なわれて以来、はじめての変則的な

事態であろう。しかもそれを変則と意識しないところに、現代の問題がある。


 中国でも革命以来、大胆な文字の簡体化が推進された。

やがては常用文字のほとんどが、

文字の本来の形義を失った、単なる

記号と化するであろう。

そして日中同文の誼を重んずる人たちは、やがてわが国の文字改革の

不徹底を論じて、これに追随することを主張するかもしれない。


 しかし同じく漢字国といっても、わが国と中国とでは、事情は大いに異なる

のである。


中国には「カナ」も「かな」もなく、年齢

や知能に応じた段階的学習の方法が

ない。

おかあさんは「媽媽」であり、シーソーは「翹翹板」とか「橋橋(2字とも木偏で

なく足偏)板」とかいう。中国における簡体字への要求は、切実を極めている

のである。


しかし常用の漢字をすべて簡体化しても、カナのような表音文字にはならない。

形と意味とを失った無器用な符号が、累積するだけである。


 この両者に共通する基本的な考えかたは、漢字に字形的意味を認めない

ということである。


それでわが国では多くの新字を作り、どの部分をどう改めたのか容易に

判別しがたい整形美容的変改を行なった。


これに反して中国が、表音化の原則を貫こうとしているのは、表音化への

強い要求を示すものとして、それなりの意味をもっていよう。


しかし単音節語という中国語の性質からいえば、それに最も適した漢字を

何らかの方法で保存し活用するか、あるいはベトナムのように全面放棄する

か、そのいずれかである。ただベトナムとちがって、他に例をみない多くの

文化遺産を擁する中国としては、

漢字の放棄は文化遺産そのものを

廃絶することを意味していよう。

もしそれを意図しているというならば、話はまた別である。


 私の漢字研究は、古代文化探求の一方法として試みてきたものであり、

無文字時代の文化の集積体として、漢字の意味体系を考えるということで

あった。『漢字』や『漢字の世界』は、すべてその立場から一般書として

まとめたものである。政策問題に立ち入るつもりはないが、しかし漢字が

これほどのいたましい運命に直面しているときに、問題の扱いかたに

ついて、ごく原則的な二、三のことにふれておきたいと思う。


 漢字の伝統は、中国においては字形を正すという正字の学として、わが

国においてはその訓義を通じて、漢字を国語化するという国語史の問題と

して存した。


中国が正字を捨て、わが国で字の

訓義的使用を多く廃するのは、それ

ぞれの伝統の否定に連なることである。


また両者の文字改革の志向が、

いずれも漢字の意味体系性の否定

から出発していることに、やはり大きな

問題がある。


事実はその否定というよりも、むしろ漢字の字形学的知識の不足が、

これもたらしたといえよう。


字の構造的な意味が理解されれば、そこから簡体字・新字を作るとしても、

おのずからその方法があるであろうし、また学習も容易となる。

ともかくも、正しい字形の解釈学があってのことである。孔子のいう、

「先づ名を正さんか」である。


 私はこの書の大部分を、漢字の構造原理の解説にあてた。

漢字は意符としての形体素と、声符としての音素との、整然たる体系を

もっている。


文字の使用に、つねに語源的・字源的知識を必要とするわけではないが、

ことばやその表記が何の意味体系をももたぬということはなく、それが

なくては、文字は全くの符号となる。改革を加えるとしても、その体系のなか

においてなすべきである。



 漢字は訓よみによって国語化され、その意味が把握され、語彙化される。

音訓表においては、「おもう」「うたう」「かなしい」などの動詞・形容詞は、思・

歌・悲のそれぞれ一字だけに限定されているが、国語のもつニュアンスは

もっと多様である。字音としては懐・念・想・憶などの字もあるが、そのように

「おもう」ことはできず、また唱・謡の字もあげられているが、音訓表では

「唱う」ことも「謡う」こともできないのである。


 漢字は意味をもつ文字であるが、訓をもたない文字は

記号化して、新しい造語力を失う

おそれがある。

音訓表には、「あやまる(誤)」はあるが、「あやまち(過)」はない。

人に過のないものはないから、それは過失というべきであろう。この過は、

近年に至ってようやく訂正された。


 いまの年輩の人たちは、総ルビつきの赤本などで、少年のときから多くの

文字を自然に学びえたことを、懐かしく思い出すであろう。

いまは、旺盛な吸収力をもつ若者たちが、

とざされた言語生活のなかで、知るこ

とを拒否されている。

かれらは多くの語彙、ゆたかな表現の

なかに、情感の高められる緊張の

快さを知らない。


もしいまの少年たちに書物ばなれの傾向があるとすれば、その一端は、

この抑圧された文字環境にあるのではないかをおそれる。


明治・大正期の詩人たちは、ことばの意味や音感はもとより、その用字の

視覚的な印象、活字の大きさ、紙面での字の排列にまで心を配ったもの

である。文学や思想は、生活語のように言語過程としてあるものではない。

字の形体は表現に関与し、またその美学をささえてきたものである。


 漢字は久しく文字論からも外され、敬遠あるいは無視されていたように思う。

しかし文字としての漢字は、通時的表記として古今にわたる大量の文献

をもち、独自のすぐれた条件をそなえている。


特にそれを音訓両様に用いるわが国

においては、国語の欠失面を補う

もっとも好ましい文字であろう。


 この小さな書物では、漢字の文字論的問題にもなるべくふれることを試み

たが、詳しく述べる余裕はなかった。ただ漢字の問題に関心をもたれる方々

に、いくらか問題への視点を提供することができれはと思うのである。
     昭和53年4月                                            白川静

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/~s_suzuki/html3/book_kanji.html#chosha

著者紹介 白川 静(しらかわ・しずか)
1910(明治43)年に生まれる。1943年、立命館大学法文学部文学科卒。

同大学文学部特任教授。文博。専攻、中国文学(古代)。

2006年10月30日、内臓疾患により死去。享年96歳。

 著書『稿本詩経研究』『甲骨文集』『金文集』『金文通釈』『漢字』『詩経』

『金文の世界』『甲骨文の世界』『孔子伝』『中国の神話』『中国の古代文学』

(Ⅰ・Ⅱ)『漢字の世界』(1・2)『初期万葉論』ほか


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日本語には、いろいろな語彙(ごい)があり、豊かな表現ができる言葉が

あると白川氏は語っておられる。そのような情感豊かな言葉を知らないと

いうことは、それだけ、情感が高められる緊張感を味わうチャンスが

無いということだ。言葉を知るということは、自分の感情を整理し、相手に

上手く伝えることができるということだ。

自分が何を感じ、何を考えているのか、言葉を知らなかったら、相手に上手く

伝わらず、もどかしく感じることだろう。


「うざい。」「きもい。」「ムカつく。」「チョーかわいい。」だけで、自分の気持ち

を表現でき、相手にもそれだけで十分伝わるのだとしたら、彼らの心の構造

も脳もすこぶる単純だということだろう。しかし、人間とはそんなに単純な

生き物ではない。人間とは言葉という道具を使って、自分の内部の複雑な

感情や自分の脳の中の知識を他の個体に伝え、子孫に知恵や知識を

伝授していくものなだ。


言葉を学習することで、感情表現が豊かになり、心のひだばかりでなく、脳の

ひだも細かくできる(シナプスの数?)としたら、やはり、日本の子供には

いろんな本を読んで、使える日本語の語彙をたくわえ、情感豊かで賢い人間

に育ってほしいと思う。


学校になじめず、すぐキレる問題児を調べると、自分の感情をうまく言葉で

表すことができず、そのストレスでイライラして、つい周りの人間に対して

単純な罵声と態度で怒りを表現するタイプもいるらしい。


家庭内暴力も、妻の言葉にうまく返せない夫の怒りといらだちが、暴力と

いう形で現れたものかもしれない。しかし、夫を激怒させるような冷たい

言葉を機関銃のように繰り出す被害者である妻も、結果的に自分が殴られる

という結果を生んでいるので、言葉を上手く使い切れていない人だとも言える。


何でもかんでも自分の心の中にある感情を、言葉で表現しているとケンカに

なるのは必須だ。生きていくためには自分の心の中の醜い感情は、

ストレートに表現するより、隠した方がいい場合があるだろうし、相手に自分

が嫌だと感じることを上手に言葉で表現して、相手に止めてもらうように

お願いして、結果的に自分が得するように導く方がいいだろう。

相手の表情や、言葉などを複合的に観察して、相手のコンディションに合わ

せて自分の要求を言葉で放つなど、タイミングを図るなども大切なことだろう。

言葉を上手く操れる人間になりたいものだ。



蛇足:


漢字は、字の構造的な意味を理解したうえでいじるならまだなんとかなる

だろうが、単純に符号化してはいけないというお話でした。

言葉をいじって単純にしてしまえば、人間の精神構造も言葉に引きずられて

単純化されるかもしれません。


余談:


支那の漢字では、上海語や広東語の話ことばを全部表現できないそうです。

支那の漢字は、あれは政治に便利な政治的な言葉なのだそうです。清国の

支配者である満洲人が、北京で使った言葉が北京語になったそうです。

満洲人は、四声しか使えなかったため、北京語は四声になったそうです。

満洲語はもう廃(すた)れてしまって、読める人がモンゴルの一部の満洲系の

村にしかいないそうです。


脱線:


そういえば、大阪や京都の言葉で、標準語に直せば長い説明がいるような

言葉も、結構あります。地方でも、標準語で一言で表せないような独特な

言葉もあると思います。昔は関西が日本の中心であったなごりで、

関西人が東京に出ても関西弁を恥ずかしがらないで使うのかな。

でも最近、ダウンタウンの浜ちゃんが標準語に近い言葉をたまに使うように

なって、聞いていて気持ち悪い。