日本語の「支那」は、英語の「チャイナ(china)」と同じ言葉だ。
日本語の「支那」は、英語の「チャイナ(china)」と同じ言葉だ。
秦の始皇帝が、はじめていまでいう中国を作ったので、外国の人々
は中国を「秦」と呼ぶようになった。漢字の「秦」の読み方は、7
世紀の隋の時代では「ヅィン(dzin)」、現代の中国語(普通話)では
「チン(qin)」だ。これがインドに伝わって「チーナ(China)」となり、
ペルシア語では「チーン(Chin)」となり、アラビア語では
「スィーン(Sin)」となった。15世紀の末になって、ポルトガルが
大西洋からアフリカ大陸を回ってインドに到着し、そこで東方にチ
ーナという国があることを聞いた。このインド語の「チーナ」がポルト
ガル人の口から西ヨーロッパ人に伝わって、英語の「チャイナ」、
フランス語の「シーヌ(Chine)」、ドイツ語の「ヒーナ(China)」になった。
1708年、ローマ・カトリック教会のイエズス会に属するシドッティというイタリア人宣教師が、キリシタン禁制の日本に潜入をくわだてて、
屋久島で逮捕され、江戸に連れてこられた。新井白石はシドッティ
を尋問して、聞きだした世界知識を『采覧異言』という書物に1713年
まとめた。このなかで新井は、イタリア語で中国語を言う
「チーナ(China)」を漢字で「支那」と翻訳した。この「支那」は、もともと
仏教の経典を中国で翻訳したときに、インド語の「チーナ」の音にあ
てた漢字だったが、新井がこの音訳漢字を探し出してきて、イタリア
語の「チーナ」に当ててから、日本では中国を「支那」と呼ぶように
なった。
19世紀末になって、多数の清国留学生が日本に押し寄せてきた。
かれらの大多数は漢人だったが、かれらは日本で、日本人が、
漢とか、唐とか、明とかいう歴代の王朝の名前に関わらず、漢人の
国を「支那」と呼ぶことを知った。当時は民族主義が生まれつつある
時代だったので、清帝国の支配者である満州人から、本来の漢人
の国を区別する「支那」という名前は便利だった。
こうして「支那」という日本語が清国に伝わったが、漢字は意味を
あらわす文字なので、「支那」のような無意味な音訳はしっくりこな
い。そこで満州語からの翻訳の「中国」を借りて、日本語の「支那」に
当てたわけだ。まもなく、20世紀のはじめに清朝が滅亡して、漢人の
中華民国ができ、ここにはじめて、中国という名前の国民国家が
誕生した。こうして「中国」は、現代のような「中国」という意味にな
ったのだ。日本語の「支那」の言い換えとしての「中国」の意味の
ひとつになった。
(以上:岡田英弘『歴史とはなにか』P189-190より引用)
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戦後、なぜか中華民国が「支那」と呼ばないでくれと日本に言ってきたので、
日本政府は、議会を通さず、通達を出して、「民国とか中国と呼ぶように。」と
おふれを出す。それまでは支那語学科とか呼んでいた呼び名をいっせいに
中国語学科とか中国人にかえたそうだ。日本に中国という地名があるのに、
「我が国」のことを「中国と」呼ぶ呼び名もあったのに、戦争に負けた卑屈さ
から、「支那と呼ばれるのが嫌なら、とにかく変えてあげよう。」という、わけの
わからない素早さで、支那という呼び名は死語になったのだった。
中国などより、支那という名前の方が、ずっと前からあったのだ。
支那という名前は、チャンとかチャンコロとかいう呼び方に比べて、相手を
尊重する呼び方だったし、漢人にとっては、どんどん枝が広がるという意味も
あって、誇りにしてもよい名前なのだそうだ。
「中国」という呼び名の方が、自分の国は世界の中心で、他の国は、周りの
蛮人の国という意味で、失礼な言葉だ。
まさに中華思想を表す、中国以外の国に対しての差別用語だ。
支那と呼ぶのがダメなら、チャイナもダメなのだ。チャイナは、外国が秦を
なまって呼んだ呼び名だし、インド人がチーナと呼んだからイタリア人もそう
呼んだし、日本人もシナと呼んだのだ。何がいけないのだろう。
誰かが、支那は木に対する枝だという意味だとか、「しななんとす」だとか
でたらめを蒋介石に言ったかで、イメージが悪くなったという話しもあるが、
本当かどうかは分からない。